Ria and Yuzuha's story : Last wish 【All standard is you】 前編 〔19〕
とうに日は落ちてしまった。痛く澄んだ夜空を背景に、冴えた光を放つ星が幾つも輝いている。
今日は風が強く、秋の終わりと冬の訪れを感じさせて寒々しかった。
日が暮れてから帰宅したゼフィアはしばらく細々とした雑用を片づけていたが、やがて溜息とともに部屋の窓のひとつを開いた。
途端に冷気が室内へと入りこむ。微かに呼気が白く煙った。
しばらく窓を開けたままでたたずんでいたゼフィアは、やがて落ち着いた声で呼びかけた。
「クーン、いいかげん中に入りませんか」
窓のすぐ下で身じろぐような気配がした。音をたてないようにと握りこまれているらしい腕輪の鈴が、くぐもって鈍い音をたてる。
「こういう逆手に取ったようなことをされると、さすがに私も怒りますよ」
「………ごめんなさい」
ゼフィアは窓から身を乗りだすと、手を伸ばして窓下の壁にもたれて座りこんでいるらしい相手をさぐりあてた。髪に触れ、肩に触れ、頬をさがしあてると両手で包みこむ。触れたどの箇所も冷え切って痛々しかった。
「あなたは時々、やることが子どもじみてて………」
溜息とともにそう言うと癇性に首がふられ、手から逃れていく。
最初から視覚を閉ざしておくほうが、お互いに楽だ。遮光布をしておくんだったと思ったが今更遅い。仕方なく彼は目を閉じると、勘にまかせて相手の肩のあたりをなだめるように叩いた。
「………夕方、ティルトに会いましたよ」
びくりとその肩が揺れる。
「お願いですから中に入ってください。風邪をひきますよ。窓を開け放しだと、私も寒い」
不意に相手が立ちあがった気配がした。冷えた腕が首にまわされ、窓越しに抱きつかれた。一気に熱が奪われていく感覚にぞくりとするが、ふり払う気など毛頭ない。
「………クーン?」
「あたしさえいなければ、あなたの世界は完成するわ」
突然の行動を不審に思っていたゼフィアは、そのかすれたささやきに表情を硬くした。
「その目は………あたしから離れてどこかに行ってしまえば、きっと見えるようになる」
「そのときは見えても見えなくても一緒です。どちらにしても、あなたがいない」
「それもそうね」
自嘲の呟きが洩れ、こちらには理解のできない言葉が続く。
「何にせよ、もう手遅れか………。今更あなたを遠ざけても、見逃してはくれないでしょうね」
「何の話です」
「あたしの話。あたし、好きな人が多すぎるなぁって思ったの」
くすりと笑う声がくぐもり、ゼフィアの胸にことんと頭が預けられた。窓越しのせいもあって、いつもよりも相手の頭は低い位置にある。
何度目かの溜息とともに、ゼフィアはその髪に手を触れた。外気にさらされていた髪は氷の糸のようにひやりと冷たい。
「あなたは………隠しごとも多すぎる」
吐息だけでリアは笑い、否定も肯定もしなかった。
腕のなかに相手の存在を感じながら、ゼフィアは目を開くと空へと視線を向けた。
「言う気にはなりませんか」
「………うん、まだ」
「………あなたという人は」
腕のなか、笑いに吐かれた息が白く煙ったような気がした。そんな他愛ないものは見えるのに。
「ティルトに会ったの?」
「ええ」
「良い子でしょう?」
心底愛しげにそう呟かれる。
夕刻の彼との会話を思いだしながらも、敢えてそのことを問う気になれなくなるような声だった。
ゼフィアは身を離すと、リアの頬をさぐりあてて手のひらで包みこんだ。相手の頬は冷たく、指先はすぐに熱を失っていく。
「声に出さずに泣くのは悪い癖ですよ」
「泣いてないわよ?」
不思議そうな声に、ほんの少しいらだちながら溜息を落とす。
「わかってます」
「ゼフィ?」
「私には見えないことをいいことに、どんな顔をしているんですか。前からでしょう」
相手が小さく息を呑む気配がした。
出会ったときから、どんな顔でどんな表情をしているのかなどわからない。それでも感情はわかるし、泣いているのもわかるのだ。どういう理由からなのかはわからないが、いま途方もなく傷ついて疲れていることぐらいは。
吐息とともにリアの体の力が抜けた。微かに笑う声がする。
「ごめんね、逆手にとるような真似して」
不意に冷たい感触がゼフィアに触れた。体温をなくした手のひらが彼の頬をとらえ、熱を奪うように顔を覆っていた。視界が閉ざされ、声だけが耳に届く。
「嫌な甘えかたしてごめんなさい」
「隠しごとも多いし、抱えこんでいるものも多いし………本当に困った人ですね」
「………ごめんなさい」
それぞれの頬と手のひらから、互いの体温がゆるやかに融けて混ざりあう。同時に彼のものではない激しい悔いと虞が伝わって、言葉もなく染みこんだ。
かすれたささやきが何度も謝罪をくり返した。
「ごめんなさい………巻きこんでしまった。あたしの闇に」
冬を告げる冴えた風に、声はさらわれて散っていく。
互いの息が頬にかかるほど近い。
「―――本望ですよ」
寸前、そうささやいた。
蝶の羽ばたき―――。
事の発端における些細な違いが、後の結果に大きな差を生みだす。蝶が羽ばたいたことによって引き起こされた事象が、巡り巡って、遙か遠くの地で嵐が起こることへと繋がるかもしれない。
確定的でありながら予測できない混沌の理論。
巨大な分岐の枝を茂らせる大樹は、次々と選択されていく現在の事象によって剪定され、同時に同じだけの分岐の枝を生みながら、過去から未来へと一貫してそびえ立つ。
もし、あの日、あの時、あの場所で―――。
誰もが過去をふり返り、一度は思う。
意図的などではあり得ない。偶然を積み重ねての必然として、二人は出逢った。
〈偶然〉も〈必然〉も、ともにそうとしか呼ぶことのできない事象の重なりあいから生じ、交錯していくもので、すべては因と果の結果として花を咲かせ、枯れゆく一瞬の律なのだ。
その一瞬に価値が生じるのは、一瞬後の世界において。そして価値と意味を見いだした当事者たち以外に、その瞬間、それ自体に、たいした意味などない。
はずなのに―――。
ちりっ、と腕輪が鳴った。
リアは愕然として目を見開いた。
何かが深奥に触れた。
同じ色をしたものが互いに触れ、重なりあったその一瞬の驚愕が波紋のように広がり、リアの身裡を奔り抜けていった。
赤い、闇が―――。
思わず息を呑んでいた。まさか。閃光のようにかすめさっていった直観が、すべての事実の破片を繋ぎあわせていくのを知る。
―――そしていま。この瞬間に、心は折れた。
怒りも悲哀もなかった。
ただ虚脱しただけだった。長く細い溜息が洩れた。もう叫ぶことすらできない。
ひそやかに潮が満ちるように涙が溢れ、こめかみをわけいって髪を濡らした。
「………クーン?」
リアが泣いていることに気づいたのか、ゼフィアの手が頬に触れてきた。
ひっそりと微笑して、リアは目を閉じるとささやいた。
「ね、ゼフィ」
腕を持ちあげ、相手の左胸にぴたりとその手のひらを押しあてる。
「いまここで、あたしがあなたを殺す気でいたらどうする?」
「いま、ここで?」
「そう」
「理由を聞いてから決めてはいけませんか」
何とも彼らしい物言いに、リアはくすくすと笑って目を開けた。
「生きていくのが難しいから」
「………私が?」
問い返すささやきは、心地よく耳に響く。
手のひらから伝わってくる鼓動は何の変化もなく穏やかだった。
「いいえ。あたしと、あなたが」
幾つもの記憶が脳裏に去来し、閃いては消えた。
ここまで歩いた。歩き続けてきた―――。
正しいのか、謬りなのか、疑いを抱きながら、それを確かめる術もなくただ歩き続けてきた。間違いではなかったと思う。そう信じている。
(あたしは出逢って)(気がつくと望んで)
(幸せになりたいなんて。あらためて、また欲が出て)
互いに築いてきたはずのささやかな想い出は、砂のように崩れてとうに意味を成さなくなっていた。何もかもが過去へと置き去りにされ、それを取りに戻ることはできない。
賭けはもはや意味をなさず、すべての手札は破棄された。たったいまこの瞬間から、この手には何もない。もう両親にすら頼れない。―――もう、言うことすらできない。
正しくても、これ以上は歩けない。あきらめなければ何もかもが遅すぎる。深い虚無の穴が胸に空いて渺々と風を通していた。ああ、この感情は何という名前だろう。
抱きしめたかったものは何だった。
希んでいたものは何だった。
護りたいと、願ったものは。
「―――あたしの右手はあなたに触れているけど、左手がどうしているかはわからない。いま、あたしがどんな顔をしているのかも」
告げた言葉のその後を、ゼフィアの声が穏やかに続ける。
「………例えば、いま、左手で刃を私に向けていたとしても」
「ええ」
ふっ、と相手が微かに息をついた。
「私がそれを許したなら、あなたはどうなるんです………生き易くなると?」
「―――いいえ」
小さく体を揺らしてリアは声を出さずに笑った。相手が軽く溜息をもらす。
「そもそも生きていくのが簡単という話は寡聞にして知りませんね」
「それもそうね」
遮光布をまとうゼフィアの表情はわからないが、リアの不可解な戯れ言にそろそろ怒りだしそうな気配を漂わせている。
リアは右手で鼓動を聞くのをやめると、両手で相手の頬を包みこんだ。
「ごめんなさい」
「それはもう聞き飽きました。もう一度、謝るようでしたら怒ります」
「………わかったわ」
リアはそっと溜息をついて、まったく違うことを呟いた。
「あなたの目も。あたしが見る夢も、全部」
無言で問うてくる相手に応えることなく、リアは目を閉じた。
その目も、見る夢も。全部―――謀られた。
煽られてその通りに手を伸ばした。夢を見る度に家族からは遠ざかり、逆に彼との距離は近づいた。周到にひそやかに細心の注意を払って、真綿で首を絞めるように追いこまれた。二人とも。
―――それでも。
それでも、この想いのどこまでが自然のもので、どこからが意図されたものなのか、もはや区別するなど無意味だった。
魔族に解されるような安い想いを抱いたつもりはない。
この愛は自分だけのもの。どれだけ心を犯されたとしても、他にいったい誰のものにできるというのだ?
怒りも、苦しみも、情けなさも、悔しかったことも、楽しいかったことも、嬉しかったことも全部、全部、自分のものだ。
まだ、どの感情も手放してなどいない。
すべてがほどけてしまったいま、気がついた。
溺れるような闇のなか溢れて止まらないのは、祈りと願い。譲れない光。
こんなにも深くて昏い澱みの底で自分が見据えているものは、ただ真っ直ぐに上へと伸びる願いだ。自身は這いあがれなくてもかまわない。ただこの祈りだけは光に届いてほしいと。
(あたしにできる最善は何―――?)
迷っていられるうちが幸せとはよく言ったもの。
もう迷えない。迷うことなどできない。
(欲しいものがあるなら、迷わず手を伸ばしなさい―――)
母の言葉が鮮やかに脳裏によみがえった。
自分が欲しかったのは。本当に欲しかったものは―――。
気がつくと、後から後から涙が溢れていた。
声を殺して泣くリアの肩を、ゼフィアが無言で抱きよせる。
孤独ではなかった。その幸せが身を裂かれるように辛かった。
この夜が明けないまま、世界が終わってしまえばいい。
そう思いながらも。
それでも、まだ。
吐息のようにリアはささやく。
―――愛しているわ。
どれほどそう思おうと、もはやどこにも留まれはしなかった。