Ria and Yuzuha's story : Last wish 【All standard is you】 前編 〔18〕
家の前までやって来たガウリイが突然、無言で裏庭へとまわりこんだので、リナは面食らいながらもその後に続いた。
木々が鈍色の空に向かって寒々しい枝を広げている。おびただしく散った枯れ葉が風にさらわれて、もの悲しい音とともに大地を転がっていった。
「………やりあったな」
わずかに眉をひそめ、ガウリイがそれだけを言った。それだけで事の次第を悟ったリナは、無言で目を見張る。
ガウリイは視線を巡らせると、うち捨てられたように置かれた二振りの木剣に目を留め、それから、ややもすると見落としてしまいそうな踏みこみの跡や、土の残っている枝を眺め、溜息をついた。
「どっちが勝ったの?」
「さすがにそこまではわからんぞ」
言いながらガウリイは痕跡をひとつひとつ指し示した。相変わらずの相棒の鋭さに、リナは呆れ顔で腰に手を当てた。
「普通はそれもわからないものなんだけどね………。で、二人して姿が見えないのはどういうことかしら。まさかやりあったあと、仲良くどこかに遊びに行ったわけじゃないでしょうね?」
それなら何の心配もいらないんだけどね―――。
息を吐いて、リナは庭を見渡した。
もうすぐ日が落ちる。吹き渡る風にリナはぶるりと身をふるわせた。
これがいつもの手合わせなら何の心配もしない。しかしそう思うには、あまりにも不安な要素が多すぎた。
木剣なのでまだ安心できたが、それでも剣を合わせるという行為自体がひどく重い。
ガウリイが剣を拾いあげ、リナを返り見た。
「なあ、リナ。おれたち、何かを見落としていないか」
唐突な問いに、リナは顔をしかめて相手を見返した。
「何かって、何を?」
「いや、上手く言えないんだが………昔はこんなだったか?」
「だから何が」
昔と言われ、ますますリナの眉間に皺が寄る。
「リアとティルのことなら、昔からそうじゃない。リアは小さい頃からそれこそ天秤みたいに感情の起伏が激しくて、ティルはティルで起伏激しいけど安定してて達観してるからリアの神経逆なでするし―――」
「そうじゃない」
静かにガウリイはリナの言葉を遮ると、何かを探るようにわずかに首を傾げた。
「リアとティルのことじゃなくて………おれたちだ」
栗色の髪を揺らして、リナはガウリイをふり向いていた。
相変わることなく透明で底の見えない瞳が、リナを見つめている。
「あたしと、あんた………?」
ガウリイは小さく頷いた。
薄暮が降りる庭に立ちつくし、リナはしばらく微動だにしなかった。
やがてリナが言葉を発する。
「―――あたしたち、こんなに後手後手だったかしら?」
ガウリイは無言だった。
「何か、面白くないわね。ひどく鈍いわ。うまく回転してない。………そうね。何か馬鹿らしくなってきたわ。こっちはこっちで勝手に首突っこませてもらいましょうか」
干渉はしない。滅多なことでは世話も焼かない。ガウリイはかまいたがりだが、リナはゼルガディスとアメリアから呆れられるほど放任主義だ。可愛がるのとかまいつけるのとは違う。それぞれ互いに勝手に行動し干渉しない―――そしてまた、互いに勝手な事情で相手に干渉することも、ある。
不干渉というのは、裏を返せば相手の都合など頓着しないということだ。
風の行方を追うように、髪を揺らしてリナは背後の庭をふり返る。黄昏の光のなか、茜の光を帯びて瞳が鋭くきらめいた。
「くっそガキども………一発殴っちゃる」
呟き、鮮やかに身をひるがえすとリナは庭を後にした。ガウリイがそれに続き、一度だけ視線を背後に投げる。
「こんなことのために託してる剣じゃないんだ」
その言葉が聞こえたのか、リナが一瞬だけ微かに瞳を揺らがせた。
真紅の双眸が痛みをはらんでいた。
日が落ちるには、まだ少し早い。
雑踏のなか、ゼフィアはふと周囲のざわめきが小さくなったような気がした。多分、一点に注意を向けたため、他の余計な情報を無意識に遮断したのだろう。
通りの向こう、路地の入口でぼんやりと立ちつくしてる少年がいる。
人待ち顔でもなく、行き交う人々を眺めているという様子でもない。
ゼフィアと少年とを隔てる人の流れがその姿を切れ切れに遮るが、それでも見失っているあいだに彼が立ち去ってしまうような素振りはなかった。ただぼんやりと立ち、大通りの光景をその目に映しているだけだ。
初めて見る顔の少年だったが、どこか既視感を憶えた。
癖のない栗色の髪が乾いた初冬の風に遊んでいる。真っ青な双眸は茫洋としてどこを見ているのかわからない。
こちらを見ているが、ゼフィアを見ているわけではない。
買った包みを持ちなおし、ゼフィアはゆっくりとそちらに向かって歩きだした。
「―――男の子がそう簡単に泣くものじゃないですよ」
弾かれたように少年が顔をあげた。射しこむ光に眩しそうに目を細め、ゼフィアを見あげる。
つかみどころなく曖昧だった瞳に光が戻り、続けて不機嫌そうに顔がしかめられた。
「泣いてない」
「そうですか。なら、私の見間違いだったようですね。すいません」
ゼフィアが謝罪すると、目の縁を赤くしたまま少年はそっぽを向いた。
「………いまは、泣いてない」
ぽつんとそれだけを言って、少年は視線を戻すと真っ直ぐに彼を見あげた。
「アセリアとユレイアが言ってた」
知った名にゼフィアはわずかに目を細める。
「髪が長くて、とても綺麗な銀色だって。………あなたが、ゼフィアさん?」
「それだけで特定できますか?」
「だって、本当に綺麗な色してる。すげぇ、水銀みたいだ」
「無精で伸ばしている髪をほめられるのは、少し決まりが悪いですね」
ゼフィアは苦笑して、あらためて少年を見つめた。
「………リナに、似ていますね。それで、どこかで見たと思ったんでしょう。………ティルトですね?」
無言で相手が小さく頷いた。
「なぜか最初、クーンかと思いました」
「………オレが?」
戸惑ったような呟きに、ゼフィアは真面目に頷き返していた。
「ええ。見えたのかと思った」
「あ………」
ティルトが思いだしたように声をあげ、ゼフィアに問うような視線を向けた。
ひどく真っ直ぐな視線だった。この歳の少年が持つ目とは思えないほど、透明でまっさらな。
誰かに似ていると思い、すぐにユズハを思いだした。根本は違うが、傍目にはその無垢さが似ているように見える。
「本当に、姉さんだけ見えないのか?」
遠慮のないその問いを、怒ることなくゼフィアは無言で肯定した。
納得いかないというように、ティルトが癇性に首をふる。まるで目に映るものすべてが理不尽なものばかりなのだというような、ひどく幼い仕草だった。
「それでも姉さんのことが好きなのか? 姉さんだけ見えないのに。姉さんだけ、あなたの世界ではいるかいないかわからない幽霊みたいなものなのに―――」
「………ええ。それでも」
怖ろしくストレートな問いに、ゼフィアもそのまま答えを口にしていた。
ティルトは少し嬉しそうに微笑したが、すぐにその笑みを消すと瞳を翳らせる。
「じゃあ、オレが足りてないんだ。オレは見えてるのに、わからないんだ。よくわからないまま、怖くて、剣が握れない。嫌いじゃないのに。好きでいてほしいのに。どうすればいいのかわからない」
「ティルト―――」
初めて会った少年の名を呼んで、ゼフィアは少し、ためらった。
いま迂闊に何かを言うと、手の施しようもなく壊れてしまいそうな、そんな予感がした。
まだ彼よりもはるかに背の低い、これから伸びてゆく直前の少年。普段は子ども扱いされると怒り、一人前に扱われることを望むような、そんな。
しかしいまは、どうしようもなく傷ついている子どもだった。
「泣きたいのはオレのほうなのに………なのに、姉さんが泣くんだ。狡ぃよ………ッ」
不意にくしゃくしゃと顔を歪め、ティルトが唇をひき結んだ。
通りからもゼフィア自身の視界からも隠れるようにその肩を引きよせると、ゼフィアはいまはまだ小さな背中を一度だけそっと叩いた。
「すいません、先の言葉は撤回します。―――泣いていいときだってあるんです。あなたは何も悪くない」
肩がわずかにふるえ、やがて小さな嗚咽がこぼれはじめた。
ユズハを送りとどけにきた王宮で、リアはユレイアが呼んでいると顔見知りの女官に呼び止められた。
そのまま帰るつもりだったのだが、帰ろうにもいったいどこに帰ればいいのかということに思いあたり、仕方なく会いに行くことにした。ユズハは薄情なもので、さっさとどこかに行ってしまっている。先の出来事などまるでなかったかのように、あっさりしたものだった。ユズハらしいといえばらしいが、人間はユズハほど頓着なくできていない。頭のなかはぐちゃぐちゃだった。
長い回廊を先導されて歩いているうちに、リアはどうにか表面上だけは平静を保っているように表情を整えた。リアたち姉弟の不和にもっとも心を痛めるのは、生まれたときから姉弟と一緒にいる双子の王女なのは間違いない。もう、とりつくろいきれないとはいえ、傷つけたくはなかった。
春を待ってなどと言わずに、旅に出ようか。
家族揃って放浪癖がある。本来ならいつまでもセイルーンにいる理由はないのだ。まずはミレイたちに会いにサイラーグに行って、それから―――。
リアは溜息とともに、首をふった。いま考えるべきことではない。
王女の私室に入ると、待ちかねたようにユレイアが立ちあがってリアを出迎えた。アセリアの姿はない。
「急に呼びだしてしまってすいません」
「ううん、いいのよ。どうせこっち来たついでだしね。アストラルパターンのことでしょう?」
微笑したリアの内面の嵐が、年下の王女に悟られることはなかった。わかりやすいだのなんだの散々言われる自分だが、隠すとなったら徹底的に隠す。それこそ内側に抱えこんだ闇の存在をいままでひた隠しにしてきたように。
―――果たして、この少女は気づいただろうか。
「はい。ゼフィアさんと、クーン姉上のアストラルパターンの解析はひととおり終わりました」
ユレイアはリアから視線を外し、机上の資料を示した。ごちゃごちゃと物が置かれ、およそ一国の王女の書き物机の上だとは思えない有様だった。このあたりは整理整頓が好きなくせに片づけ上手とはいえないゼルガディスのほうに似たのかもしれない。
「それで、解析しながら気になったことがあって―――」
言いながら、ユレイアはオーブのひとつを取りあげると、いきなり起動させた。
大音量がリアの鼓膜を襲撃する。再生は一瞬で、幾つもの音が何重にも重なった音の塊だったため、聞き分けるのは不可能だった。
どういうわけか、ぞっと鳥肌が立ち、思わず両腕で自らを抱きしめる。
「いまのが? メロディとかないの?」
「ないです。音律と音素っていうのはまた別のもので………って、うまく説明できないんで省きますけど、とりあえずこれは、分析して抽出した音を全部一拍にして重ねてあります。………いまのはゼフィアさんのです」
「え? あたしのじゃないの?」
てっきり自分のものだとばかり思っていたリアは驚いて問い返した。
「違います。姉上のもありますが、聞きますか?」
「………いい」
リアは首を横にふった。ユレイアには悪いが、この音が彼だと言われてもさっぱりわからない。自分の音を聞いてもやはりわからないだろう。
「それで、何が気になったの?」
「これを見てもらえますか? アストラルパターンや混沌の言語を音にするときの音素の一覧なんですけど―――」
羊皮紙の束を手にユレイアの説明がはじまったが、字面を見てその音がどういうものなのかを理解しろというのは無理な話だった。一般的な楽譜は約束事が簡単だからまだ読めるが、他人と違う感覚を持っているユレイアが書く音素記号は、独自性が高すぎて理解不能だ。そもそも微妙な音の聞き分けがユレイア以外には不可能なのである。
どうやらゼフィアのアストラルパターンで一部おかしな部分があるらしいということだけ理解すると、リアは眉間を押さえながらうめいた。
「………ごめん、ユレイア。あたしあんたの出した結果を信じてるから、結論だけ言ってちょうだい」
リアがそう言うと、ユレイアは途端に口ごもって不安そうな顔でリアを見つめ返してきた。
それでもやがて意を決したらしく、小さな声で呟く。
「―――暗示だと思います」
「暗示?」
問い返した途端、リアの脳裏で何かが嫌な音をたてて警鐘を鳴らしはじめた。
「うまく言えないんですけど、アストラルパターンそのものが変なんです。変化するはずのないところが変化していて………まるで手を加えられたみたいに。自己か他からのものかはわかりません。でも、それだと説明がつきます。きっとゼフィアさんは………そのせいで、クーン姉上だけ見えないんです」
以前に交わしたゼフィアとの会話がリアの脳裏によみがえった。
夢を見ると言った。見えているのに、何も記憶には残らない夢。
見えているのに記憶には残らない?
リアは無意識のうちに額に手を強く押し当てていた。
暗示―――?
自己ではない。ユズハがその可能性を彼自身の前で否定した。ユズハは信じられる。すると他者からのものだ。だとしたら、誰が?
リアだと認識した情報だけを、本人にも気どられず拒絶するようにし向けるなど―――言うのは簡単だが、実際に施すのは困難だ。だいたい暗示などというものは、薬物と閉鎖的な環境を用意して長期的に施す非効率的なしろもので、いくら傀儡の魔法などがあるといっても短時間に行えるものではない。ならば―――。
(んー、何か、ヘン)
彼を見て不思議そうに首を傾げたユズハ。
「…………ッ!」
怖ろしい可能性に思いあたり、リアはユレイアに気どられぬよう息を呑んだ。
ゼフィアは視力をとり戻した瞬間から、リアを認識できなかった。
それはつまり、暗示は彼の目が治る以前に与えられていたということだ。当然ながらゼフィアはリアの容姿を知らない。そのときも、いまも。
色彩的な特徴などは会話によって知り得てはいても、実際に目にしていない容姿を総括的な視覚情報として知ることはできないはずだった。
一度もその姿を目にしたこともない相手だけを認識から弾きだすなどという、途方もない暗示をかけられるのは。
そんなことができるのは―――。
(気づかれている………!?)
導きだされたその事実に、目の前が真っ暗になった。
いつだ。いつ気づかれた。
夏の一件より以前ではないはずだ。とすると、その後から、彼の目が治った秋初めにかけて。いちばん可能性があるのはやはり、あの地下での発作だ。あのときに観察されていた………?
しかし、もし推測の通りだとして目的は何だ。最終的な目的は明白だが、彼にこんな中途半端な暗示をかける意図がわからない。
「―――クーン姉上?」
気遣わしげな声にリアははっとして顔をあげた。
泣きそうな顔でユレイアがこちらを見ている。
「ごめんなさい。暗示だなんて変なこと言ってしまって………! やっぱり、私もう一度調べなおします………っ」
「ああ、違う。違うわ、ユレイア」
リアはユレイアの肩を抱きよせると、その頭を己の肩に預けさせた。安心させるように背中を軽く叩いてやると、緊張していたらしいその体から、ふっと力が抜ける。
ユレイアの顔は見えない。
そして、この体勢からだとリアの顔もユレイアからは見えない。それでいい。
「ごめんね。違う、ユレイアが悪いんじゃないの。教えてくれてありがとう。―――本当にありがとう、あたしのために。感謝してる。ほんとよ?」
大きく息を吐きだし、リアは無理に笑みを作ると、ユレイアから体を離した。
「きっとユレイア、あたしに言うって決める前に何度も調べなおしたんでしょ? それぐらいわかってるわよ。だいじょうぶよ、自己暗示だろうとそうじゃなかろうと、腹立てて殴る相手がちょっと変わるだけだもの。だから、そんな顔しないの」
「はい………」
しょげた顔のままユレイアがこくりと頷いた。リアは苦笑してその頭を撫でてやる。
「もう、そんな顔しない」
「クーン姉上のほうが、泣きそうな顔してます………!」
癇癪を起こしたようにユレイアは激しく首を横にふった。
「そんな顔しないでください!」
内心溜息をつくと、リアは表情を悟られないよう、もう一度ユレイアを抱きしめてその耳元で囁いた。
「ユレイア、よく聞いて。あたしは本当にユレイアに感謝してるのよ。こんなに熱心に調べてくれて………あたしのために」
一度言葉を切り、リアは瞑目する。
この腕のなかのまだ幼い妹同然の少女はまだ気づかない。そして、彼女より先に気づかれてはいけない相手に気づかれてしまった。賭けはものの見事にこちらの惨敗だ。
這いあがる暗い絶望感に抗いながら、リアは泣きそうな顔で微笑んだ。
護りたい、と心の底から願う相手は多い。
絶対に巻きこんだりするものかと誓った相手は、すでに逃れようもなく闇に絡めとられている。彼だけは巻きこみたくないと、何も知られたくないと、思い続けてきたのに。
もうだめだ。ひとりでは護りきれない。踏みとどまれず、このままではたどり着く先は奈落だ。こちらの手札はないに等しい。
夏の結界騒動が終わり、母親にあの獣神官について問うたことがある。両親たちならあの魔族に勝てるのかと。―――答えは、否。
ダメージを与える術ならある。滅ぼす術も最悪の禁じ手だがあるにはある。だが、それをぶつける前に向こうは笑いながらこちらを殺すだろうと。あの魔族は上から数えた方が早いぐらい高位に位置する存在であり、幸運なことに、いままで直接敵対することがなかっただけの話なのだと―――。
魔王すら相手どったくせに、母親はおそろしく真剣な顔でそう言ったのだ。
自分ひとりで勝てるはずもない。
「―――クーン姉上?」
そっと呼ばれ、リアは我に返った。
腕のなかの小さな肩を抱きしめなおして、その耳元に再び囁きを落とす。
「いい、ユレイア。よく聞いて。いまここで、話してくれたことをあたし以外の人には黙っていてほしいの。あたしがいいと言うまで。アメリアさんや母さんたちにも」
「どうしてですか?」
困惑した様子でユレイアが訊ね返してくる。
「ユレイアは、ゼフィの目の状態を暗示かもしれないって言ったわね」
肩のところで、ユレイアが頷く動作をしたのがわかった。
「なら、その暗示をかけたのは誰だと思う………? こんな条件付けの難しい暗示をかけることができるのは」
「え………?」
質問の意味がわからず、ユレイアが不思議そうに呟いた。
続いて、その喉が鋭く息を呑む音をたてる。リアの腕のなかで小さな体が強ばった。
「まさか………」
「他には考えられないわ」
愕然としたユレイアがリアの顔を見て事実を確かめようと身を起こしかける。あえてその体を解放せずに、リアは囁き続けた。
「目的はわからないわ。けど、こちらが気づいたということを気づかせてはならない。………わかるわね?」
「だけど、リナさんたちには言っておいたほうがいいに決まってます。父上や母上にも………!」
必死に反論してくるユレイアに、リアは発作的に笑いそうになった。目的がわからないなどとはよく言ったものだ。彼に暗示を施す意図は読めなくとも、最終的な向こうの目的はただひとつしかない。
それでもまだ、この妹同然の王女には言えなかった。リアにとって、この腕のなかの少女は庇護の対象であって、頼る相手ではない。話すとしたら彼女ではない。
「わかってる。ちゃんと言うわ」
「なら、どうして―――」
もがいていたユレイアは急に解放されて戸惑った様子だったが、すぐに泣きそうな顔でリアを見あげた。
「だから、そんな泣きそうな顔をしない。ちゃんと言うわ。ずっと黙っているってわけじゃないのよ。まず、ゼフィの様子を確かめてみないといけないし………話すのはそれからでも遅くないでしょう?」
「でも―――!」
「わかって。そう何度も話せないわ。話すなら一度にまとめてよ。どこで聞かれているかわからない」
びくりとユレイアが恐怖に身をふるわせる。彼女とアセリアは本当に普通の少女だ。人より少々呪文が使え、魔力に聡いが、それでも魔族の相手など荷が重すぎる。ユレイアを再び抱きしめて、リアは安心させるようにその真っ直ぐな黒髪を撫でた。
「いまはだいじょうぶよ。結界の中心部だし、いたらユズハが気づくわ。―――ね、だからお願い。二、三日でいいから」
しばらく沈黙があったが、やがてユレイアはうつむいたまま小さく頷いた。
その髪をくり返し撫でてやりながら、リアは虚ろに微笑し、目を閉じた。
どこまでも愚かに、自分は。
何かが起こるときは本当に立て続けだ。自分は弟にあわせる顔すらもうないというのに、何もかもかなぐり捨てて、なりふりかまわず父と母に会いに行かねばならない。彼らにそれだけはさせられないと、誓っていたはずなのに。
それでも、自分の首を掻き切るよりはまだ何倍もましな方法に思えたから、リアは心を決めた。
絶対に言えないと、かざし続けてきた沈黙の盾はいまこの時に砕けてしまった。奈落の縁まで追いつめられた今更になって、当然の権利のように助けてほしいと手を伸ばしてしまう甘ったれた自分を赦してほしい。もう、委ねないと誰も護れない。―――彼を護れない。
彼を巻きこんだという事実が、いままで拒み続けていた選択肢を自分に選ばせた。
以前、迷っていろとリアに告げたゼルガディスは。迷っていられるうちが幸せなのだと知っていたのだろうか。
いつだって。物事は差し迫ってくると、受け入れるか拒絶するかの二択しかない。
ただ、それでも。
瞑目したまま、リアは願う。
一晩だけ、どうか時間を―――。
今夜だけは、まだ迷うことを許してほしい。そんなにすぐには思い切れない。
今日はあまりに色んなことがありすぎて、どうしようもなく疲れてしまった。無性に彼に会いたかった。この自分の抱える闇に巻きこんでしまった、彼に。
(どうか、あたしを赦してください)
闇の向こう側でその眷属が手招きをしているのが見える。
それでもまだ、絶望は遠く思えたことだけが救いだった。たとえ先刻とりかえしのつかないまま、背を向けてきた想いがあったとしても。
逃げる気はない。あきらめる気はない。
自分はまだ、リアだ。リア=ガブリエフ。または、リア・クーン=インバース。
誇らかに、あの二人の娘であると胸を張ってまだ言える。
正しくなくても自分は前に歩き続ける。あきらめるにはまだ早い。
壊したものを。砕いたものを。
望んだものを。得られたものを。
この手にしていたものを。
まだ手にしているものを―――守り抜く、絶対に。
「あなたたちは絶対に、あたしが守るから………」
リアはユレイアを抱きしめたまま、そっとささやいた。
ここにはいない彼へも同じように、同じ想いを向けていた。