Ria and Yuzuha's story : Last wish 【All standard is you】 前編 〔1〕

 問答無用とばかりに唸りをあげて飛んできた拳を、ゼロスはひょいとかわして後退した。
 拳の主が忌々しそうに舌打ちする。
「逃げるな馬鹿者」
「逃げますよ普通。いきなりそれはヒドイじゃないですか」
 ゼロスは軽く肩をすくめて抗議してみせた。
 だいたい、いまの拳はあくまでも物質界のみのもの。精神世界面(アストラルサイド)に重ねられた力はなく、ほとんどじゃれ合いのような代物だった。今回たまたま避けたのは単なるゼロスの気まぐれで、よけてもよけなくても主の機嫌が悪いことに変わりはない。
 部下の報告を聞くなり拳を繰りだしてきた獣王は、つまらなさそうに息を吐いて椅子に座りなおした。身の丈よりも長く伸びた蜜色の髪が、床を流れて主の後を追う。
 いくら自在に変化できる人間形とはいえ、意識せずに具現すれば本質に近い容姿を取るものなのだが、この主に限ってはそれすらも気まぐれに変わる。以前、リナたちの前に姿を顕したときにはまた別の姿をとっていたと聞いている。
「お前をどこかにやると、いつもろくでもない報告ばかり持ってくる」
 不機嫌な顔で獣王は呟いた。
「いっそ別のものを斥候に出すか」
「まあ僕も、今回は報告したら獣王さまお怒りになるんじゃないかと思いましたねあっはっは」
「ほう?」
 呑気な部下の言動に、獣王の双眸がいささか剣呑に細められたが、当の部下はいたって明るい口調でこう続けた。
「でも報告しなかったら、さらにご機嫌が悪くなるだろうとも思いましたね。いかがです?」
「たしかにな」
 あっさりと頷いて、獣王は部下との戯れをうちきった。手のひとふりで黙れと合図を出し、ゼロスはそれに従い一歩下がる。
 椅子にもたれ足を組み、目を細めて思考の海に沈んでいる主を邪魔せぬよう、辛抱強くゼロスは待った。
 やがて溜息と共に主の唇から言葉が洩れる。
「―――やはり時間が問題だな。同じくこれも、あと千年遅ければ迷いはしなかったのだが」
「波をかぶるとおっしゃったのは、獣王さまですが」
「ここまで大きいとは思わなかったからな」
 肩をすくめ、ふと獣王は己の部下に目をやった。
「お前はどう思う」
「おや、珍しい。僕の意見も必要で?」
「ためしに聞いてやる。言ってみろ」
 では、とゼロスは慇懃に一礼して話しだした。
「一応、リナさんの娘に関しては予定通りに仕掛けてきましたし、その発動もそろそろです。しばらく様子を見てはいかがです? こんな楽しい思いをするのは久しぶりなので、いまさらやり過ごすのは僕としてはイヤですねぇ」
 獣王は半眼で部下を睨みつけた。
「これでお前が結果まで見通してものを言っていれば、感心して聞いてやるんだが」
「いやですねぇ、そこを考えるのは僕の役目ではないでしょう?」
 微笑するゼロスの額に何かが飛んできてぶち当たった。
 霧散する前にちらりと確かめたそれは靴だった。つまり物質界に具現している主の一部だ。
 今度は微妙に精神世界面が重なっていたため、それなりに痛かった。
 自分のもたらした新たな報告で機嫌を悪くしている主を、他人事のようにゼロスは眺めやる。
「それで。結局どうしましょう?」
「気は進まんが、おそらくこれを逃せば二度はない」
「ええ、間違いなくそうでしょう」
 ゼロスは短くうなずき、賛意を示す。
「二度はないこの機会が動的均衡の結果生まれた因果なら、我らの介入する余地はない。我らの介入すらも予定調和として、なるようにしかならん。だが………」
 面倒くさそうに獣王は溜息をついた。
「目の前にぶらさげられた餌としては、あまりに美味しすぎるのが大問題だ………」
 珍しく主が迷っている。
 物質界の比重を大きくして交わされる会話は、精神世界面からの獣王の感情を読みとりにくくしていた。人間は不便なものだ。常にこの状態でしか会話できないとは。
 やがて溜息混じりに獣王は言った。
「この時点で結論を出すのは性急というものか。ここはお前にのせられておくことにしよう」
「しばらく静観なさるのですね?」
「そうだ。ただし逐一報告しろ。何か変化があれば、それを見て今後の策を変える」
「やはり内密に―――?」
「当たり前だ」
 ほとんど吐き捨てるようにして獣王は答えた。これはよほど虫の居所が悪いらしい。
「海王はまだしも、覇王がリナ=インバースの娘のことを知ってみろ。また短慮から取り返しのつかない覚醒をまねかんとは限らん。お起こしすればいいと思っているのか、あの()れ者は」
 五人の腹心のうち、武将肌の性質を持つよう創られたのは覇王と魔竜王。逆に策謀を巡らせる、より狡猾な気質を持って生まれてきたのは海王と冥王。
 そして、ちょうどその間にいるのが獣王だった。武将肌でありつつも、どちらかというと知将。周到に事を運び外堀を埋め、直接手を下すのは最後の最後まで控える。その気質が、典型的な武将肌の覇王とはどうにも反りが合わないらしく、よほどのことがない限りは互いに対して沈黙を守り続けているのが常だった。
 そして、いざ重い口を開けばこんなものだった。言うに事欠いて「痴れ者」呼ばわりでは、向こうもこちらのことをどう言っているのか、だいたい想像はつく。
「では、もしお二方どちらかの斥候が訪れた場合は―――」
()すなり、丸めこむなり好きにしろ。ただし持ち帰らせるな(・・・・・・・)
 その命にゼロスの笑みが深くなった。
「御意―――」
 部下が姿を消した空間を一瞥(いちべつ)し、獣王も精神世界面のほうに身をおいた。
 この世界はタチの悪い冗談のようなものだ。それなりに楽しんだものが勝ちならば、間違いなく己の部下は勝ちだろう。
 魔族のくせに享楽的というべきか、魔族ゆえに享楽的というべきか。
 ふと獣王は苦笑めいた思念をこぼした。
「やれやれ………要らぬ苦労ばかり押しつけてくれることよ」
 いまの自分たちは、宴の後始末に駆け回っているようなもの。
 定められた因果律(カード)があってこその、世界。
 混ぜられたカードのなかで偶然数字が続いた後に絵札が続くのは、必然。それが枚数の決められたカードのなかでの均衡だからだ。
 偏れば、もう一方も偏る。均衡をとるために。
「貴様の宴の代償、すさまじいばかりだ。機を計れぬ雪崩のごときこの因果、いったいどうしてくれる………冥王よ?」
 予想外の(ほまれ)によって一足早く混沌へと回帰した同輩に向かって呟き、獣王は苦い溜息のような思念を散りこぼした。



 わけもなく胸が痛むほどに美しく晴れた秋の日だった。
 最良の日になると信じて疑わなかった日。
 魔法医たちは最初、彼が冗談を言っているのだと思った。
 リアですら、一瞬そう思いかけ―――すぐにその顔から血の気がひいた。
あたしはここにいるわ(・・・・・・・・・・)
 その声の近さに、問いを発した彼のほうが愕然として視線をはしらせた。部屋を右から左へと横切った視線は、求める人物の立つ空間をあまりにもあっけなく素通りしていく。
「ゼフィ………?」
 かすれたその声に反応して通り過ぎた視線は戻ってくるが、やはり定まらない。
 頭の芯が異常なほど冷めていた。理性がはじきだす答えを感情が否定して、どこか現実感もなく周囲の時間だけが経っていく。
 この状況が示唆する事実への恐怖に、互いに凍りついたまま動けない二人を繋ぐ何かを、どこかまだ呑気そうな魔法医の声が完膚無きまでに打ち砕いた。
「………まさか、彼女だけ見えていないのですか?」


 そんなこと、ありえるはずがない――――。