Ria and Yuzuha's story : Last wish 【All standard is you】 前編 〔16〕

 闇のなか、ほの白く浮かびあがるユズハの髪に指をからめながら、リアは答えを求めるでもなく呟いた。
「あたしがあんたの鏡なら、あたしが変われば、あんたも変わるのかしら」
 けむるようなその呟きに、隣りに眠るユズハがぱちりと目を開いた。もともと眠りを必要としない存在は、問いかけるようにその双眸をリアに向ける。
「ゆずは、どんどん変わっていク。でも、ゆずは。くーんも変わル。でも、くーん。ゆずは、は、ゆずは。くーんは、くーん。かんけーナシ」
「ま、それはそうなんだけどね」
 小さく笑って、リアはくしゃりとユズハの頭を撫でた。
 このまま眠りに落ちても、おそらく夢を見ることはないだろう。ユズハを連れて家に帰ってきてからというもの、いったい何に恐怖していたのかと思うほどに、夢のなかで感じていた凍るような痛みは日常の平穏な熱に溶けて跡形もない。
「あんたがいると安心するわ」
 昔からそうだ。こちらの事情などおかまいなしに我が道を行くその独善ぶりが、逆にこちらの気負いを削いで、肩の力を抜いていく。
「ンー」
 聞いているのかいないのか。掛布のなかでユズハがごろりと寝返りをうった。相変わらず体温のないその体は、いまは隣りのリアの熱を吸って少し温もっている。
 さらりと淡い金髪が揺れ、乱れたその髪をリアは指でくしけずってやった。
 熱もない鼓動もない、精神世界から具現した幼い容姿。器にしていた人形の容姿のまま固定されたユズハという存在の〈定形〉。
 その在り方はほとんど魔族と同じだと母親が言っていた。『負の感情を喰べない魔族』というのが、いちばんわかりやすい表現だと。
 魔族に近いが、魔族ではない。それはつまり―――。
 ふと脈絡もなくたどりついたその推測に、リアは愕然と体を起こし、傍らの異形に向かって問いかけていた。
「ユズハ。あんたもしかして、精神世界面(アストラルサイド)から、人に―――」
 言いかけて、口をつぐむ。
 魔族の禁忌は精神世界面からの人への攻撃だ。それは彼らのアイデンティティに著しく抵触し、その存在すら危うくさせる。彼らはある意味、生き方に融通が利かず、非常に誇り高い。
 ユズハの視線が動いた。きろりとリアを見たものの、特に何か応えることはない。
 その髪を撫でてやりながら、リアは確信する。―――おそらく、可能だ。
 この存在は魔族に近い在り方をしているが、魔族ではない。だから彼らのタブーを持たない。その気になれば、人に対して精神世界面からあらゆる干渉を行うことができるだろう。
 それはユズハという存在がより危険性を増したということであり、そして何より―――。
 リアはしばし瞑目し、やがて透きとおるような視線を彼方に投げた。
(これは、あたしの二つめの手札になる………)
 不意にユズハがリアを見あげた。闇のなかで光る透徹としたその朱橙の瞳。弟に似ているようで、まったく似ていない、鏡のような。
 こんなにも人間とは相容れない一面を見せるのに、どうして自分のなかでこの存在はこんなにも重いのか。
 この存在は無条件に好意をくれる。ひたむきに、何ものにも揺るがされることのない、それゆえにひどく身勝手な。勝手に選び、そしていつかきっと、勝手にうち捨てていく日も来るのだろう、そんな好意を。
 だからこそこの存在は、最後までこの手に残るだろう。
(あんたが呼べば、あたしはここにいることになる)
(あたしが呼べば、あんたはここにいることになる)
 世界は鏡。そこに在って、ここに在って、相対して互いを映しだす。
 映しだされたその像に、存在は己が存在するのを見るのだ。
 世界が変われば、己も変わる。
 己が変われば、世界も変わる。
 もし、リアが変わって(・・・・)しまい、それに引きずられてユズハも変質してしまうようなことがあるとしたら―――。
 もしそうなのだとしたら、どのような方法を使っても自分は捨て去るべきだった。最後まで残されるはずの存在を、真っ先に。
 しかしもし、そうでないのなら。
 そこに希望が残されるのなら―――。
「………ユズハ。もし、あたしが変わってしまっても、あんたは変わらないでいて。あたしが変わってしまったら、あんたはあたしを切り捨てていけばいい」
 ユズハは不思議そうに首を傾げただけだった。
「くーんは、くーんだから、変わっても、くーん」
「変わったあたしが、あんたや母さんたちの気に入らなかったらの話よ。あたしはあたしでも、それが受け入れられるかは別の話でしょ」
「んー?」
 わかったようなわからないような唸り声をあげるユズハにわずかに苦笑し、リアはそのこめかみに唇を寄せた。ユズハがわずかに目を細める。
「ごめん、わからなくてもいいから憶えておいて。もう寝るわ、おやすみ」
「みー」
「まったく」
 妙な声に再び苦笑し、やがてリアの意識は眠りに溶けた。
 夢は見なかった。



 夢を見た。
 見えているという認識だけ残して、目に映った光景は記憶と照らし合わせる前に、どこかへとおぼろにまぎれていく。
 たしかにその像を捉えているのに、脳裏は映像を結ばない。
 けむるような声だけがくり返し響いて、幾重にもまとわりついてくる。
(―――あたしを見て)
 決して現実の耳が捉えることのなかったその願いが鼓膜を叩き、思考にからむ。
 現実に聞こえてくることがなかったとしても、その祈りが奥底で焦げついていることに気づかないはずがなかった。自分も、相手も。
 声は責めているようでもあり、期待に満ちて楽しげに笑んでいるようでもある。
 やがて歯車の狂った自鳴琴のように声だけが耳障りにひび割れ、しつこく残響した。
(―――あたしを見て)
(あなたは―――)
 もう何度となくくり返した問いを発しかけたところで、不意に光が炸裂してあたりを漂白した。
 思わず目を閉じてそれをやりすごす。再び目を開いたとき、一瞬覚めたのかと思った。射しこむ光が現実の季節と同じ淡い色をしていた。
 葉の落ちた木立の上から射しこむ陽光は大気の塵を透かし、幾筋もの光の柱となって地面に届いている。ぼんやりと果てのない空。
 木々はほとんど枝ばかりとなってしまっているにもかかわらず、どこからともなく落ち葉は落ちてくる。耳が痛くなるような静寂のなか、葉が落ちる乾いた音だけがやけに大きい。
 名を呼ばれふり返ると、木立が開けたところに彼女が(・・・)いた。
 飴色の陽光を飾りのようにまとわせた金の髪。真紅の瞳。
 なのに顔がわからない(・・・・・・・・・・)
 名を呼んで、彼女が笑う。このうえもなく幸福そうに笑う、その唇の形はわかるのに、その笑顔がわからない。
 部分だけが鮮明に印象に残り、全体がどうしても把握できなかった。
 何かが邪魔をしている。目の粗い格子のような透明な(へだ)て。すり抜けてきたものしかこの手には届かない。
 まっすぐにこちらを見て笑う彼女が、無言で手を伸べた。
 すぐにでもそちらに向かおうとしたが、なぜだか一瞬ためらう。
 何も言わず、出来の悪い継ぎはぎのような笑顔で彼女は手を差し伸べ続けている。笑っていることはわかるのに、顔はわからない。
 その視線が彼を射抜いた。まっすぐにこちらを見つめ、その双眸の奥では何かが静かに(たぎ)っている。目の奥に宿る何かは、焦げつくように強く、はっきりとこちらを求めていた。
 顔はわからない。だから、それは目だけだ。一対の赤い瞳。
 痛みすら覚えそうなほどに強くこちらを穿(うが)つ赤い視線は、かつて暗闇のなか彼を光にいざなった真摯な声を思わせて、彼に手を伸ばさせた。
 彼女の手が彼の手をつかむ。
 指先から伝わる熱が自分のものと混ざりあい流れこんできた途端、その存在が一変した。
 ―――誰だ?
 確かめるひまもなく、伸ばされた腕がしっかりと彼をとらえる。
(………あたしに………て、お願い)
 甘くささやかれる声はこのうえもなく愛おしく、同じほどに怖ろしく。
 ―――違う。
 そう感じたとき、どこからか視線を感じた。冷ややかで悪意に満ちた―――。
 しかしそれはすぐに消え、腕のなかの温もりも失われる。虚無感に呑まれ、足下から奈落へと墜ちていく。
(あなたは―――)
 思念がちりぢりに融け、何の区別もつかなくなる。ただ、愛しい。
 明け方の冷気が頬をなめ、夢は途切れた。
 夢からはじまった現実は、ゆるやかに狂いだしていく。



 目を覚ました彼は、いままでそこにいたかのような気配の名残に思わず名を呼んでいた。
「クーン?」
 鈴の音は返らず、部屋はしんと静まりかえっている。当然だ。数日前にユズハを連れて自宅の方に戻っていったはずなのだから、いるはずがない。
 ゼフィアは重く息を吐き、体を起こした。まつわりついてくる髪をざらりと掻きあげる。
 いいようのない不快感があった。
 与えられるべき何かを取りあげられ、無理やり代わりのものを押しつけられているような感覚だ。
 夢を見たという記憶だけは確かだが、その内容に関してはいつも曖昧なままだった。思いだそうと努力しても、何の収穫もないままに終わる。
 ただ、見えていたな―――とだけ。
 夢のなかでは、見えている。それでいて、何ひとつ記憶には残らない。
 だからこそ、目が覚めるたびに思う。
 今日こそは見えるのではないか、と―――。
 いままでそれが現実となったことはなかったが、それでもそう願わずにはいられなかった。
 遮光布は手の届くところに置かれている。まだ、身につける機会は多い。リアは嫌がるが、絶えず視界に入らないように気を遣われるよりはいい。
 一年前、目が見えずに声だけで出逢った存在は、一年経って目が見えるようになったいまでもやはり声だけのまま、ただ抱く想いだけが変わっていた。
 とらえどころなく、ひどく曖昧で、それでいて確かに。
 そのことが厭わしいわけではない。むしろそれを中心として渦巻く周囲の見えない何かが、不快感をあおっている。
 頭蓋の裏に(たち)の悪い浮腫(ふしゅ)が張りついているようだった。手の届かない、得体の知れない漠然とした不安感。
 何かがゆっくりと内側から輪郭をあらわにしていくかのような、不穏な胎動があった。
「どうもすっきりとしませんね―――」


(………あたしと………に、お願い)


 不意に夢のなかの声が耳元でささやいたような気がして、ゼフィアはぞくりと身をふるわせた。
 甘くささやかれる声は、このうえもなく愛おしく。
 そして、同じほどに怖ろしい。



 部下に任せきりにしていた計画の全容を、経過報告とともに聞いた獣王は呆れた表情を隠そうともしなかった。
「お気に召しませんか?」
「呆れているのだ、馬鹿者」
 飄々(ひょうひょう)として悪びれない部下を一瞥(いちべつ)し、獣王は頭痛をこらえるように指先を額にあてた。
「いっそお前はダルフか冥王の配下にでもなってしまえ」
「お戯れを。僕の主は未来永劫あなただけですよ、我が君」
 わざとらしいまでにうやうやしく告げられた恭順を、獣王は鼻で(わら)いとばした。
「―――当然だ」
 ゼロスは小さく肩をすくめる。
「それに冥王さまはもういらっしゃいませんし、海王さまは海王さまで、ご自分と似たタイプの者はたとえ配下であってもお嫌いですからねぇ」
「たしかにお前は信用できんだろうよ」
 他人事のようにそう言い、獣王は話を戻そうとしてその内容を思いだして顔をしかめた。
「我らの糧は負の感情だ」
 唐突に言われたその言葉に、特に驚きもせずゼロスは頷いた。
「ええ。もちろんです」
「喰わなくても滅びはしない。餓えはあるがな」
「まあ、それも事実ですが。それが何か?」
 獣王は心底呆れたといった顔で己の部下をちらりと見やり、すぐに虚空に視線を投げた。
「―――喰えもしない執着心をわざわざ煽った魔族は、後にも先にもお前だけだろう」
「いたらびっくりです。憎悪はともかく恋愛感情なんて無いでしょうねぇ」
 獣王は息を吐いた。もともとこんな部下だ。人間たちのなかに入りこんで活動がしやすいように、わざとそういう一面を持たせて創造してある。いまさら呆れるのも馬鹿らしいというものか。
悪食(あくじき)め。私に近づくな」
「ひどいですね。別に食べたわけじゃないんですが」
「悪趣味め」
「それは否定しませんが………そんなこととっくにご存じでしょうに。いまさら仰っても困ります。これがいちばん効率がよいと思ったからしたんですよ?」
「たしかに齟齬(そご)は少なくなるだろう」
 部下の意見の正しさを獣王は認めたが、続けてじろりと相手を睨んだ。
「だが、お前がいちばん楽しめる方法でもあるな?」
「ええ。やはり仕事は楽しくやりませんと」
 さらりと答えた配下の神官に、獣王はもはやひらひらと手をふるだけだった。
「呆れて物も言えん。さっさと行け。報告を忘れるな」
「では仰せのままに―――」
 慇懃(いんぎん)に一礼して、ゼロスは姿を消した。
 虚空に視線を投げて、獣王はふと視線を険しくした。
 もたらされる報告は順調だ。確実に計画は進んでいる。何の障害も予期していた邪魔もない。
 すべては当初の思惑通りに進んでいる。
 ならば、この漠然とした不安は何だ―――?
 どうも何かが引っかかる。うまくいけばいくほど、その先に途方もない落とし穴が待っているような気になる。
「いかんな………悪い癖だ」
 海王もだが、獣王も気まぐれだ。自覚はあるし、部下にも間違いなくその気質は継がれている。
 ただ海王と違うのは、気まぐれや勘が事の決定を左右することがある点だった。
 あくまでも気まぐれはおのれの享楽のみ。計画自体は一分の隙もなく進める海王と違い、獣王は時々「何となく嫌な予感がする」などという、端から見ると理由にもならないような理由で計画を取りやめたり、方向性を変えてしまうことがあった。獣の性状なのだろう。
 結果からするとそれが正しかったりするのだが、冥王や覇王からは毎回嫌な顔をされた。―――それを気にする獣王でもないが。
 座所でひとり髪を掻きあげ、獣王は釈然としない吐息をもらした。
「どうも、何かが引っかかる………波そのもののせいか?」
 今回はそもそも最初の計画の立案自体からして常にないものだっただけに、それで懸念を抱いているのだろうか。
 しかし計画は順調だ。このうえもなく。うまくいけば、こちら側の勢力は降魔戦争時を上回るだろう。期待していいはずなのだ。
 しばらくは様子を見るしかなかった。何か変化があればそれを見て変更するとは言ってあるのだから。
 獣王は物憂げに目を閉じた。