Ria and Yuzuha's story : Last wish 【All standard is you】〔4〕

 久しぶりに祖父の夢を見た。
 両親は早くに逝ってしまった。物心つきかけたころに光を失った息子を愛しんでくれた父母は、半島中に跋扈していた魔族の牙にかかって帰らぬ人となった。
 もう、両親の顔は憶えていない。ただ声とともに漠然とした印象だけが残っている。
 いまでもはっきりと憶えているのは、十三で目が開いたときに見えた、それまで自分を育ててくれた祖父の顔だった。
 なまじ物心つくころに視覚を失ったせいで、記憶のなかだけに存在する色や光に焦がれて泣いていた自分をそのつどなだめていたのは、朴訥(ぼくとつ)とした祖父の声と手だった。
「お前は別の見えかたをする目を授かっているんだよ。心の目をな」
 見えない、暗い、怖いとわめきたてる幼い孫の頭を、祖父はくり返し撫でてくれた。
「目には見えないことのほうが、大事なものは多い。お前が大きくなってだれかを大事に思うとき、お前にそうさせるものは目には見えないものなのだから」
 いまならともかく、幼い子どもにそんなことがわかるはずもなく。泣いて拗ねて光に焦がれた孫に、祖父は苦笑するだけだった。
 やがて次に見えなくなったときが最後という不吉な予言とともに目は開き、それからまもなく祖父は逝った。薬師を志して神殿に身を寄せた自分はひょんなことからアーウィスと出会い、半島中を旅し、再び光を失うことに怯え、そして―――。
 それは、どこからともなく風に飛ばされてきた花が、脈絡もなく手のなかに落ちてくる偶然にも似て。
(もしあなたの目が治らなくても、あたしがあなたの目になるよ)
 ああ、声が聞こえる―――。



 夢から覚めると、ここひと月ほどで見慣れてしまった天井が視界に飛びこんでくる。
 半身を起こしてからも、ゼフィアはしばらく手のひらに顔を埋めたまま、微動だにしなかった。長い銀髪が肩から流れ落ち、手のひらごとその表情をおおい隠す。
 ひどく懐かしい夢だった。
 懐かしすぎて、胸が痛む。心から敬愛していた厳格な祖父―――。
 やがて、深く息を吐いてゼフィアは顔をあげた。
 乱れた髪がわずらわしく、無造作にかきあげると指にからまって攣れた。痛みに軽く顔をしかめ、溜息とともに指をひき抜く。
 目が見えるようになったいま、切り揃える手間を(いと)って伸ばす必要はない。まとめられないぐらい短くしてしまうとそれもまたうるさいので、適当な長さではさみを入れてしまおうか。
 そういえば、幼い頃は目が見えない自分のために祖父が切ってくれていたのだったか。
 決して器用とは言えなかった祖父の無骨な手を思いだし、視線をゆるめたときだった。
「―――ぜあ」
 不意の声に、鼓動が大きく音をたてた。
「………ユズハ?」
「ン、おはよウ」
 いつのまにそこにいたのか。寝台の端に上半身を乗りあげるようにして、幼い少女がゼフィアを見あげていた。
 見た目は五歳児ほどだろうか。なめらかな白皙(はくせき)の頬に、熱された石炭のような炎橙色の双眸。切り揃えられた淡金色の頭髪の両脇からは、尖った耳の先が覗く。
 滅多に見られないぐらい見目の良い子どもではあるのだが、人形のように整った容貌よりも先に目に付くのは、その表情のなさだ。
 目が見えない頃に受けた不可思議な印象をそのまま裏付けるような無表情さと、底の見えない双眸。
 人間ではない。人為的に生みだされた合成獣だと。リアが以前そう口にしていたが、実際に目にしてみるとそれがよくわかる。
 瞳の奥に宿る意思もまとっている気配も、人間が持ちうるものではないのだ。人間の思考と似ているようでいて実は深く断絶しているそれが、ときどき背筋が粟立つほど恐ろしいものとしてゼフィアの目には映る。
 普通こんな存在とは共に暮らせない。リアだけならともかく、何度か会った双子の姉妹でさえ、ユズハを当たり前のように叱りとばしていたのだから、今更ながらにリアとその周辺の人物の神経の剛胆さを思い知る。
 ―――もっとも、順応しつつあるという時点で、ゼフィアも人のことは言えないかもしれなかった。
「いつ来たんですか」
「んと、いま来タ」
 目が見えるようになってからユズハと会うのは、これが初めてではない。
 ユズハひとりだけで会いに来たように見えることも、初めてでなかった。
 その問いが発されるには、少し時間がかかった。
「………クーンは?」
「いナイ」
 自分が見えていないのではなく、本当にいないのだと知り、ゼフィアは肺が空になるような溜息を吐いた。
「一緒ではない? ユズハは、ひとりでここに来たんですか?」
「そういうコト」
 何でもないことのようにユズハは答え、敷布に頬をぺたりとくっつけた。
 思いついたように、その小さな手がゼフィアの髪に向かって伸ばされる。
「切ルの?」
「そう口にしていましたか?」
 考えが口をついてでていたのかと思い尋ね返すと、ユズハは首を横にふった。
「んや。何となク」
「つくづく恐ろしい子ですね、あなたは………」
 ゼフィアは何度目かの溜息をついて、引っぱっては遊んでいるユズハの手から己の髪をとりもどした。適当に編んで背に流すと、あらためてユズハを見る。
「朝からどうしたんです」
「どうもしナイ」
 非常に反応に困る答えを返され、ゼフィアは苦笑するしかなかった。
「では、一緒に朝ご飯でも食べていきますか?」
「ン、食べル」
 心なしか嬉しそうにそう言ったユズハの髪を撫でてから、ゼフィアは窓を開けて空気を入れ換えた。
 朝の光がまぶしい。そう感じるたびに胸が痛んだ。
 それがなぜなのか、考えるまでもなくわかっていた。



 いつものように外見からは信じがたい量の朝食を食べ終え、ユズハは香茶のカップを抱えたままゼフィアを見あげた。
「ぜあ、コレ、匂いおかしイ」
「おかしくありません。こんな匂いです。というよりも、匂いはわかるんですか? クーンからはゴーストか魔族に近いというような話を聞いているんですが」
「ごーすと違ウ。魔族もっと違ウ」
 ぷう、とユズハが無表情のまま頬を膨らませた。不本意らしいことはわかるが、無表情で頬を膨らまされると少々怖いものがある。
「匂い、わかるようにもできル」
「………さっぱりわかりません」
「気にしナイ」
「そうします」
 溜息をついて、ゼフィアは切った林檎の皿をユズハの目の前に押しやった。普通に剥こうとしたらユズハから注文がついたため、ウサギの飾り切りになっている。ユズハなりにこだわりがあるらしい。
「で、コレ、匂いヘン」
「こんな匂いです。香草や薬草が色々入ってるだけです」
 実は匂いよりも味のほうがはるかに変なのだが、そこには突っこんでこないところをみると、もしかすると味覚はわからないのかもしれない。本来、味覚と嗅覚は直結しているはずなのだが、ユズハにはあらゆる意味で常識が通用しないような気がした。
「で、本当に何をしに来たんですか?」
「イヤ。本当に用事ナシ」
「………そうですか」
 ユズハがひとりで彼に会いに来るというだけでも珍しいのに、用事もないというのはどういう風の吹き回しなのか理解に苦しむが、逆にユズハらしいと言えなくもない。
「切ルの?」
 不意に言われ、ゼフィアは意味をとりかねた。
「何の話ですか? あなたの目の前にある林檎のことでしたら、もっと食べたいなら切りますよ」
「うむ、食べル。ケド」
 重々しく頷き、次にユズハはかぶりをふった。
「リンゴじゃなくテ、髪のコト」
「もしかして、さっきの話ですか?」
「もしかしなくテも、ソレ」
「切りたいと思いますが………?」
 単なる思いつきをそこまで追求されても困る。ゼフィアは困惑して言葉を濁した。
「くーん、は?」
 いきなり話題が飛び、ゼフィアはほとんど絶望的な表情で額に手をあててうめいた。
 すばらしいまでに会話が噛みあわない。
「あなたを連れて旅をしていたクーンを心の底から尊敬したくなります。どうしたら、そこで彼女の名前が出てくるんですか」
「―――違ウの?」
 唐突にユズハがゼフィアを見あげた。
 炎の色の双眸には何の含みも意図もない。ごまかしも効かず、鏡のように相対した者を映しだす。相手への望みや期待、自分自身に許している欺瞞(ぎまん)や甘えを、ことごとくさらけだし、無に帰す瞳。
 いまユズハと相対している存在がどういうものであるのか、その存在自身に問うてくる、なんの容赦もない無垢な目だった。
 その視線を受けとめ、ゼフィアはそっと息を吐きだした。苦く笑う。
「ひどい人ですね。それを問いに来たんですか」
「だから、用事ナシ。なにがヒドイの?」
 ユズハはその愛らしい顔を傾けた。
「だから、くーんは? ぜあの髪、くーん好き。切ルの? くーんは?」
 どうやら、切ることをとがめられているらしい。
 たかだか髪を切ることで他人に言を求める必要はないし、何か言われる筋合いもないのだが、そもそもユズハとゼフィアが気にしているのはそういうことではない。
 彼が返答に窮していると、ユズハは無表情に唇を尖らせた。
「ゆずはの、好きなヒトたち。ときどき、一緒。ぜるも、りあも、そうだケド。くーんも、そう。がうりいだけ、言わなくテもわかルって言うケド、後はみんな、くーんも、言わナイとわからナイっテ、言ウ。なのに、くーんは、言わナイ」
 めずらしい長広舌にゼフィアが驚いているあいだにも、ユズハは淡々と言葉を続ける。
「言いたいコト言わナイ。黙ってル。思ってルのに、言わナイ。くーんも、だし、ぜあも、そう。そういうトコ、キライ」
「………あなたは私に何を言えというんですか」
「言えばイイ。違ウから」
 ゼフィアの眉間に皺が寄った。
 かろうじて、怒られているらしいということはわかるのだが、ユズハの怒りどころも求められていることも、理解できなかった。
「ですから―――」
「ぜあ、じゃナイ。くーん、嫌ってナイ。ぜあの、せいじゃナイ」
 何と言われたのか、とっさに理解を越えた。
 声よりも遅く、言われたその意味が届いたとき、ゼフィアは無言で息を呑んでいた。
「ユズハ、あなたは………」
「ゆずはは、そう思ウ。あっち側が、そんな感ジ。だから」
 何でもないことのようにユズハはそう言い、ゆっくりとまばたきをして、ゼフィアを見あげた。
 この幼い少女の形をとった「何か」は、自分がどれだけおそろしいことを口にしたのか、わかっているのだろうか。
 リアと比べれば、彼がユズハと付き合ってきた時間は微々たるものだったが、その短いあいだでもわかっていることがある。
 この存在は嘘をつかない。
 同じく、気休めも慰めの嘘も口にしない。ユズハが言ったことは、事実はどうあれユズハのなかでは真実なのだ。
 息苦しさに、無意識に胸元を押さえていた。その手がふるえていると彼自身わかっていた。
「………私が見ているものは、本当にそうなのか。人と同じものを見ることが、できているのか」
 わかっている。何度も確認した、された。色を判じ、文字を読み、明暗を捉えた。それでもなお疑念は残った。他人以上に信じられないものは、自分自身。おのれの目とそこに繋がる意識―――精神そのもの。
 なぜ、そこにいるはずの彼女だけが目に映らないのか。
 ただひとつの齟齬(そご)から生じ、大きく広がる不信感は、確実に彼と世界を蝕んでいく。
 何が正しくて、正しくないのか。二者択一の消去法で浮かびあがってくる仮定は、考えことさえおそろしかった。
 ユズハは無言でゼフィアを見つめている。
 おそろしすぎて口に出すことすらできなかった懸念が、その炎色をした双眸の熱に浮かされたように―――剥離した。
「もし本当に、そうだとしたら(・・・・・・・)、自分のせいではないのかと。私が、無意識に………」
「違ウ」
 ユズハは即答した。目の前にある花は花でしかないと言い切る身勝手さだった。いっさいのことに頓着しない………それゆえに、真っ直ぐな。
「あなたはそう言いました」
 泣きそうな顔でゼフィアは笑った。
 この、何に()ることもない愚かともいえる世界への相対の仕方や、すべてに頓着しない傲慢な純粋さを救いとする、救われがたい人種も存在するのだ。
 ちょうど、いまの自分のように。
「あなたのその言葉でどれほど私が救われるか、あなたにはわからないでしょう」
「知らナイ。興味ナシ」
 あっさり言われ、ゼフィアは今度こそ笑いだしていた。
 本当におそろしい存在だ。異質ゆえに本質を体現する。
「あのネ」
 カップの中味を飲み干すと、ユズハは可愛らしく首を傾げた。
「ゆずはは、ぜあのコト、好き」
「それは光栄ですが………?」
 意図がつかめず、ゼフィアもわずかに首を傾げる。
「それは、ぜあが、くーんのコト、好きだから。でもっテ、くーんが、ぜあのコト、好きだから」
 ゼフィアが絶句しているうちに、ユズハは椅子から床に降りたった。
「くーんが、ぜあのコト、キライなら、ゆずはもキライ。消えテも、別に平気。哀しくナイ」
 一瞬のうちに幻のようにその姿は消え、気配と声だけが残っていた。
「―――それだけ。ごちそウさまでしタ」
 その声もすぐに空気に溶け、部屋には最初からゼフィアしか存在しなかったかのように静まりかえる。
 言われた内容と常識からは考えられない立ち去りかたに、しばらくゼフィアは呆然としていたが、やがて肺が空になるような溜息を吐きだした。
「本当に、容赦のない………」
 不快ではないのが救いだが、相対するだけで気力を使う。
 テーブルの上に置かれた空の皿とカップに目をやり、ゼフィアはそれとはわからぬほど微かに笑った。
「けしかけられたと解しておきますよ」
 自覚はした。躊躇いながらも。
 望みは口にされた。安堵とともに。
 懸念は否定された。容赦なく。
 だから、もう。
 あればただ、それだけでいいとは思えなかった。