Ria and Yuzuha's story : Last wish 【All standard is you】〔7〕
扉が開き、秋の冷気が流れこむ。
リナは本に落とした視線をあげずに「おかえり」とだけ声をかけた。
娘の帰りは連日遅いが、それをどうこう言う気はない。同じ家に住んでいるからといって互いの行動を束縛する気はないし、あえて団欒を持つ気もない。リナはアメリアから呆れられるほど放任主義だ。十五まではそれなりに責任を持つが、以降の行動のツケは全部自分で払わせる。いまはまだ連れ歩いているティルトとて、そのつもりでいる。
先日はあまりにリアがふらついていたので一戦やらかしたが、それとて帰りが遅いこと自体はどうでもいいことなのだ。別に一晩帰ってこなくったってリナとしてはかまわない。………ガウリイはかまうだろうが。
ようやく自分と相手のあいだで何かしらの折り合いがついたのか、リアは最近少し笑うようになってきた。どうして母親の自分ではなくアメリアに香水をねだりにいくのか納得がいかないとゼルガディスに文句を言ったら、正しい判断だろうと真顔で返されて喧嘩になったが、それはともかく。
………いつまで経っても「ただいま」を言う声がなく、依然として吹きこむ夜気にリナはようやく顔をあげた。
同じ部屋にはガウリイとティルトもいたが、二人とも怪訝な顔をして帰ってきたリアを見ている。
その二人には目もくれず、真紅の瞳は同じ色をした母親の双眸へとまっすぐに向けられていた。
「………リア、寒いわ。閉めて」
「―――魔王を斃したの?」
リナは無言で目をみはると、己の伴侶に視線を移した。やはりこちらを見ている相手と視線が交わり、互いの瞳に同じ驚きを見いだす。
ティルトひとりだけが、わけのわからないといった顔で両親と姉を交互に見ていた。
「アメリアから聞いたの? それともゼル?」
「どうやって斃したの」
「リア」
「ねえ、どうやって?」
「………リア」
リナが顔をしかめて名を呼ぶと、リアは強くかぶりをふった。金色の髪がふわりと顔の周りをただよい、すぐに落ち着く。
色は父親から。巻き毛の癖は母親から。
顔だちは父親似だが、端正な造りが似ているということは、言ってしまえばはっきりと似通った特徴があるわけではないということになる。そのため、ぱっと見ただけではどちらにも似ているようには見えない。
にもかかわらず、どういうわけか父親と歩いていても、母親と一緒にいても、リアはすぐに血縁を指摘された。色彩の他にも、漠然とした印象や目には見えない何かを受け継いだのかもしれない。
その強い瞳が母親を睨んだ。
「もうはぐらかされるのは無しだから。母さんが何をしてたかなんて全部聞けるとも思えないし、全部話さなくてもいいから。とにかくこれだけは教えて―――魔王を斃したの? どうやって斃したの !?」
「………わかったわよ。話すからとりあえずドアを閉めなさい」
リナは溜息混じりにそう言った。
寝つけずティルトが窓を開けると、隣りの部屋の窓も開いていることに気がついた。
先刻まで居間で母親と一対一で話しこんでいたが、すでに居間の明かりは落ちている。姉は部屋のなかにいるはずだった。
身を乗りだして覗けば、暗がりに浮かぶほの白い金髪が見えた。―――やはりいる。
窓を開けることでつながっている互いの意識のなかから、ティルトはかすかな何かを感じとった。
少しためらったあとで、話しかける。
「………姉さん、泣いてるのか?」
答えは、窓の閉められる音だった。
溜息をついて、ティルトは夜空を見あげた。
星は冷えた大気のなかで氷の宝石のように光っている。冬になれば、もっと鋭く輝くのだろう。
やがてやって来る本格的な冬のはじまりが、ティルトの生まれた季節だった。
それを過ぎて、春が来る直前のもっとも寒さが厳しくなるころが姉の生まれた季節だった。
それも過ぎて春になってしまえば、今度は双子の生まれた季節になる。
当たり前にみんな歳をとっていくのに、何も変わっていくようには見えない。
一日一日、とりたてて何ごともなく過ぎていくのに、数年後には自分はいまとは違うだろうなんて、当たり前に考えている。大人になったら、いまはできないことが上手くやれるようになるだろう、なんて。
答えの出ない疑問を抱えたままでも、ひとつ歳をとってしまえば、その答えもわかるようになるだろうか。
何かがあっても、何事もなかったように人は過ごせてしまうのだということに気づいていた。
いままで「何か」が起きたら、その「何か」が解決するまで、日常になんか戻れないのだと漠然と思いこんでいた。ケンカしたら、仲直りするまではケンカしたままなんだと。誰かのことを嫌いだと思ったら、次に好きになるまで、その嫌いな相手と話しをすることなんかできっこないんだと。
―――そうでもないらしい。
自分と姉は両親の前で軽口をたたき合えるようにすら、なっていた。
あの夏に心が途切れたまま何も見えないのに、他愛もないことを言うことだけはできていた。
口にしたその言葉が、相手にどう届いているのかもわからないのに、どんどん普通になっていく。時間だけが上滑りしていく。
いつのまにか、自分は言葉を言いよどむようになっていた。
いままで、思考することとしゃべることは直結していたのに、切り離されるようになった。思ったこと全部を口にする必要などないことに、気づいてしまった。
母親だって選んでいた。語っていたことと、語っていなかったこと。姉はそのことを責めていたが、おそらくきっとだれもがそうしているのだろう。だれかのわからないことと、わかっていることが重なって、無数の地図が世界には広がっている。だれもがわかっていることと、だれもわかっていないこと。だれかがわかって、別のだれかはわかっていないこと―――。
わからないことだらけで、世界は怖い。
自分がそれを知らずにいたあいだも、自分以外の人間はそうして生きていたのだ。
きっと、ずっと怖かった。
だからわかりたいし、わかってほしいのだ。
今なら、それがわかるけれど、逆にそれ以外のことがわからなくなってしまった。
あの日、何が壊れてしまったのか、どうすればそれが元に戻るのか、もしかすると二度と元には戻らないのか、それすらもわからない。
自分の剣はどこかがおかしいのだろうか―――?
あの日から剣を握っても違和感が消えない。
考え続けるのにもそろそろ疲れてしまった。
「オレ、どうしてほしいんだろう―――」
嫌われたくなんかない。
剣を向けられたくなんかない。
当たり前に大好きなんだ。だって、家族なんだから。
「姉さんはオレの姉さんなんだ。それだけなんだ」
(―――あんたはあたしの弟よ)
告げられた言葉のその意味が自分にはまだ、わからない。
何を悟り、何を言えば、姉は赦してくれる?
時間だけは未来に無限に広がっているから、いつかは必ずわかる日が来るのだろうか―――。
ティルトはもう一度、夜空に視線を投げた。
「………姉さん、泣いてるのか?」
ひっそりとささやかれたその言葉から、リアは窓を閉めて逃げた。
いつも以上に弟と空気を共有していることが苦痛だった。
ティルトは自分とは違う。
自分のように、何百、何千万分の一の当たりくじなど引き当てて生まれてはこなかった。それをうらやんだことも憎んだこともない。自分が「そう」であることは、リアがリアであるということと同じぐらい当たり前のことだった。生きて呼吸をすることと、そう自覚することはもはや不可分で、リアはそれを受け入れ相克しあうことでここに存在している。
だから、うらやんだことも憎んだこともない。
うらやんだのも憎んだのも、それとは別のことだった。
だが、いま言葉を交わせば、そのことでもそう思ってしまいそうだった。だから逃げた。これ以上、もう何も思いたくなかった。ただ、愛していたい。
リアは寝台の上でうずくまった。
先刻の母親が語ったことが頭から離れない。―――人の身で斃したのか、二つも。
それは到底成しえることではなくて。いくら両親の規格外を身をもって知っていたとしても、想像の範疇を超えていた。
たしかに幼い頃から、二人ともどこか普通ではなかった。竜族にも知り合いがいるらしいし、王族にも顔が利く。父親は伝説の剣の持ち主で、普段はのんびりしているが、父親を凌ぐ使い手にはいまだに出逢ったことがない。リアの知る最高の剣士はいつだって父だ。
そして―――母親の圧倒的な魔力と知識。凡人には発動さえできない幾多の呪文をあやつり、魔道士協会さえも解明しえていない知識と真実を、ただひとり識る。リアの思い描く最高の魔道士は、やはりいつだって母だった。
そうして成しえたことといえば、まるで荒唐無稽なおとぎ話のような真実。
もはや言葉もない。
いったい何の冗談だ。どういう都合がまかり通れば、こんなあり得ない確率であり得ない事態が発生するのだ。
闇のなかで目を見開き、リアは大きく呼吸をする。
(だからあたしなの?)
万が一のときも斃すことができるから、自分が「そう」なのか。
これ以上は斃されることのないように、自分が「そう」なのか。
(あたしは安堵すればいいの?)
(それとも泣けばいいの?)
万が一のとき、最悪の事態だけはまぬがれると。
その場合、また最悪の選択を強いてしまうと。
それだけはさせられなかった。それだけは絶対に。
このままただ老いて死にたい。当たり前のように何でもないことのように、普通に生きたい。
無意識に首からかけた契約の石をさぐっていた。ひやりとした感触を探しあてて握りしめ、これをくれた相手のことを思った。
あの女神のような、死人のような、穏やかな虚無を抱えつづける女性。
(―――正しくなくても歩いていきなさい)
歩きつづける。その先に何が待っているかもわからない。だが、それだけは誓える。
ただ、それでも―――自分は見つけてしまった。
「………幸せになりたいな」
笑っていてほしいと思う人たちと、ただ一緒にいられればいい。それだけでいい。
それとは別に一人だけ、自分を望んでほしい相手がいた。望まれれば、それだけで充分だった。
それを望んでいいのかもわからなかったが、そう願うようになってしまったのは事実だった。
見つけてしまった。一緒に幸せになりたいと思える誰か。
「なれるかな………」
自分はこんな有様で、周囲を欺いて、たったひとりの弟さえ傷つけて、取り返しのつかないことばかりしているけれど。
「なってもいいのかな」
子どものように呟いて、リアは目を閉じた。
その日見た夢は、泣きたくなるほど幸せな夢だった。
もう手に入らないものだからこそ、あまりにも愛おしい。