Ria and Yuzuha's story : First access 【眩暈】 〔4〕
「あなたがユズハちゃんですか。初めまして」
翌日。
予想通り、セイトとフラウはユズハをともなってやって来た。
リアは街の道具屋に売りさばく予定の調合済みの薬を選り分けながら、ゼフィアがユズハの前にかがみこむのを観察していた。
ユズハは相変わらずの透徹とした瞳でゼフィアを見あげている。
「ダレ?」
「ゼフィアです。ゼフィでいいですよ」
「………ぜひ」
「………ゼアでもいいですよ」
リアが必死で笑いをこらえていると、しばらく硬直したように首を傾げていたユズハがぽんと手を打った。
「あ。大きくなルと、ちゃんと言えルかも。ちょっと待つ」
「それこそちょっと待てっ!」
思わずリアは手近にあった空瓶をユズハの後頭部めがけて投げつけた。かなり景気のよい音がして、薄黄色の頭が傾ぐ。
「くーん。何すル」
「それはこっちのせりふよッ! あああっ、何でもない。何でもないからっ!」
慌ててリアは、呆気にとられているゼフィアとセイトに弁解にもならないことを言った。
不意に視線を感じてふりかえると、フラウがその漆黒の瞳でじっとリアを見つめている。
「 ユズハ いじめ ない で 」
「あ、ああっと………いまのは注意しただけで………」
「ホントですか?」
疑わしそうにセイトが訊ねる。
「本当よ! 発音がいまだにしっかりしないから注意したの! ゼフィ、このブルーリーの実はどうするの?」
むりやり話をごまかしたリアを不審そうな顔でみたものの、ゼフィアはそれに応えて指示を出す。
彼の服の裾を、ユズハがくいくいと引っ張った。
「ぜあ、ぜあ」
「なんです?」
「それ、何」
「それって、どれですか」
「顔」
必要最低限のことしか言わないユズハの言い回しに早くも慣れてきたらしく、ゼフィアはうなずいた。
「ああ、これですね。これは光を遮っているんです。病気の眼に毒なので」
「毒?」
ゼフィアの視線がかがみこんでいて低くなっているのをいいことに、ユズハはぺてりとその目隠しの布に触った。
「じゃ、見えナイ?」
「ええ、見えません」
「光、キライ?」
「嫌いではないですよ」
ユズハはゆるくまばたいて、ぽつりと言った。
「じゃ、寂しイ、ね」
ゼフィアは少し驚いたように沈黙した。
「………不思議な子ですね」
「フシギ?」
「何でもありません。フラウと遊んでらっしゃい」
「ン、遊ぶ」
ユズハはとことことフラウの方に向かって歩いていった。
ゼフィアは立ちあがると、何事もなかったかのようにセイトの方を向いた。
「何でも好きなものを持っていってください。調合法の書かれた本とこれまでの調合書だけはダメですけど、書き写したいんでしたらそれもお貸しします」
「はい」
セイトは何か訊きたそうにゼフィアを見ていたが、諦めたようにそう言って部屋のなかを見てまわり始めた。
リアも特に仕事の手を休めようとはせず、薬草を煎じた液状の薬やら軟膏やら粉末やらをひたすら分類し続けた。名前を知っているものはごくわずかで、あとはゼフィアに訊ねながら処分するものと持っていくものとに分ける。
フラウとユズハは、ふらふらと家の外の林で遊んでいるようだった。これまた、ただ単に歩いているだけなのを遊んでいると言うのならだが。
昼を過ぎたころに、ゼフィアが休憩しましょうと提案し、リアはセイトが淹れてくれた茶を片手にゼフィアの向かいの椅子に座った。
セイトはといえば、フラウとユズハを呼びに外へと出ている。
「実際に会え、と昨日言われた理由がわかりました」
ゼフィアが苦笑しながらそう言った。
「まあね、ユズハってば変でしょ」
「不思議な子です。声に全く抑揚がない」
予想外のことを言われ、リアは首を傾げた。
「抑揚?」
「はい。どんな人であれ、誰かと会話をするときには声に調子をつけるものです。顔と同じで声には表情があります。私などはそれを聞いて人の様子を判断するしかないですから、普段から注意して人の声を聞いています」
そう言って、ゼフィアは香草茶をひとくち飲んだ。
「けれど、あの子にはそれがない。ただの音の連なりです。もし本が自らの内容を喋りだすことがあるとしたら、ちょうどあんな感じだと思います。さっき、あの子は私と話しているとき、どんな様子でいましたか? 私には全然わかりませんでした」
リアは答えをさがして沈黙した。
ユズハと会話を交わしていても、さっぱりその内面は読めない。十数年間つきあっているが、いまだにわからない。
「どんなって………普通よ」
「普通とはどういうことですか」
「そのまま。目の前に自分の知らない誰かがいたからダレって訊いて、布が気になったから何って訊いて、そして多分……本当に寂しいと思ったからそう言ったんだわ」
リアの言ったことを理解しようと、ゼフィアはしばらくカップに手も触れずに考えこんでいた。
「それは、たしかに情緒面に問題があるような………。怒ったり泣いたりしますか?」
「いや、全然」
リアはあっさり否定した。
ユズハを普通の子どもの枠に当てはめようとしても、どうやっても当てはまらないだろう。人間の枠にすら当てはまらないのだから。
そんな存在だからこそ、おそらくフラウはユズハを自分の世界の一部として認めているに違いない。ユズハが人間ではないことを基にした推測なので、ゼフィアに聴かせるわけにはいかないが。
「だから、問題だらけなんだってば。このうえはユズハも治す、とか言い出さないでね」
「言いませんよ。それとも、何か理由があってああなんですか?」
「違うわよ。もとからああ」
ゼフィアはカップをテーブルに置いて立ちあがった。
「だいたい、薬師や神官が治すのは怪我や体の病であって、心ではありません。心が治るとか治らないなどと定義すること自体が間違っています」
銀色の髪が微かに揺れた。
「心が弱かったとか強かったとかでもない。強弱や優劣がつくはずもない」
「―――じゃあ」
喉が渇いているような気がして、リアは香茶を口に含んだ。
「フラウさんは? 彼女はどうして?」
「それはフラウにしかわかりません」
「詭弁に聞こえるんだけど」
何かの本を取りだしかけていた手を止めて、ゼフィアがリアの方を向いた。
「フラウが家族と共にいることに、どれほどの価値をおいていたかなど、私たちにわかるはずがありません。もし彼女が家族と仲が悪くて、家族を憎んでいたとしたら、同じ目にあってもああまではならないでしょう。そういうことです」
「…………」
そうかもしれない、とリアは思った。
どれほど好きで、どれほど愛おしいかなど、その人の心の中で何がどれほど占めているのか、他人にわかるはずがない。
しかしやはり、限りなくそれは詭弁に聞こえる。
「でも、その理屈でいくと、フラウと同じ様な目に遭っても普通に暮らしている人は、フラウほど自分の家族のことを愛していなかったということになるけど」
「その人は還ってきただけです」
「還ってきただけ?」
「体は死んでしまえば転生を待つのみですが、心は死なない。あちらとこちらを往還できる。不思議ですね。治す治さないの定義などできない代わりに、あちらとこちらがある」
「あちらとこちら」
「世界と異界。そう言い換えてもいいですね。究極的に言ってしまえば、ひとりひとり世界は違うものですが。まあ、私の私見です」
ゼフィアは本棚に残っていた本を全部、腕のなかに取り出した。
「往くのは簡単ですが、還ってくるのは難しい。往きて還るというのは、生きて還るということです。克服して、生還する。それは並大抵のことではない」
「…………そうかもね」
まだどこかで納得しきれていなかったが、反駁する気も起きず、リアは曖昧にうなずいた。
たしかに生還するということは、ひどく難しいことだ。その代わり、力強くもある。
「フラウさんは、そうなれるの?」
「無理でしょう」
ゼフィアは、ひどく穏やかにそう言った。
「必要なのは、時間とそれにともなう経験、そしてその人の隣りにいてくれる誰か、または帰る場所の存在です」
「…………」
リアはちらりと横目で窓の外を見た。セイトがフラウの純白の髪にからみついた葉っぱを一枚一枚ていねいに取り除いてやっている最中だった。
木漏れ日に縁取られた光景は、痛みをともなって鮮明に目に焼きつく。
「………一応、必要なものは揃ってると思うけど」
「まだありますよ。話の途中です」
ゼフィは苦笑したようだった。
顔の上半分が布でおおわれているにもかかわらず彼の表情の変化は、はっきりと伝わってくる。――もしかしたら、リアがゼフィアの微妙な表情の変化に慣れてきただけかもしれない。
「最後に、還りたいと願う、その人の意志も必要だと思いませんか」
リアはわずかに眉根を寄せた。
しばらくして、溜息と共に呟きが洩れる。
「………そうね」
フラウには、その意志がない。
椅子に座ったままリアはゼフィをふり仰いだ。
「なら、あなたに彼女を治す気はないのね」
「その質問は無意味です。私はもう薬師ではありません。治す治されるの問題ではないと先程も言いました。それに……」
目をおおう布にそっと指で触れ、ゼフィはひっそりと笑った。
「私は、もうどこにも往けません」
「ごめんちょっとユズハ借りるわね」
相変わらず薬棚の整理を延々と続けていたリアは、セイトたちが帰り支度をしているのを見て、ユズハを横から引っさらった。
「うむ、ナナメ」
小脇に抱えられたユズハは、べろーんとのけぞって視界が逆転するのを楽しんでいるらしい。
外に出たところにある切り株のひとつにユズハを降ろすと、リアは腰に手を当てて問いかけた。
「ねえ、ユズハ。あんたいつまでフラウさんと一緒にいるの?」
「いつまで?」
その淡い金髪をさらりと揺らして、ユズハが無表情に小首を傾げた。
「だから、あたしはずっとこの街にいるわけにはいかないから、そのうちまた旅立つけど、あんたはどうするの」
「くーん、が行クなら、ゆずはも行ク。どうしてそんなコト聞ク?」
あっさりそう言われて、逆にリアは腹が立ってきた。
「どうしてって、あんたフラウさんはどうするの。あんた、フラウさんのこと好きじゃないの?」
「ふぅ、スキ。それが?」
金の睫毛に縁取られた橙紅色の瞳が、空虚な穴のようにリアを見返した。
混じりけのない純度の高い瞳は、坩堝のなかで真っ赤に熔けた金属を思い起こさせる。
「ゆずは、ふぅスキ。くーんはもっとスキ。ゆずは、ずっとここにはイナイ。それだけ」
ユズハは淡々と言葉を紡ぐ。時として、それは巫女の託宣のように聞こえてしまう。
「………よーくわかったわ」
リアは額を押さえて小さく呻いた。
相互理解を求めたうえに、さらに意見を聞こうとしたのが間違いだったらしい。
ユズハは両足を揃えて切り株の上から飛び降りると、わずかに首を傾げてリアを見あげた。
「ふぅは、ゆずはのコト、スキじゃナイ」
「………え?」
思わずリアは聞き返した。
「ふぅ、は、ずっと同じコト言ってルの。ゆずはにしか聞こえナイ。だから、一緒いルの」
風がかさかさと落ち葉を揺らしていく。日が傾いてきたせいで、気温が下がって少しだけ寒い。
無意識のうちに、リアはユズハを抱きあげていた。ユズハがきょとんとまばたきをする。その体は体温が元から存在しないため、ひどく冷え切っている。
「フラウさんは、なんて………言ってるの」
「ずっと笑ってる―――“救わないで”」
(救わないで、おねがい)
その夜、リアは夢を見た。
飴色に色づいた秋の陽光を飾りにして、色づいた木々の葉が後から後から舞い落ちてくる。
夢ゆえの理不尽さがこの何の変哲もない光景にもまかりとおっていて、頭上の枝に葉はそれほど残っていないにもかかわらず、大地に降り積もっていく葉はとめどなく終わりがない。
古木に巻き付いた野生のブドウが艶やかな実りを見せているその根元には、木イチゴの茂みがあり、赤黒い点がぽつりぽつりと顔を覗かせている。
大気の塵が光の筋を際だたせて、無数の天への柱を建てていた。
光というものは何とも言えず綺麗なものなのだなと、夢のなかでリアは思う。
赤。黄。茶。琥珀。大地の色。果実の赤と紫。そして淡い光。
実りと、それにともなう死と再生。
木立がひらけたその中央に純白のフラウがぽつんと独り、座りこんでいた。
髪も肌も服も白いそのただなかに、濡れたような艶を帯びた黒い瞳が一対、何も映すことなく存在している。
それはひどく乖離した光景だった。
絵のなかに現実の人間がいるように、またはその逆で、現実のなかに絵に描かれた少女が座りこんでいるように、フラウを形作る輪郭とその周囲の色彩の間には奇妙な浮遊感があった。
(このまま風が吹いたら)
リアは思う。
(彼女だけどこかに飛んでいってしまいそうな)
幸い風は吹かず、はらはらと落葉は続き、違和感をともなったフラウの髪にも肩にも、乾いた葉は降り積もる。
とりのぞいてあげなければ。
そう思って手を伸ばした途端、フラウは立ちあがって足音もなく歩き始めた。
ふわふわとしたその歩行に追いつこうとすればするほど、遠ざかっていく。
焦って必死に手を伸ばして捕まえた瞬間、手のなかの存在が一変した。
―――クーン。
(だれ?)
それを確かめるひまもなく、それはユズハに変わり、母親の姿になり、弟と、妹同然の双子となり、ありとあらゆる知り合い全員に目まぐるしく変化したあと、最後にゼフィアの姿になって消えた。
「………最っ低」
痛む頭を押さえてリアはベッドから身を起こした。
サイドテーブルの水差しをひっつかんで、水を喉に流しこむといくらか気分がすっきりしたが、夢の名残ともいうべき思考をめちゃくちゃに引っかき回されたような感覚は消えない。
「ユズハ?」
いつものように名前を呼んだ後で、ユズハはいないことに気がついて、ますますリアは不愉快になった。
寝る、という行為自体を必要としないユズハの眠りは、リアの眠りに付き合うという意味以上のものを持っていない。
それゆえ普段、彼女が夜に目覚めたときは、きまってユズハも目を覚ましていた。
そのユズハはフラウのところに行っていて、リアの隣りにはいない。
こんなことなら、ゼフィアに頼んでブルーリーの実でも分けてもらうんだったと思いながら、リアはベッドから降りた。
薄墨を流したような闇のなかで、肩口に降りかかる自分の髪だけがぼんやりと白っぽく浮かびあがっているのを見て、リアはさっきの夢のなかのフラウを思い出していた。
水を飲む、という動作の間に見た夢の大半を忘れてしまっていたが、断片的な色彩やイメージは強く印象に残っている。
(………いったいあたしにどうしろっていうの)
思いっきり顔をしかめたリアは、不意に夢のなかの異常に気がついた。
夢のなかに出てきたゼフィアは顔に布を巻いていなかったような気がする。
気がするだけで、彼の素顔も何も記憶に残っていなかったが、目を開いてこちらを見ていたような気が、これまたする。
何かを言われたような気もするが、夢の曖昧さに紛れてしまい、リアはそれが何だったのか少しも思い出すことができなかった。