Ria and Yuzuha's story : Last wish 【All standard is you】 前編 〔17〕

 吹きつけてくる北風にリアは目を細め、巻きあがる髪を押さえた
「うわ、寒………」
 家の裏庭は風を遮るものが何もない。吹きすさぶ風が、スリットの深い服の裾を大きくはためかせて流れていく。
 誰の姿もない庭は閑散としている。裏手の木立はこれといった境界もなく、そのまま街道沿いの林と繋がっているため、どこまでも広い。剣の稽古のために大きく場所をとってあるだけに、なおさら寒々しく見えた。
 誰のものかは判然としないが、木剣が壁際に立てかけられて置いてある。もしかするとリアのものかもしれない。こちらに帰ってきてからは一度も出した憶えはないが、彼女の留守中に家族の誰かが持ち出した可能性がないとは言い切れない。自分の持ち物に触られることが我慢ならないリアだが、三年も留守にしていたのだから文句を言える筋合いでもない。
 何をするわけでもなく来てしまった。ぼんやりとリアは庭に立ちつくす。
 家のなかにはだれもいない。
 リナとガウリイは珍しく一緒に街のほうまで出かけていた。ティルトは王宮へと行っている。
 ユズハはしばらくここで寝起きしていたが、アメリアに呼ばれて一昨日、王宮のほうへと戻っていた。
 ユズハがいなくなった途端、また夢を見るようになった。目が覚めるたびに家族に近寄れなくなっていく自分がいる。だれも何も言わないが、それぞれ何か言いたげで、きっかけが訪れるのを待っているかのような日々の平穏だった。
 夢の偏りに気づくには、あまりに自身の抱える闇が深すぎた。何もかも自分のせいではないのかと思えるほど、己の内側はただ(くら)い。
 夢のなかで狂ったように哄笑しているのは自分だ。紅い瞳の自分。
 自分のなかの他の何か、というわけではなかった。それはどう足掻こうと間違いなく自分の一部だった。転生を果たしている以上、それは自分自身。リア・クーン=インバースという人間の魂そのもの。
 それを否定する気にはなれない。少なくとも自分の魂の半分は赤く昏い闇であることは間違いない。そんな生まれの自分とどう付きあっていくかが、この当たりくじを引いてしまった人間に課せられた義務だった。
 リアが選んだのは、隠すこと―――。
 隠し、なだめ、互いに影響を与えあうことによって、牽制すること。
 十八年間、ただ黙ってぼんやりそれとつきあってきたわけではない。
「いつか、あたしと完全に溶けて不可分のものになればいいわ………」
 冬枯れの木立のなかで、リアはひっそりと微笑した。
 母から聞いた、母の物語。
 リアが最も知りたかったのは―――どうやって(たお)したのかという、その方法だった。
 一度目は禁呪と光の剣と、器であった者の意志。
 二度目は呪符(タリスマン)と、やはり―――器であった者の意志。
 ならば、この自分ならどうなるのだろう。自覚があるというだけで、ある意味覚醒しているようなものだ。
 取りこむのか、取りこまれるのか。
 ずいぶんと分の悪い勝負だが、あきらめる気はない。少なくともこれまでは、どうにか踏みとどまれている。
 ふと表のほうで物音がしたような気がして、リアはそちらに顔を向けた。誰か帰ってきたのだろうか。
 家のほうに向きなおれば、壁に立てかけてある木剣が自然と視界に入った。
 この手はまだ、剣を握れるだろうか―――。
 ゼルガディスとの手合わせ以来、リアは剣を握ることをやめていた。小剣を()いてはいても、抜いたことはない。
 それでも夢のなかでは絶えず剣をふるっているせいか、長くそれに触れていないという実感がなかった。どれほど醜く歪もうと結局、自分は剣を手放せない。わかっている。
 少しためらった後、リアは近寄ると木剣にそっと手をかけた。
 同時に耳が足音をとらえた。
 角を曲がって、姿を現したのは―――。
「―――ッ!」
 とっさにリアは大地を蹴って後ろに飛んでいた。薙がれた空間が唸りの音を立てる。
 木剣を手に、落ち葉を蹴散らしながら彼女は着地した。片手を地につけ体を支えたまま、顔をあげる。
 使いこまれたくすんだ色の木肌がまず目に飛びこんできた。同じ木剣。それを手にして立つ、弟の姿。
 迷いと怒りの宿るその双眸が網膜に灼きついた一瞬の後、リアは再び地を蹴って飛んでいた。
 風にあおられて落ち葉が舞いあがる。
 その乾いた音にかき消されぬよう、リアは叫んだ。
「ティルト!」
 右手で握った木剣が急にその重さと存在感を増した。
 自分は剣をふるえるのだろうか―――。
 闇と(かつ)えが、弟という形をとって目の前に現れたのかのようだった。
 いま、剣をふるってしまったら―――。
「もう、ダメなんだ」
 剣を手にしたまま、ティルトが口を開いた。
 蒼穹の双眸は真っ直ぐに姉の姿をとらえている。
「訊かなきゃわかんねぇ。ひとり考えても、どうしようもないとこまで来てる。なあ、姉さん―――」
 ふるえだす腕をリアは必死で押さえつけた。聞きたくない、これ以上。
「訊いたら、答えてくれるか?」
「………やめなさい」
 小さな呟きは風にさらわれ、弟のもとまで届かなかった。
 思い詰めた顔で、その唇が言葉を紡ぐ。
「姉さんは、オレのこと―――」
「やめなさいッ!」
「答えろよ!」
 叫びはティルトの怒号に弾き返され、同時に剣が唸った。
 真剣のときとは比べものにならない鈍い音が響く。それでもその意味の重さだけは変わらない。
 立て続けの連撃を避けようと、リアは地を蹴り横に飛んだ。追いすがる剣先を避けて木の幹を蹴りあげ、枝に手をかけ体を引きあげる。獣のようだが、攻撃を避けるには高低差をつけて間合いの外に出るのがいちばんいい。
 見あげてくる弟の姿に視線を奔らせながら、リアは感じた違和感の正体を突きとめようとした。
(剣筋が………)
 以前のあのときと比べて、弟の剣が―――。
 木剣だからか? 違う。剣の違いでは説明しようがない。明らかに剣をふるうその動きに、鈍さがある。向こうから仕掛けてきたにもかかわらず。
 透徹としたあの迷いのない、本人そのものだったような剣ではない。………いや。逆に本人そのものだからこそ、いまこのような。
「剣を………握ってない………?」
 思わず唇から洩れた疑問にティルトが顔を歪め、こちらを睨みつけた。
「握れるわけねぇだろっ。答えろよ! でなきゃ、オレは剣を握れない!」
 リアはそっと吐息をこぼした。
 斬り折ってしまった。自分のなかの闇が。どこまでも健やかに伸びていくはずだったのに。
 あの日から歯車は狂いだしてしまった。分かたれた糸が()りあう日はもうこない。
 とりかえしはつかない。わかっている。
 今更どれほど後悔していたとしても。もう自分は何をしてやる資格もない。
 ただそれでも、求められたならば応えるべきだった。せめて、それぐらいのことはしなければ、どこまでも自分の狡さと闇が深さを増していくだけで―――。
 リアは唇を噛んで、ティルトを見下ろした。
 だが怖れがある。いま剣を交わせば、今度こそ自分は―――。
 思考を断ち切るように、不意にティルトが呪文を放った。起こされた強風にあおられて枝がしなる。
 リアは自ら手を離し、枝から落ちた。着地点めがけてティルトが走る。
 ふるわれた一撃を、リアの剣が弾き返していた。やはり剣筋は鈍く、弱い。
 ぐらつきのある自らの動きに怒りをおぼえたのか、立て続けの応酬が繰り広げられた。これから冬を迎える冷えた風と互いの剣圧が髪をなびかせ、落ち葉を巻きあげる。
 疑念にとらわれたまま剣をふるってくる弟を見返し、ふとリアの心に影が落ちた。
 あの夏のやりとりとは比べものにならないほど、互いに濁ったこの剣劇。()れあいですらない。泥のような互いの感情が、剣を撃ちあわせる度に掻きまわされて粘りを増していく。
(――――!)
 本能が鳴らす警鐘にしたがって、リアは間合いをとって飛びすさった―――その瞬間。
 久々に、それは来た(・・・・・)
 再燃される幾つもの映像。鋼のぶつかりあう火花と鼻を突くような、きな臭い匂い。斬り裂かれて飛び散る血の匂いが混じりあい、思考を奪う。
 いま目の前にあるものとまったく同じ蒼穹の双眸。ひどくとうめいな、哀しみと怒り。
 胸に突きこんだ刃が肉を割る、その感触―――違う。それは夢だ。混ざっている―――殺すのか? 殺されるのか? どちらだ。どちらが正しい―――。
 違う。だからそれは、夢で―――。
 夢の続きのようにティルトが真っ向から斬りかかってきた。
 剣閃が奔る。反射的に動いた腕は止まらない。
 視界が白く灼けた。
 心臓を貫き真紅にまみれて背から突きだす剣の切っ先。
 ふるえる弟の唇から吐きだされた赤い飛沫が視界を閉ざし―――。


 今度こそ殺してしまう………!


 もはや見えているものが幻かどうかもわからず、悲鳴をあげているのかすらもわからなかった。視界を閉ざしている真紅は血飛沫なのか、ただ一面に舞う落葉なのか―――。
「―――ダメ、泣いてイル!」
 鮮やかな声が火花のように剣隙(けんげき)のあいだから響き渡った。
 鋭く叫ぶその幼い声に、我に返る。
 鈍い音がした。互いの体に撃ちこまれる寸前の剣のあいだに、ユズハが空間を割って姿を現していた。
 降るような湧きあがるような、一面の赤い落ち葉。
 ひるがえる淡い白金の髪が一瞬それぞれの相手の姿を隠す。二人の剣撃に挟まれる形になったユズハはその勢いのまま吹き飛ばされ、木の幹に叩きつけられた。愕然と姉弟は目をみはる。
 リアは木剣を放りだしてそちらに駆けよった。ティルトはあまりのことに凍りついたまま、声もなく立ちつくしている。
「ユズハっ!」
「………うむ。痛イ、痛々しイ」
 しばらく微動だにせず転がっていたユズハは、不意に何の予備動作もなく起きあがった。物理攻撃だったことが幸いしてか、たいしてこたえた様子もない。リアは安堵して大きく息を吐きだし、その場に膝をついた。
 ユズハがリアを見あげる。やがてふわりとリアの頬に手を伸ばした。
「泣いてイル」
 驚いてリアは己の頬に手をやった。気づきもしなかった。
 微かな声が風に乗って流れてきたのはそのときだった。
「………んでだよ」
 ふり返った先で、色を失ったその唇がかすかに動くのが見えた。
 視線が互いをとらえ、見開かれたままの青い双眸から涙が溢れだす。
「何で………姉さんが泣いてんだよ」
 口調だけは激しかったが、その声音は消えそうに弱々しかった。手は体の両脇で握りしめられ、固く強張って動こうとしない。いま迂闊にその拳をほどいたら、そのまま立つことすらできなくなってしまうかのように固く、きつく。剣を、握ったまま。
 拭われることのない涙が頬を濡らして、顎先から滴り落ちた。
「何でだよ。泣きたいのはオレなのに………ッ!」
 リアは何かを言おうとして結局、口を閉ざした。
 ユズハがリアを見あげ、それからティルトを見た。そこには何の感情も浮かんでいない。
「ごめんね………」
 気づけば、言わずにおくと決めていたはずの謝罪の言葉がリアの唇をこぼれ落ちていった。
 赦しを乞うことすら自分に許したくはなかった。間違いなく殺すつもりで剣を向けた自分が、拒絶の言葉を叩きつけたその口で、赦してほしい、愛しているなどと言えるはずがない。
 ただそれでも、泣いている弟は愛おしかった。
 当たり前のようにくり返される悪い夢。闇に溺れれば溺れるほど、すべてものは哀しく愛しく、そして遙かに遠ざかっていく。
 ―――それでいい。
 もうだめだ。完全に絆を分かつしかない。
 居たら互いにどうにもならない。一方的に傷つけるだけだ―――。
「あたしには答えられない―――」
「………げるな」
 激情にかすれた声がささやく。
「逃げるな! オレは………姉さんが怖い。わからなくて、怖い。何考えてんのか、わかってしまうのだって、怖い。だけど―――」
 リアは激しく首を横にふっていた。
 言うな。聞きたくない。
 淡い光と大気が凍りついたように時を止める。
「だけど、嫌いになんかなれるはずがないんだ」
 放たれた言葉は矢のようにリアを穿(うが)ち貫く。呼吸が止まる。
 赦してはいけない。お願いだからこれ以上、何も言わないで………!
「姉さんは、オレにどうしてほしいんだよ。何で、オレじゃなくて、姉さんが泣くんだよ………!」
「あたしには」
 絶え絶えにリアはやっと呟いた。
「………あたしには、あんたの剣は斬れないわ」
 だけど、あんたは斬れた。それだけで済ませてしまった。それが答え。―――あたしはきっと、ずっとあんたになりたかった。
「あたしは、あんたがうらやましい」
 かろうじてそれだけを言った。
 ティルトは何のことかわからずに言葉を失っている。
 微かにリアは笑った。
 願ってもいいだろうか。祈っても許されるだろうか。
 壊したものを、いまさら護ると。
 砕いたものを、いまさら庇うと。
 幼い頃、何の濁りもない愛情とともに抱きしめて誓ったように。
 もう一度だけ。手遅れの今この時から。
 何よりも、赫い双眸を輝かせて(わら)うこの自分自身から。
「ごめんね………こんな姉さんで」
 ティルトが癇性に首をふる。
 リアは家に背を向けた。