Ria and Yuzuha's story:Second pray【楽園】〔9〕

 緊迫した空気をアークはまったく意に介していなかった。
 魔族との同化を目の前にいるリアに強要したというのに、その姿はいまでも淡くきよい光を放っているかのように、闇の中にたたずんでいる。
「魔族と人との接点は、人が思うより多いのです」
 アークは胸元のダイヤモンドへと手を触れた。
「呪法による人間への干渉。逆にこちらが魔力を取りこむための食餌。憑依。同化。そして―――不死の契約」
 低空を滑り、街をすり抜ける風のどこかもの悲しい唸りが聞こえ、アークの白い裾をはためかせた。
 白。
 清めの色だ。
「昔、わたくしは契約を結んだ魔族と同化させられました。かりそめの不死を確かなものとするために」
「いつ?」
 リアはきつく顔をしかめた。
「それは、いつ?」
「レティディウス公国をご存知ですか」
 シルフィールが愕然とアークを見た。
「まさかそのときからずっと………!?」
 数百年前に存在していた公国の最後の公王が求めていたものは今更、口に出す必要がないほど知れ渡っている。
 莫大な報奨金をかけて不死を求めた結果、わずか二年で公国は滅びる。
 数々の名残だけをいまに残して。
「わたくしは、そのとき盛んに行われていた不死の研究の実験体のひとりなのです。ある意味、実験は成功しているのかもしれません。わたくしはまだここにいます」
「そのときからずっと生きているの………?」
「ええ」
「辛くない?」
「いいえ」
 不意にアークが声をたてて笑った。
 笑い声が鈍く暗い運河の水面を打ち、石畳に跳ね返って幾重にも残響を残す。
「この街は、不思議な街です」
 また、残響。
「初めて来たときにはただの街で、あの樹も湖もなかったのに。瓦礫のなかから何度でも立ちあがる、不思議な街―――」
 だからわたくしはこの街が好きなのです、とアークはその身に魔族を宿しているとは思えない清澄さであたりに視線を巡らせた。
 いとおしさに溢れた、女神の表情だった。
「だから神聖樹フラグーンの聖女様。わたくしはあなたのことも大好きなのです」
 シルフィールはあきらかに戸惑った表情でアークを見た。
 漠然とリアは理解した。
 アークは人が好きなのだ。
 恨むことの憎むこともない、それこそ神のような視点で、世界そのものを愛している。
 不死者にありがちな、終わりのない生を疎んじている様子が、ない。
 彼女にとって世界は楽園。
(どうしよう)
 リアは唇を噛んだ。
 あれだけのことをされたばかりだというのに。
 どうしても、嫌いになれない。
 寛容にも限度があるはずだ。
「ずっと、ひとりなの?」
「くーん」
 ユズハがリアを呼んだ。
 どこか咎めるような響きのある硬質な声音にわずかに笑って応え、リアはアークへと一直線に視線を向ける。
「ずっといままでひとりだったの?」
「いいえ」
 とうめいな双眸をますます透きとおらせるような仕草で、アークは目を細めた。
「最初からだれも隣りにいなかったのなら、さみしさを覚えることもないのでしょう」
 その言葉はさらりとしていて、逆に心の芯を刺す。
「実験体はふたり。わたくしと、もうひとりいました。傷を舐め合うために共に在ったのか、本当にあのひとのことを愛していたのか、いまでもわからないのですけれど」
「そのひとはどうしたの」
「彼は心をたもてませんでした」
 その顔から微笑が消える。
「同化した魔族に喰いつくされて―――魔族として滅びました。生きていることは辛くありません。わたくしが死ぬときは彼のように魔族として死ぬしかないのですから、生き続けるしかありません。ただそれでも時々………」
 声にならない声が、リアに届いた。


 さみしくて、かなしい。


 得られるものなど何もない。
 最初から意味など存在しない。
 ただそうするしかすべがない。
「どうして………」
 リアは目を閉じて、開いた。
 ふるえるものが、心の奥にある。
「どうして、あたしを選んだの」
「………なぜでしょう」
 少し霧が出てきた。
 煙るような視界のなかで、街灯の明かりと夜の闇がどこかぼやけて混在する。
「なんとなく、あなたはわたくしと似ているような気がしたのです」
「クーン、よ」
 まだ、名乗っていなかった。
 信じられないことに。
「あたしはリアで。クーンでもあるわ」
「言葉はうつろうものです」
 アークは懐かしそうな顔をした。
「滅びゆく言葉だからこそ、名付けられる名もありましょう。わたくしが本当の意味で生きていたとき、あまりにも含むものが多すぎて、誰も名前などには使わなかった。ですが、良い名です。あなたに良く、似合っています」
「そう………」
 リアはシルフィールのほうをふり返った。
「神殿に戻っていてください」
「リアちゃんが一緒なら」
 子どもを叱るような顔つきでシルフィールがそう告げた。
 まだ緊張した表情でアークを見ているが、もはや彼女からは何の意図も読みとれない。もとから敵意など微塵も持ち合わせていない敵、だった。
「ユズハも」
「イ・ヤ」
「戻って。お願い」
「ヤ!」
 こういうときのユズハは頑として自分の意志を曲げない。
 リアは有無を言わさぬ口調で告げた。
「戻らないなら、あんたを運河に突き落として、その間にあたしがアークとこの場から離れる」
「…………!」
 ユズハがその橙紅色の瞳を大きく見開いた。
 ぽん、とその頭を軽く叩く。
「助けに来てくれて、ありがとう。ユズハ」
「…………」
「先に戻ってて」
「………くーん」
 ユズハの手がぐいとリアの手を引っ張った。
「くーんと、あーくは、似てナイ。同じ、違ウ。だっテ、ゆずはとくーんは、似てナイ」
「………ユズハ」
「あーくは、キライ。くーんは、スキ」
 言って、ユズハはぷいと顔を背けた。
「それだけ。先に帰ル」
 ユズハはシルフィールのところに走り寄った。
 シルフィールは怒ったような表情でリアを見ている。
「ちゃんとした説明が必要ですよ」
「はい」
 おとなしくリアはうなずいた。
 これが甘えだということは充分に自覚している。
「どうしてあなたはそんなに危ういんですか」
「母さんや父さんのようにはなれません」
 両親とは決定的に違うものが自分のなかにはある。
 いつのころからか、漠然と感じていた。
 いまでははっきりとわかっている。
「………それでも。あなたはリナさんとガウリイ様の子どもなのですよ」
 リアは黙って笑うことで返事をした。
「朝までには帰ります」
「くーん」
 その声が扉の隙間から射し込まれる刃物のように、鋭く心に押し入った。
 鋭い刃のような声だ。
「待ってル。バカ」
「バカは余計よ」
 そして、リアはアークに向き直った。




 アークは少し驚いたように目を見開いていた。
「どうして先に帰してしまったのですか」
「たいしたことじゃないわ」
 リアは華やかに笑って、抜いたままだった剣をアークに突きつけた。
 彼女はこちらを見つめたまま微動だにしない。
 怯えてもいない。戸惑ってもいない。
「口止め、しておこうかと思って」
「…………」
「気づいたんでしょ?」
「………ええ」
 困ったような笑みだった。
「釘を刺されずとも誰にも喋りませんよ」
「それではダメなの」
 赤い光をまとった切っ先がアークの白い喉もとに小さく食いこんだ。
 わずかに柄を握るリアの手がふるえた。
 微細なふるえは切っ先に伝わる頃には大きなものになり、赤い筋が横一文字に浮き上がる。
 白い肌に浮いた赤い線がみるみる太くなり、ひとすじ、喉もとをスルリと伝い落ちた。
 その血が頸筋を蛇のように這いながら、鎖骨に届く前に薔薇の花弁へと変わり、リアとアークの間でその色が抜け落ちて、白い灰となって風に散る。
「これだけは譲れないわがままです」
 アークは自らの喉もとに指先で触れた。
「魔族のように、黒い塵になどなりたくありません」
「とても綺麗だわ」
 うっすらと笑って、リアは剣を鞘に収めた。
 これにはアークのほうが意外そうな顔になる。
「どうしてわたくしを殺さないのですか」
「殺せるの?」
「わかりません」
 リアは相手との距離を一歩、縮めた。
「けれど、わたくしは生きていてはいけないもの。摂理に反するものです。しかもあなたに魔族を同化させようとした」
 アークは自ら言った言葉を理解できない子どものように首を傾げた。
「どうして殺そうとしないのです?」
「殺す方法がわからないもの。剣で斬っても死にそうにないし」
 リアは肩をすくめて、それから少し笑った。
「それに摂理に反するものならあたしの隣りにもいるから。ただそれだけの理由であたしはあなたを殺そうとは思わない。あなたがあたしにやったことに関しては―――」
 笑みの種類が自嘲に変わる。
「あんなことをされても、あたしはあなたを嫌いになれない。殺したくないわ」
「わたくしもクーンのことは好きです。………だから、隣りにいてくれないかと思いました」
「ありがとう」
 その願いにはとても承諾できないとしても、リアは素直にそれが嬉しかった。
 また一歩、距離を詰める。
「あたしたちは似てる。ユズハが何と言おうと似ているわ。お互い目指しているものは一緒でも、方法がまったく正反対なのよ」
 自分はありとあらゆる感情を、覚えた瞬間に外に吐き出すことで心の均衡を保っている。
 たとえ、どちらか一方に感情がひどく傾いたとしても、次の瞬間には同じくらい反対側に傾いている。それで保たれたことになる。
 それはまるっきりアークとは逆で。
 けれど結果たどりつく場所は同じで。
 これ以上はないほど、彼女のことがリアには慕わしく思える。
 どうして出逢ったのだろう。
 ただひとりの同志。 
「いいえ」
 アークが、静かにかぶりをふった。
「あなたとわたくしは似ていると先程、言いました。それでも、あの精霊の乙女の言うことは正しいのです。やはり、あなたとわたくしは、違う」
 彼女はその細い首から自らの契約の石を外し、てのひらにのせて差し出した。
「どうぞ。口を噤んでいるという証に、これを」
 艶を帯びた白い指先から、無数の反射面を持つ透明な石がリアのてのひらにこぼれ落ちる。
「これをこわしても、わたくしは死にはしないでしょう。しかし不死ではなくなるでしょう」
 リアはその宝石をきつく握りしめた。
 ひんやりした冷たさが手袋越しに伝わってくる。
 とてもこのなかに、人ひとりのいのちが封じられているとは思えない。
 これを毀せば不死の契約は打ち砕かれる。
「これを毀そうと、思ったことはないの?」
「無意味です。例えわたくしのいのちが消えても、魔族がわたくしと同化していることに変わりはありません。わたくしの自我が消えることもない。それどころか、弱ったわたくしを魔族は喰いにかかるでしょう」
 ゆっくりとその両手が広がった。
 袖がゆるやかに風にはためく。
「わたくしの体は同化した魔族によって永遠に朽ちることなく在り続ける。わたくしが死ぬときがきたとしたら、それは魔族に支配権を奪われ、魔族として滅びるときです。わたくしは魔族になどなりたくない。だれかを傷つけたくなどない。だから生きてゆくのです」
 心をうつくしく保ち続ける限り、負の感情を発さない限り、その目的は達せられ続ける。
 最初のうちは何度か危うかったが、もはや慣れた。
 すべての事象はアークの心に触れることなくスルリと通り抜けていく。
 女神のこころ。
 そして、死者のようなこころ。
 時折どうしようもなく独り在ることが哀しくなることがあったとしても、やはりすべては、いとおしい。
「たとえ生きていくことが悲しいだけだったとしても、わたくしにはそれを手放すことなどできません」
「どうして?」
「だって―――」
 彼女は泣きそうな顔で微笑んだ。
「世界はあまりにも綺麗なのですもの。魔族になってすべてを滅ぼしたいだなんて、思えない」
 リアは彼女を抱きしめた。
 華奢な肢体は折れそうで軽くあたたかく、当たり前にただ生きている人のようでしかなかった。
 とてもその身裡みうちに魔族を宿しているとは思えないほどに。
「黙っていて。ずっと黙っていて、お願い………」
「ええ」
 その肩に顔を埋めながらリアはささやいた。
「そしてもう二度と、他のだれにもこんなことしないで。そのときがきたら、あたしが、アークと共に逝くから」
「いいえ。いけません」
 アークの指先がリアの頬に触れた。何度目かの仕草だったが、今度は嫌ではなかった。
 払いのける気は起きない。
「信じなくてもいい。けれど、あなたにそうさせるくらいなら、わたくしはあなたの言う通りにします。だから、そのときが来るなどと考えてはいけません」
「そうかしら」
 リアは不安定な声で呟いた。  まるで泣き出す寸前の子どものようだと自分でも思う。
「あたしは正しくなどない。これでいいのかわからない。いつかそのときがきて、何もかも打ち壊していくような気がしてならないの」
「わたくしも自分が正しいのかなんてわかりません。ただこうするしかないだけです。そして、わたくしのようにはなれないといったのは、クーン自身です」
「そうよ。なりたくてもなれないわ」
「ならば、正しくなくても歩いていきなさい。そして、いつかわたくしを………」
 アークは母親のようにリアの頭を撫でた。
「魔族にならずにすむような方法で、殺してくださいね」
 どこまでもどこまでも綺麗で真白なまま、薔薇の花弁と化して逝けるように。
 世界がいとおしい楽園で在るうちに。
 愛するそれらを害さないでいられるうちに。
「………わかったわ」
「ならお帰りなさい。きっと心配しています」
 リアは唇を噛んでうつむくと、もらった契約の石を首から下げた。
 アークにさえ突き放されたような気がしているが、それは自分の錯覚だ。
 家族よりもユズハよりも、自分のある一面を理解してくれているのは、間違いなくこの目の前のアーク。
 今日、出逢ったばかりの女性だ。
 預けられたいのちをリアはきつくきつく握りしめた。
 帰らなければ。
 そう約束した。待ってる人々がいる。
 ゼフィアを、セイルーンに連れて行かなければ。
 ミレイとは、できれば仲の良い友だちになりたい。
 やることはいっぱいあって、この夢のような邂逅などに、いつまでも浸ってはいられない。
 この出逢いは、長くどこまでも続く生きていく時間のなかでは、思わず足を止めてしまったほんの一瞬でしかない。
 いくら不安だったとしてもそれだけで頭のなかをいっぱいにして生きているわけではないのだ。
 不安を抱えこんだままでも、笑えるし、怒れる。
 ここから立ち去って、また歩き出さなければならない。
 たとえ、それが正しくなどなくても。
 アークと出逢えたことを幸運に思って。
「もし、あたしがあなたを殺せずにいたら、いつかユズハと………できれば仲良くなってあげて。あの子もきっと………永遠を生き続ける」
 それだけを言ってリアはアークに背を向けた。
 ふり返ったとき、彼女の姿は白く溶けて見えなくなるところだった。
 霧なのがいけない。
 閉じこめられて、時間が永遠のように感じられていけない。
 あたたかいまゆのなかに思えてしまうから、いけない。
 アークではなくリア自身が不安に怯えていて。
 また会いたいと、心から思った。