Ria and Yuzuha's story : Last wish 【All standard is you】 前編 〔2〕
瞼裏を光がよぎり、ゼフィアは双眸を開いた。途端にまぶしさに目を細め、顔を背けて視線をそらす。
窓際に椅子をすえ、座って外を見ていたのだが、そのままうたた寝してしまったようだった。このところよく眠れていないせいだろう。
ちらつく光に目をやれば、斜向かいの店の軒先に下がった金属の何かに太陽の光があたり、まっすぐに窓のなかに飛びこんできていた。
光の行く先を追えば、壁にうつった頼りない影絵模様に行きつく。
以前なら見ることすらかなわず、気づくこともなかった光景だった。
おのれの髪が光の悪戯をさらに助長させていることに気づいて、ゼフィアはわずらわしげに髪を背にやり、椅子ごと位置をずらした。
もともと手入れも面倒くさかった髪だ。見えるようになったこの際、切ってしまおうかとも思う。
(切ると怒られますかね)
こうして瞼を伏せてしまうと何も以前と変わらない。慣れ親しんだ闇のなかだった。
窓の外から通りの喧噪が聞こえてくる。吹きこむ風がすっかり秋めいていることを知るのに、目を開けている必要はなかった。
こうやって瞼を伏せたまま意識を澄ませていると、見ることのできなかった頃に戻ったかのようだった。思いだすというほどの苦労もない。それはわずか半月ほど前のことで、自分は中途半端に与えられ、そしてまた奪われた光を求めて、闇のなかでみっともなくあがいていたのだ。
一度目の闇のなかでも二度目の闇のなかでも、自分は形ないもののようだった。闇の向こうに確かに人の気配と音がするのに、闇はどこまでも闇だった。自分と世界とをつなぐものは、言葉と触覚だった。
物は触れば形はわかるが、迂闊に他者を触るわけにはいかない。だから自分にとって、交わす会話こそが目の代わりだった。返ってくる相手の反応が、その相手を自分のなかで形づくらせた。
二度目の失明は緩慢だっただけに、恐れとともに慣れにも似たあきらめを徐々に憶えていった。薄闇がその暗さを増していくのを静かに受け入れた。その奥底で、一度得た光をあきらめきれずに、爛れそうに焼けついている渇望には気づかないふりをした。
期待をするのは嫌だった。失って辛いものは持たないようにするのが自分のやり方だった。だから、世界が自分に対して一日に一枚、薄い帳を降ろしていくのに合わせ、自分からも帳を降ろし、隔たっていこうとした。
―――そこに、帳の向こうから声がした。
闇を超え、帳を抜けて突き刺さる、静かで真摯な意志だった。
交わす会話から描かれるその相手の存在は鮮烈だった。
闇はまだ闇のままだったが、声は帳の向こうから鮮やかに自分を打ち、外へと誘った。泳ぐ前から溺れる心配をしているような自分に首を横にふり、そして一気に帳をひき開けて、手をつかんで引き出した。
光あふれる洪水のなかに。
最初は嫌でたまらず、内心腹を立てていたのだが、結局失うことを怖れながらも、つかんだ手を離さずにいたかった。
ゼフィアはゆっくりと両手のなかに顔を埋めた。
どうして。見えている今より、見えずにいた過去のほうが、鮮やかに懐かしくよみがえるのだろう。
闇のなか、届く声だけを頼りにしていた日々は二度と戻っては来ず、自分の世界はいまや光にあふれて喜ばしいはずなのに、失われた時ばかりが惜しくてならない。
「…………ッ」
何で見えない。
どうして見えない。
光は届いている。ただ一人の姿を除いて。
いちばん見たかったものだけを、残して。
―――白魔術都市ほど整然と区画整理された都市はない。
二重六紡星の形にそって区分けされたそれぞれの区が、魔道的な配置も兼ねた大通りと陸橋によって結ばれている。
幼い頃、母親に連れられて上空から街を観察したとき、その人工的な造形の美しさに心を奪われた。母親の友人である王女が継ぐこの街は、なんて美しいのだろうと思った。
魔道を使ってこの王都を上空から眺めようだなどと考えつく者は皆無に近く、この都市に暮らす者は自らの住む街の美しさをほとんど知らない。むしろ、大陸橋のおかげでいつも日が当たらなくて困ると思っている可能性のほうが高いだろう。それもまた事実なのだが、もったいないことだった。
正円を描くセイルーンの街は、外壁に近づけば近づくほど雑然とし、反対に中心に近づけば近づくほど整然として上品になっていく。
現在、リアが歩いている通りはちょうどその中程に位置するところだった。
「―――簡単なことよ」
彼女の呟きは通りの喧噪にまぎれ、言った本人の耳にすら届かなかった。
セイルーンの大通りはこの秋、例年以上のはなやかなにぎわいを見せている。
今年は豊作で、近隣の農地から運びこまれた収穫物は店先に山と積みあげられ、普段よりもずっと安値で売られていたし、先に行われたアメリア王女の立太子の祝祭の余韻がまだ残っていて、大道芸人や語り部たちが通りの角ごとに芸を競っている。
おかげで普段よりも人出が多く、そこを歩くリアはいつも以上に人目を惹いた。もとから周囲に溶けこむような造作の持ち主ではない。同じく整った顔だちながら、父親のほうは周囲に和する雰囲気をまとっていたのとは違い、娘はどこまでもその輪郭を際だたせるような気配の主だった。このあたりは母親似なのかもしれない。
「とても簡単なこと。とっくにわかっているはずでしょう?」
誰とも知れぬ相手に向かってリアはささやく。
歩みにあわせて、服の裾が軽やかに揺れた。
セイルーンに帰郷して以来、リアはごく普通の服装に小剣を携帯するだけですませていた。もっとも、リアにとっての「ごく普通」は同じ年頃の女性にとってそうとは言い難いものではあるのだが、彼女としてはこれがぎりぎりの妥協点だった。二の腕のところで一度しぼった上着の袖に細かなプリーツが寄せられて、流れるように大きく広がっているのだけが、飾りらしい飾りといえる。
人混みを避け、リアは通りを抜けた。
そのまま角を曲がると、わずかだがあたりの雰囲気が変わった。
猥雑ともいえる喧噪がなりをひそめ、それなりの節度を保ったにぎやかさへと質を変えている。立ち並ぶ店の軒先もどこかすまし顔だ。
通りの幅は同じなのに、露店の数が少ないだけでずいぶんと広く感じられた。
人の往来が減ったわけでも、リアに見蕩れて歩みを滞らせる者がいなくなったわけでもないが、不躾に声をかけられることも野次を飛ばされることもない。
(髪をまとめるか、切るかしなさい。リア=ガブリエフ)
いつだったか母親が呆れたようにそう言った。母親の髪は色さえのぞけば、質も長さも巻きかたさえも、リアとそっくり同じだった。
(あんたが髪をたらして歩いているだけで、すれ違う男の半分以上が血迷うわ。あんたの父親がすれ違う女の人のほぼ全員をたらしこんでたようにね)
血迷う相手の男のほうに問題があるに違いないのに、何だって自分のほうが譲歩しなければならないのか。理不尽に感じたので、ムッとしてリアは言い返した。
(じゃ、母さんもたらしこまれたってわけ?)
(はずれ。あたしのほうがたらしこんだのよ)
母親は、ふふン、と鼻で笑った。どこまで本当か定かではない。
(たらされる側はともかく、たらしこむ側はたいていそれにうんざりしているわ。あんたのようにね。うんざりしたくなかったら、自分で何とかしなさい。一応あたしは忠告したわよ)
忠告はされた。しかし譲歩するのはいやだったので、そのまま我を通すことにした。以来、血迷った男は実力で排除することにしている。切るのはともかく、まとめてもよかったのだが、リアは髪を自分の好きなようにととのえる技術に関して、致命的なまでに適正がなかった。―――そのあたり、イルニーフェは尊敬している本当に。
リアの歩みが自然に止まった。
(目が治ったら、あなたが見たい)
そう告げた相手の、その声の調子がふいに鮮やかによみがえった。告げられる直前に、互いの髪について他愛のない話をしていたからだ。連想によって記憶が刺激され、思いだしてしまった。
リアはきつく目を閉じた。
「ねえ、本当にそう思っていたの?」
我ながらひどい言葉だと思った。
例えいま、ここから見えている門扉から相手が出てこようと、彼女の姿を目に留めることはない。
それを知っていた。思い知らされるたびに打ち砕かれる、今度こそはという期待と共に。
原因はわからず状況は変わらず、増していく苦痛に二人はこれ以上の魔法医の介入を拒んだ。
あり得るはずのない事実が現実として存在し、それが二人のあいだに横たわった瞬間から今まで、どうしていいかもわからずにいる。
冷静に考えればすぐにわかることだった。
「あたしさえいなければ、あなたの世界は完成するわ」
見たいものを見ることができる。どこにでも行ける。彼女を見ることを望まなければ。注意を払うことなく、意識することなくあれば。
同じように、彼さえいなければ彼女の世界も完成する。半島のどこかに彼女のことだけが見えない人間がひとりいたところで、何の支障もない。
その存在を心に留めることさえなければ、互いに何を思いわずらうこともない。
「とても簡単なことなのよ、ゼフィ」
伏せていた目をあげ、リアは小さく笑った。
ここ二、三ヶ月ほどで通い慣れた道は、最近では最後までたどられることなく、いつも途中で終わる。