Ria and Yuzuha's story : Last wish 【All standard is you】 前編 〔14〕

 夢のなかでは、確かに見えている。
 目を覚ます度にその認識だけを残して去っていく夢の記憶に、彼は唇を噛む。見た、という確かな記憶だけを残して、目を覚ました途端にこぼれ落ちていく夢の風景。
 笑っていたという記憶の中味は空洞だった。
 ただそれでも、笑っていたことだけは憶えている。このうえもなく晴れやかに、嬉しそうに笑いかけられて、胸が痛くなったことさえ忘れていない。
 それでも、後から(えぐ)りとられたように空洞となって残る記憶。
 夢のなかで、声は何度もくり返す。
(―――あたしを見て)
 目を覚ましたゼフィアは、空洞の輪郭をなぞるように夢のなかの彼女へと問いかける。
「あなたはだれです………?」


 現実の声がそういうことは決してない。
 何も言わず、ただ笑って頬に手を押しあてるだけだ。ここにいると。
 そう言ったのは彼女ではなく、この国の王女だった。
 ―――あなたに、クーン姉上を見てほしい。
 ただひたすら真摯に、一途に告げられた幼い言葉。傷を負わせる懸念よりも、望む未来を真っ直ぐに得ようと焦る意志。
 背後で鈴が鳴る。二人で市に行った時にリアが見つけて買った。だから彼もその形を知っている。細い環に細い鎖でつながった白羽根と鈴。舞姫の羽根ですよ、と店の売り子が説明していた。リアはその鳥を知っているようだったが、残念ながらゼフィアは見たことがなかった。
 いつか一緒に―――そう言いかけた彼女の言葉は、最後まで紡がれることなく途切れた。
 あまりにもいびつな関係をそれでもいいと許容して、手を伸ばした。細くつながれている、互いへの糸。いまはまだ、それでいい。すぐにそれ以上を望んでしまうだろうから。
 ゼフィアは何も言わない。
 リアも何も言わない。
 同じ空間を共有しながら気配だけを相手に伝えて、無言のまま時は過ぎる。
 そして夜が訪れると、夢が―――。


(あなたはだれです)
 夢のなかで問うたびに、困ったように相手は笑う。声は聞こえるのに、どんな顔をして笑っているのか、どうしても映像を結ばない。
(わからないの?)
(あなたは―――ではない)
(いいえ。あたしよ。本当にわからないの(・・・・・・・・・)?)
 ひどく傷ついた声音でそう言うと、相手はこちらへと手を伸ばしてきた。
 いまにも泣きだしそうな声が懇願する。
(気づいて。お願い―――あたしを見て)
 どういうわけかひどく怖れを感じて手をふりほどくと、彼女は小さく息を呑み、やがて微かな泣き声が聞こえた。わずかな違和感。泣いている。声に出して(・・・・・)
 不審を抱きつつも、それでも願わずにはいられなかった。
(泣かないでください)
 こんなに愛おしいのに、光をこの腕にとどめておくことはできない。腕のなかから溢れて、さえぎった分だけ影を濃くしてしまう。
 名を呼ぶと、相手は両手で顔をおおったまま首を横にふった。
(違う。あたしはそんな名前じゃない)
 自分が何という名で相手のことを呼んだのかわからなかった。確かに口にしたはずなのに。
(ちゃんと呼んで。知ってるはずでしょう―――)
 頼りなげな声でそう言うと、相手は再び手を伸ばしてきた。ふわりと柔らかな熱が瞼を塞ぎ、視界を閉ざす。
(………あたしと………に、お願い)
 聞きとれないささやきに訳もなく背筋がぞっとし、やはり彼は問うていた。
(あなたはだれです?)
 困ったような笑いが闇に融け、また夢は覚めた。



 りん―――、と鈴が鳴った。
 霧がかったゼフィアの思考を、その音色が鮮やかに吹き払っていく。
 音の出所はひどく近かった。気配を感じ、彼は名を呼ぶ。
「………クーン?」
「なあに?」
 すぐ背後から声がする。夢の続きがどこからか洩れて漂いだしているようで、ゼフィアは理由もなくぞくりとした。
 ひとつ頭をふって思考を片隅に追いやると、ゼフィアはふり返ることなく肩越しに手を伸ばした。すぐに指先が同じ熱を持った相手に触れる。指先から互いの熱が行き交い、融けあった。
「………あなたのせいか、私も夢を見る」
「ちょっと。それってあたしのせい? 夢は感染(うつ)らないわよ、普通」
 不服そうな声に喉の奥で笑い、彼は目を閉じた。
「―――あなたの夢を見る」
 背後の存在はわずかに沈黙し、やがて本当に淡々と彼に尋ねてきた。
「夢のなかで、あたしはあなたに見えている?」
「見えているのに、何ひとつ記憶に残らない」
 それは怖れと幸福をともなう、現実の裏返し。
 それでも選びとった現実は、夢よりもなお大切で愛おしいはずだった。
 不意にあっけなく手が離された。冷えた風があいだをさえぎり、熱を奪っていく。
「―――春が来たら、サイラーグに行こうか」
 唐突な言葉に驚いて背後をふり返ろうとすると、ふと瞼に柔らかな熱が下りた。夢の続きにも似て、まるで子どもの遊びのように背後から視界をさえぎる手。
「予定通りに、行こうか」
 こんなあり得ない痛みを抱えこむとは知らなかった頃に、そう約束したように。
「クーン、あなたは―――」
「一緒に同じものを見ることはできるから」
 ささやかれた言葉の向こう側に幾つもの未来が見えた。
 本当にいつのまにか。
 互いの手をとっていた。潮が満ちるように音もなくひそやかに、ただひたひたと充ちて、気がつけば、溢れていた。
 とても静かに。あり得ない痛みさえも内包した結びつきとなって。
 光の届かない闇のなかで、ゼフィアはささやいた。
 リアもささやいた。
 ともに同じ言葉を、同じように。
 互いに向けて。



 庭は冬の色彩を(にじ)ませながら、風に揺れる。
 背後にある彼の気配を感じながら、リアは手にした本に視線を落とした。
 あの日以来、リアは家に帰っていない。正確には、翌日いったん帰ったのだが、帰った途端また夢を見た。いままで見た夢のなかでも最悪の内容だった。目を覚ましたリアは窓から外に抜けだすと、気づかれないよう家から遠ざかった木立の奥で胃のなかのものを全部吐いた。
 さすがに限界だと自分でも悟ったため、しばらく戻らないと言い置いてから家を出た。よっぽど弟といることがストレスなのかと思うと、あまりに情けなくて涙が出てきそうだ。
 家族の反応は三者三様だったが、止める者はいなかった。
 こちらでは夢は見ない。見ても、それほどひどい夢ではなかった。どこか痛みを覚えるような幸せな夢が混じり、切なくなって目が覚める。そして、そのことが辛い。
 あまりにも穏やかだった。ここにいると幸せすぎる。
 負の感情とともに置き去りにしている幾つもの痛みと迷いが、まだあの家には残っているのに。
 あの家から遠ざかれば遠ざかるほど、この場所は殻や繭にも似て居心地が良く、その事実がリアを余計に(さいな)んだ。
「―――ン、クーン」
 名を呼ばれ、リアは我に返った。
「え、なあに?」
「いえ、ですから。もしかして、魔道図書館の閲覧許可証を持っていないかと聞いたんですが。………だいじょうぶですか。また体調がおかしいですか?」
「ごめん、だいじょうぶ。平気よ。え、魔道図書館?」
 リアは慌てて否定し、それから手にした本に視線を落とした。表紙の見返し部分の羊皮紙には六紡星と本を意匠化した蔵書印がエンボスされている。いま会話に出てきたその図書館の印章だ。
「えーっと、うん、持ってるけど?」
 質問の意図がよくわからなかった。
 セイルーンには王立の図書館が二つある。一般に開放されている王立図書館と閲覧許可制の魔道図書館がそれで、後者は複数ある許可証の発行団体―――魔道士協会や僧侶連盟などから、閲覧許可証をもらわねばならない。
 王立図書館はおもに娯楽性の高い読み物や、実用性の高い地誌や辞典、農法書などを一般に向けて解放している。入館するときに少々の料金が必要だが、それほど高いものではない。開架制の図書館があるというだけでも相当珍しいのだが、それが二つもあるという国は、リアが知るだけ限りではセイルーンだけだ。
「ゼフィ、魔道図書館のことどこで聞いたの」
 王立魔道図書館はその資料の特性上、閲覧者が限定されている。そのため一般開放されている王立図書館よりも認知度が低く、存在を知っている者はおもに魔道・神殿関係者に限られているはずだった。―――ちなみに貸出利用者はさらに厳選されており、協会や連盟内で一定以上の地位に就くか、それなりの成果を出さねばならない。リアの場合は、魔道士協会にレポートを二つほど出しており、それが評価されて発行された。
「治療を受けていたときに良くしていただいた魔法医の方たちから聞きました」
「行きたいの?」
 リアは首を傾げた。ゼフィアは魔道にそれほど明るくない。せいぜい便利魔法と称される明かりや浄結水(アクア・クリエイト)、治療の補助としての治癒(リカバリィ)ぐらいしか使っているのを見たことがなかった。魔力容量もそれほど大きくはないようだ。
「眼病と白魔法について書かれた本があるそうです。あと薬草学の稀書が幾つかあると聞いていたので、セイルーンにいるうちに一度行ってみたかったんですが………」
 どうにもいままで機会を逃していたと言い、ゼフィアは苦笑しながら、テーブルの上にある数冊の本を指さした。ここに来るにあたって、リアが家から持ってきた魔道書だ。
「あなたが許可証を持っているかもしれないと思い至るのに時間がかかりました」
「どうして?」
「あなたは剣士でしょう?」
「………あ、うん」
 思わずリアは苦笑していた。
 意表を突かれたのはたしかだった。心のなかの霧が一瞬だけだが、吹き払われたような気がした。
「持ってるわよ、一応。うん、たしか閲覧は同伴者一名までだいじょうぶだったと思う。貸出もあたしは二冊までなら許可出てるし―――行く?」
「いまからですか?」
「でもいいけど。許可証は家だから、いったん取りに戻らなくちゃ」
「なら、後ででいいですよ」
 互いを見ずに交わされる会話は穏やかだった。
 窓の外はよく晴れている。リアはぼんやりと硝子窓の向こうを眺めた。
 ひょっこりと淡い金髪が覗いたのはそのときだった。
 あきらかに背丈が足りないはずなのに、平然と顔を見せて手をふっているところからすると浮いているのだろう。
 リアは声もなく唸り、おもむろに立ちあがった。
「クーン?」
「窓の外にユズハが来てるわ」
 リアが開けた窓から、ユズハがふわりと入りこんでくる。
 ゼフィアのほうを見てぽんと片手をあげて挨拶すると、ユズハはそのままリアにしがみついた。その様子がゼフィアからどう見えているかは―――あまり想像したくない。
「あんた、どうしたの」
「どうもしナイ。王宮、そろそろ飽きタ。オルハもういないシ。クレハとユキハ、ゆずはに冷たシ」
「―――猫よ、猫の名前」
 聞き慣れない固有名詞に首を傾げているゼフィアに向けてそう説明し、リアは窓を閉めた。そろそろ日が照っていても風が冷たい季節になろうとしている。
 ふるっとユズハが頭をふった。外気の影響を受けてユズハの体全体が冷たくなっているのか、涼やかな空気がリアの肌を撫でる。
「ので、こっち来にケリ。かまうがヨシ」
「………あんた、また王宮で何読んできたのよ。言葉遣いが前よりもっとひどくなってるじゃないの」
 ぼやきながらリアはユズハを床に降ろした。
 降りたったユズハはゼフィアの前までやってくると、彼が戸惑うほどしげしげと観察し、ことんと無表情に首を傾げる。
「んー、何か、ヘン」
「………クーン、通訳してください」
「ごめん、あたしにもちょっとわかんない」
 ゼフィアとリアの困惑をよそに、ユズハは交互に二人を見つめると、やがて興味を失ったようにひとつ頷いた。考えてもわからなかったので、思考を棚上げしたらしい。
「ぜあ、くーんのコト、好き?」
 ゼフィアはわずかに目をみはり、すぐに相好を崩した。
「ええ、好きですよ」
「ならヨシ」
「どういたしまして」
 笑いをこらえながらの答え。
 リアは自分の表情が相手にわからないことを、このときばかりは心底感謝しながらユズハの頭を思いきり張り倒した。
「くーん、痛シ」
「あんたここ来るなり言うに事欠いていきなり何言いだすのッ! 叩きだすわよ!」
「それは困ル」
 見れば、あらぬ方を向いているゼフィアの肩が小刻みにふるえている。
「………許可証取ってくる!」
 リアはやけくそ気味に叫んで、椅子の背に掛けてあったストールを手にとった。
「くーん、出かけル?」
「ちょっと家まで行ってくる!」
「ならココで待つ」
「勝手にしてちょうだい」
「―――クーン」
「なにっ?」
 あまりにも無防備にゼフィアがこちらをふり向いたので、リアはその場から動けなくなった。
 決してこちらを捉えているわけではないとわかっているのに、その銀灰の双眸に宿る光に、ふと泣きそうになる。
「どうぞ、気をつけて行ってらっしゃい」
「………うん」
 馬鹿みたいに子どもじみた答えしかできずにいると、透きとおるようにゼフィアが微笑った。



「やれやれ、番犬が来ましたか。そろそろこちらは潮時ですかね」
 気どられぬよう気配を殺した遠方でゼロスは苦笑した。
 どういうわけか存在だけは魔族に非常に近い在り方をしているあの合成獣がいると、手を出すとすぐに気づかれてしまうだろう。無知ゆえにさしたる脅威ではないのだが、聡いのだけが厄介だ。
 しかしそれならそれで、また別のやり方があるだけだ。いるほうには手を出せないというだけで、いないほうには手を出せる。
「しばらく楽しませてほしいものです。母親と同じように―――」
 今回の趣向は―――我ながら悪趣味だ。



 ユレイアはいらだちながら記憶球を睨みつけた。
 さっきから何度も聞き返している特定の音律―――どうしても思いだせない。
 何かを見落としているような気がした。



(黄昏よりも昏きもの)
(血の流れより赫きもの)
(真紅の闇を、統べる王―――)