Ria and Yuzuha's story : Last wish 【All standard is you】〔5〕

 ―――最近、魔道士協会や王立魔道図書館などで時間を潰してから帰ることが多くなっていた。
 剣を選んだのは事実だったが、魔道のほうも一通り以上に修めていた。記憶の戸棚で埃をかぶりかけていたそれらを引っ張りだして綺麗にし、以前に構築しかけて放りだしていた呪文などを思いだしては時間を潰す。
 黒魔法にはあまり手を出さなかった。集中的に学んだのは精神系の精霊魔法。
 何とかならないかと、自分なりに足掻いていた過去。
(永久と無限をたゆたいし、全ての精神の源よ―――)
 ああ、そろそろ何とかしなければならないかもしれない。
 魔族は自分の目の前に現れた。
 安穏に過ごせるかもしれないなどと、甘く考えていたけれど。
 分厚い本を前に、リアは目を閉じる。
 言ったほうが、いいんだろうか。いまだ迷いは消えない。
 いつだって。物事は差し迫ってくると、受け入れるか拒絶するかの二択しかない。
 迷っていられるうちが、幸せなのだ。
(我が魂のうちに眠りしかの力、分かち、違え―――)
 目を開けたリアは一瞬、泣きそうに顔を歪めた。
 なぜ構築しかけて途中で放り投げたのか、自分でもわかっていた。



 その日の帰宅も、夕焼けが美しい時刻になってからだった。
 これでもまだ早いほうだった。王立魔道図書館が曝書(ばくしょ)中だとかで休館だったのである。
 リアが玄関の扉を開けると、気づいたユズハがこちらに向かってひょこっと手をあげた。
「お帰りなさイ」
「………ただいま。てか、何でいるの」
「うむ。気にしナイ」
「まあ、いいけど………。あんたがこっち来るなんてめずらしいわね」
 言いながらリアはブーツの爪先でとんとんと地面を叩き、靴底の土を落とした。
 ぐるりと視線を巡らせるが、ユズハ以外の誰の姿もない。
「ユズハ、母さんと父さんと、あとティルは?」
「がうりい知らナイ。てぃるは、王宮にいタ。りなは、さっき出てっタ」
 ユズハの目の前のテーブルには菓子屑の散った皿とカップが置かれているので、たしかにさっきまで母親は家にいたのだろう。
 どこに行ったのだろうと首を傾げていると、背後から地を這うような低い声がした。
「邪魔よ、放蕩娘。どいてちょうだい」
 ふり返れば、取りこんだ洗濯物を山と抱えた母親がいた。
「………ただいま」
「はいおかえり。一日のうち大部分、一ヶ月のうち半分近くは家にいないアンタは本当に『ただいま』だわね」
 脇に退いたリアの横を通り過ぎ、リナはさっさと家のなかに入ると作業台の上に洗濯物を放りだした。
 ティルトと顔をあわせたくないがために家をほとんど留守にしているリアは、母親の毒舌に何の反論もできない。最近自分は顔を合わせたくない相手が多すぎる。
「夜には帰ってるじゃない」
「本当に寝るためだけにでしょ。―――いい加減にしなさいよ、アンタ」
 こちらを見もせずにそう言われ、リアは反射的にカッとなったが、ユズハがこちらを凝視していることに気づいて、かろうじて踏みとどまった。
「………なるべく帰るようにする、から」
「そうじゃなくて」
 リナがふり向いて、呆れたように腰に手を当てた。
「あんたが旅に出る気配もないのに、家にも居着かないでコウモリみたいにふらふらしてようと、あたしの知ったこっちゃないわ。あんたはあんた。あたしはあたし。自分の面倒は自分で見られるでしょ、あたしもあんたも。
 そうじゃなくて。あたしが言いたいのは、逃げまわったあげくに年下に心配かけるのやめなさいってことよ。みっともない」
 相変わらず的確すぎて息の根を止めそうな助言だ。的確すぎて、いまの自分には傷をえぐるだけの効果しかない。
「年下………?」
 怪訝そうに呟いたリアに、母親は容赦なかった。
「アセリアとユレイアよ。あんた、気づかれてないとでも思ってんの? あんた昔から感情の起伏が激しくて、隠すなんてどだい無理なのよ」
「知ってる」
 リアはかろうじてそう言った。
 そんなことは知っている。
 だって、そうしていないと隠しておけない別のものがあるのだから―――。
 ふり切るように自室の扉を開けたリアの背中を、鮮やかなリナの声が打った。
「欲しいものがあるなら迷わず手を伸ばしなさい。いるならいる。いらないならいらない。ぐずぐずされるほうが迷惑よ!」
 ノブに手を掛けたまま、リアは勢いよく母親のほうをふり向いていた。
 灼けつくような怒りがあった。
 欲しいものを心の底から望むわけにはいかなかった。
 いちばん欲しいものは、自分が愛する人たちが、自分がいなくても(・・・・・・・・)幸せに笑っていてくれる世界だ。
 それがありえないと(・・・・・・・・・)、傲慢でも何でもなく事実として、本当に幸福な実感とともに知っているからこそ、この胸の奥の闇と(かつ)えに気づかれないように、こうして―――。
「………母さん、それどういう意味?」
「知っててそれをあたしに聞く?」
 二対の真紅が真っ向から相対した。
「いるんだかいらないんだか、わかんない態度とり続けてたら、相手だって反応に困るでしょうが。いるならいる。いらないならいらない。いると決めたら、何を引き替えにしようと手に入れるつもりで腹くくんなさい。あんた腰が据わってないのよ」
何を引き替えにしようと(・・・・・・・・・・・)?」
 刺々しくリアがその言葉をくり返すと、母親は何に気づいたのか軽く目をみはった。
 ただ言い負かしたい一心でわざとらしく返したその言葉が、母親のなかの何かをえぐったことにリアは気づいたが、言った言葉は引っこめようがなかった。
 リナはリアを見つめていたが、不意に肩から力を抜くと苦笑した。
「そう。何を引き替えにしようと」
 娘にはわからない理由で母親は苦笑している。
「きっとあたしは何度でもそうするんでしょうね。この世界から、何度自分のしたことを思い知らされようとね」
「何それ、わかんないんだけど」
「あたしはあんたより自分勝手だって話よ」
 ふざけたような母親の物言いにリアの肩からも力が抜けた。かわされた、と感じた。
 もう何も言わずに背を向ける。
「―――あたしは母さんとは違うから」
「知ってるわよ、そんなこと」
 小さな呟きには意外にもきちんと答えが返り、よけいいらだったリアはそのまま扉を閉めた。



 ベッドに寝転がっていると、唐突に気配が室内に出現した。
「………たかだか十歩の距離ぐらい歩いてきなさいよ」
「くーん、カギかけてル」
「わかってるんなら、入ってこないでよね」
 言いながら、それが無意味だとすでに悟っていた。結局、自分のしたいようにしかしないのだ、この目の前の存在は。
 一応、きちんと靴を脱いでから寝台によじ登ってきた相手を眺め、リアは溜息をついた。
「わかってるのよ」
「ナニが」
「ゼフィのこと」
 とりあえず夏から引きずっている弟のことはいまだけは棚上げする。双子が云々と母親が言っているのは、彼とのほうだろう。
「このままサイラーグかどこかに帰ればいいのよ。あたしのことなんかほっといて」
 互いが互いを不必要とすれば、世界は成り立つ。ともに何の不足もなく。
 ただそれが嫌で、結局自分が迷っているだけなのだ。母親いわく―――腰が据わってないだけで。
 リアは天井を見あげたまま、無言で視線をさまよわせた。
 自分の言ったことにユズハの返答など特に求めてはいなかったのだが、傍らに座った相手からは、意外にも答えが返ってきた。
「くーん、それ、ぜあ怒ル」
「は―――?」
 思わず肘を突いて半身を起こしたリアの横で、ユズハは無表情に淡々とくり返す。
「ぜあ、怒ルから、たぶン」
「………それはそうだと思うけど。連れてきていきなり一人で帰れなんて義理を欠くにもはなはだしいし………」
 問題はそこじゃないだろうと、ユズハ以外のだれかがこの場にいたなら突っこんだはずなのだが、あいにくいたのはユズハだけだったため、その呟きに答えは返らなかった。
 当の存在はごろんと寝転がるとリアの枕で遊びはじめてしまう。
 橙紅色の瞳がちらりとリアを見あげ、すぐにそらされた。
「ゆずはは、くーんがイイなら、それでイイ」
 思いきり投げやりに言われ―――もともとユズハの口調は普段から投げやりに近いのだが―――リアは眉をひそめた。
「ユズハ?」
「くーんが、ぜあのコト、好きでも嫌イでも。ぜあが、くーんのコト、好きでも嫌イでも。ゆずは、どーでも良―――ぉゆよ?」
 言い終える前に敷布が引っ張られ、ユズハは床に転がり落ちた。
「くーん、コレは、ちょっとヒドイ」
「うるさいわよ!」
 顔を真っ赤にして怒鳴りつけたリアは、床から見あげてくるユズハの瞳に不意に沈黙させられた。
 特にユズハが何かを意図してリアを見あげたわけではない。ユズハには何もない。沈黙するのは自分自身のなかに理由があり、ユズハの瞳はそれを映しだすだけだった。
「ゆずは、くーんが、ぜあのコト好きだから、ぜあ好き。くーんが、ぜあ嫌イなら、ゆずは、ぜあ嫌イ。だから、ゆずは、別にぜあ、いてもいなくテも平気。………くーんは?」
 その口調のあまりの酷薄さと内容に、リアは絶句したまま答えることができなかった。
 ユズハは自身が選んだ対象以外は本当にどうでもいいらしい。いまにはじまったことではないが、あらためて断言されると背筋が寒くなる。ふりでもいいから、少しは気にしてほしかった。
「くーんは?」
 重ねて問われ、リアは子どものように首を横にふった。
 そんなの決まっている。
 愚かにもそう望んでしまった。望めるようなこの身でもないはずのなのに。
 ただどうしても怖かった。
 自分を通り抜けていくあの目が怖かった。
 ―――彼の世界に自分だけがいない。
 いかに説明しがたい現象であろうと、それが事実だった。向けられた視線は、たしかに存在しているはずのこの体を突き抜けて、背後へとたどりつく。見えているようで何も見えていない。
 突き抜けていく視線はリアだけが見えていないのだという事実を、無防備にさらけだす。
 ここに存在している自分は、実はだれの目にも見えない幽霊ではないかと思いたくなるほどに、完璧に素通りしていく視線。
 そんな視線は一度向けられるだけでもう充分だった。
 不意にぽんぽんと頭を撫でられ、リアはいつのまにかうつむいていた顔をあげた。
「なに………?」
 かなり疑わしげな顔でそう尋ねると、相手はのほほんと呟いた。
「いいコ、いいコ」
「………………あんたケンカ売ってるでしょ」
「うや」
 是とも否ともとれる曖昧なうめき声をあげると、ユズハは壁際に寄せてある寝台に再びよじのぼり、勝手に窓を開け放った。ひやりとした空気が入りこみ、肌を撫でる。
 気がつけばあたりは青い闇だった。季節柄、日が落ちる時刻も早まっている。
「くーん」
 名を呼ばれ、溜息混じりにリアはそちらに顔を向けた。
「今度はなによ?」
「言わナイとわからナイ。くーん、そう言っタ。違ウの?」
 こちらに背を向けて窓枠にのぼったユズハが、肩越しにリアをふり返っていた。
 吹きこむ風に淡い金の髪がひと筋、ふた筋たなびき、薄暗がりのなかでその双眸だけが獣のように炯々(けいけい)と輝いている。
 相も変わらず、熔けた坩堝(るつぼ)の灼熱を思わせるその目―――。
 リアは小さく息を呑んだ。
 ―――違わない。
 言わないとわからない。
 たしかに自分はユズハに対してそう言った。
「………あんた、あたしに何を言えっていうのよ」
「知らナイ。興味ナシ。ただ言わナイのが、わかルだけ。くーんがイイなら、ゆずはは、それでイイ」
 あくまでも自分勝手にそう言うと、ユズハは窓から外に降りたった。
「このまま帰ル」
「ちょ―――」
 慌ててリアが窓から身を乗りだすと、すでにそこにはもうユズハの姿はなかった。空間を渡る技術を取得して以来、歩くたびに転ばずにすむ便利さが気に入ったらしく、頻繁に使うようになっている。魔族と間違われるから使用は控えろと、口を酸っぱくして言い聞かせてはいるのだが、聞いているのやらいないのやら。
「靴は?」
 見れば靴も消えている。部屋に出現したときも履いていたところからすると、あれも具現化したユズハの一部なのだろう。便利な特技だ。
 リアは溜息をついて、外気に冷やされた己の髪をかきあげた。
 鬱になると引きこもるのは自分の悪癖だが、いいかげん外に出る日も近そうだった。そういえば、会ったばかりの頃にも一度やらかしたのだったか。
 リアは再び重く息を吐き、その記憶に目を閉じる。
 当たり前に泣くことを許す、優しい手の感触も一緒に思いだしていた。素通りしていく現実の視線に泣きわめきたくなる衝動とともに、もう手放せないと気づいていた。
 もう一度、あの手に触れてほしかった―――。



 家を出ようとしたゼフィアは、扉を開いた途端に溢れだした花の香に驚いて立ち止まった。
 この季節には異質な甘い花の香が、晩秋の気配とともに流れこむ。
 何の花かと反射的に記憶を掘り起こしかけ、間近で聞こえた息を呑む気配に、それこそ呼吸を忘れた。
 ここから見える前庭と門扉(もんぴ)は薄暮に包まれて何もかもが淡く、だれの姿も見あたらない。―――閉じてあったはずの門扉は開けられていた。
 音だけが聞こえた。後ずさるような、靴底と土がこすれる乾いた音が一瞬だけ。
 その音に彼は目を伏せる。
「クーン。ここまで来て、帰らないでください」
 風が吹いた。冷たい冬の匂いのする風に、はっきりと春の花が薫る。風の起こす葉擦れにまぎれて、かすかな足音が聞こえ、気配が近づく。そして途絶えた。一瞬の空白。
 不意に、伏せたままのゼフィアの両目を自分のものではない手のひらがおおい、瞼から透ける光さえも遮った。
 抗わなかった。ただ、自分の視界を閉ざすその手に触れ返しただけだった。
「―――ゼフィ」
 迷いを帯びた、少しかすれた声。やわらかく煙るような。
 視界をふさぐ手に触れ、腕をたどり、肩を探しあてる。そのまま引き寄せて抱きしめた。驚いた手が顔から外れても、瞼は閉ざしたままだった。肩越しの光が瞼に薄く透ける。
「ちょうど、あなたに会いに行こうかと思っていた………よかった」
 相手が驚いたように身じろいだ。やがてかすかなささやきが彼に応え、腕が背中にまわされた。ゆるく編んでいた髪がほどけて、肩をすべり落ちていく。
「空約束はしないでください」
「………ごめんなさい」
 背中にまわされていた手が離れ、再び瞼をおおい、光を遮る。
 その熱を感じたまま、相手の頬に触れた。また声もなく泣いてはいないか、不安がよぎった。
 触れる手の意図を察したのか、かすかに笑うような吐息が頬にかかる。もう一度強く抱きしめた。
 互いの熱を手放せないと思った。