Ria and Yuzuha's story : Last wish 【All standard is you】 前編 〔13〕
ああ、また夢だ―――。
それはわかっているのに、やはりいつものように、ただわかっているだけで夢を押しとどめることができない。抗いながら流されていく夢は、覚めない限り現実と変わらない。
夢は記憶を忠実になぞりながら、気どられぬほど少しずつずれていき、その歪みが決定的になった瞬間に記憶を食い破って荒れ狂う。
何度も何度も、記憶のなかの蒼穹の瞳に対して剣を向ける。
もういい。やめてくれ―――。
自分が何をするのか、何を犯すのか、もう充分にわかっている。
その結果、すべてが狂いだして失われていくのだから。
薄氷の上で演じられる偽りの穏やかさは、何ものにも代え難いほど貴く、同じぐらいに苦痛でしかない。
幾度も奏でられる剣戟が脳髄を掻きむしる。修羅さながらに荒れ狂う真紅の瞳と、凪いだ湖面のように透徹とした青の瞳。視線がからみ、すれ違い、一度は離れた二つの剣閃が真っ向からぶつかり合う。
そして―――。
経過だけを曖昧な残像にしたまま―――折れた剣先がティルトの頬をかすめ、赤い飛沫を飛び散らせ、遠く壁にあたって哀しく落ちた。
リアの手からすり抜けた剣が、オリハルコンの床に再び反響をもたらした。中央から斬り飛ばされた、あまりにも滑らかで美しい屍。
その亡骸に重なるようにして、ささやきは落とされた。
すれ違い、すり抜け、背後に立ちつくす弟の、何の邪気もないどこか不思議そうなその呟き。
「なんだ、姉さんってオレより弱かったんだ―――」
リアは笑った。笑おうとして、喘ぎが出てきただけだった。
「あ………」
膨張し、内側から突き破って溢れだしそうな何かに、声を出してリアは抗った。
いまここで、それを許してしまうと―――。
取り返しがつかなくなる。
闇と、飢えが―――。
(…………!)
悲鳴をあげようとしたリアは、強く体を揺さぶられた。
一条の閃光のように夢を切り裂いて、意識を穿つ声。
「―――クーン!」
名を呼ばれ、リアは目を覚ました。
じっとりと嫌な汗をかいていた。不自然に息があがっていて、大きく息を吸うと喉からかすれた音が洩れた。
視界はずいぶんと暗かった。部屋のなかだ。空気の流れが滞っていて、空間が閉じている。
自分がどこにいるのかわからず、危うく恐慌状態になりかかり―――不意に、気遣わしげにこちらを覗きこんでくる銀灰の双眸と目があった。
見えているはずがないのに、視線がからんだような錯覚を覚えた。まだ夢のなかにいるようで、くらりと眩暈がする。
「ゼフィ………?」
かすれた声でささやき、それでようやく自分の状況を思いだした。
ゼフィアのもとに行ったのはいいが、留守だったのだ。
どこかで時間をつぶせるほど体調が良いわけでもなく、かといって家に帰る気にもなれなかったリアは仕方なく勝手にあがりこんで帰りを待つことにした。
ノッカーのところに普段はめている鈴の腕輪を引っかけてから、なかに入った。そうしないとリアが来ていることに気づかないだろうから。
誰もいない部屋は乾いた香草の匂いがした。
長椅子に座ったのはいいが、そこから先の記憶がない。
そこから先は夢の残滓と、現在の覚醒に直結している。寝たのか気絶したのかまではわからないが、どうやら意識を閉ざしてしまったらしかった。
窓の外に目をやれば、日はすっかり落ちている。道理で暗いわけだ。
「クーン? だいじょうぶですか。かなりうなされて―――」
「ゼフィが、起こして………?」
からからに乾いた喉に声がからんで、リアは少し咳きこんだ。
ゼフィアの手が肩を離れ、すっと風が通った。汗が体温を奪いながらひんやりと乾いていく。
部屋を出て行ったゼフィアはやがて水差しと杯を手にして戻ってきた。
差し出されたそれを一息に飲むと、リアは大きく息をついた。やっと現実に戻ってこられたような気がする。
「ありがと………」
それから当初に言うべきことを思いだし、続けた。
「おかえりなさい。勝手にお邪魔してるわ」
何を今更と、ゼフィアが呆れたような顔をした。その背後に見えるテーブルには、羽根飾りのついた鈴の腕輪がおかれている。戸口から外して持ってきてくれたのだろう。
「いつ帰ってきたの?」
「少し前です。呼んでも返事がないので、長椅子で寝てるんだろうと思ってそのままにしておいたんですが………」
うなされだしたので起こしたというわけか。
テーブルの椅子の背には、来るときに母親から手渡されたストールが掛けられている。あれを見て、だいたいの居場所に見当をつけたのだろう。あとは寝息と気配か。
手の甲で額の汗をぬぐい、リアは長椅子に座りなおした。手が細かくふるえていたが無視した。
夢を見た場所がこの部屋でよかったと心の底から思った。
同じ屋根の下に弟がいる自宅で見ていたら、いまごろ―――。
息が詰まった。胸がふるえる。必死に呼吸をしようとくり返しているうちに、ようやくリアは己が泣いていることに気がついた。
無言の手がリアの体を引き寄せて抱きしめた。
―――これは現実だ。
理由もないその確信にますます涙が溢れ、唇を噛んだ。
夢の残滓を拭い去り、慰撫して、なだめていく、この腕―――。何も聞かずに泣くことを許す手のひら。
代わりに笑っていればいいと自身に科しているはずなのに、この温もりは虚勢を易々と打ち砕いていく。
緩い傾斜を止めどなくすべり落ちていくように、どうしようもなく溺れていく。その心地よさに抗えない。疲れているなとつくづく思い、リアは細く息を吐いた。
寝不足の上に神経もまいっているからか、思考がうまく回転しない。頭の芯が鈍く痛んだ。
彼の前では表情を作る必要もない。それが別の痛みをもたらすことであっても、いまはそのことに安堵する。どんなひどい顔をしているのか知りたくもなかった。
「………ごめんなさい。ありがとう」
ささやきはくぐもって相手の耳に届かず、彼が聞き返してくる気配がしたが、リアは答えなかった。ひっそりと笑い、目を閉じる。
きっと、この温もりに触れているあいだは狂わずにいられる。
「クーン?」
名を呼んだが、答えは返らなかった。代わりに届けられたのは、規則正しい深い呼吸。
しかたなく手さぐりで頬に触れ、目尻からこぼれた涙を拭ってやる。よほど参っているのか、リアが目を覚ます気配はなかった。
火を入れた脂灯の明かりが、闇に滲むように揺らめいている。
あの夏の夜と同じように視界は閉ざされたまま。温もりと重さだけが腕のなかの相手がたしかに存在することを彼に伝えている。
結局、自分はまだ遮光布を手放せない。
「どうして、あなただけ見えないなんてことがあるんでしょうね………」
ささやいたゼフィアの指先に、ふ、と細い息がかかった。熱と、潤み。
この目、が。
もし見えていたなら。
見て、触れたいものが―――。
あの夜に輪郭を確かにしてしまった想いが、強い憤りとなって指先をふるわせた。
「どうして………!」
指先を爪が食いこむほど握りこみ、吐きだされた言葉はなかば自分自身に向けられている。
ここにいるのに。何で。
こんな馬鹿馬鹿しい事態が、どうして現実にありえてしまうのだ―――。
無理やり波立つ感情を抑えこむと、ゼフィアは深く息を吐いてそれをやり過ごした。
「………私も、夢を見るんですよ、クーン」
自嘲気味にささやきながら、ゼフィアは相手の頬にかかる髪をのけてやった。拭った瞼の縁がまた新たに濡れていることに気づいて、抱きしめる腕の力が強くなる。
護るには、この腕ではあまりにも足りない。
ただ、それでも―――。