Third birthday 【Ultra soul】 エピローグ・リナ〔1〕

 セイルーンで一泊し、午前中に茶会の招待を受け、昼頃にリナたちは我が家に帰り着いた。荷物を置くだけ置いて、すぐに王宮に顔を出していたため、たったいま旅から帰ってきたに等しい状態だった。
「うーん、やっぱり家空けてると埃っぽくなっちゃうわねー」
 リナが家中の窓を全開にする。
 頻繁に旅に出るため、留守にそなえて最低限の家具しかおかれていない家だ。こんなにも留守がちだと物盗りの恰好の標的になりそうなものだが、侵入者対策はそこらの貴族の邸宅よりもすさまじい。最初のうちはちょくちょく侵入しようとした形跡などが残っていたのだが、最近ではセイルーン裏社会の情報網で入ってはいけない家第一位となっているようだ。おかげで静かなものである。
 そうやって室内に風を通していると、どこからともなく現れた猫が全然可愛くない声で一声鳴いた。白と茶が微妙な配分で混色された毛並みの、美猫とはお世辞にも言い難い猫だが、ふてぶてしい貫禄だけはある。
「ラァ、元気だったか?」
 さっそくティルトがしゃがみこんで喉を撫でてやる。
 猫は面倒くさそうに目を細めてそれを甘受した。仕方がないから撫でさせてやっているという感じで、どう贔屓目に見ても可愛くないのだが、ティルトはいっこうに気にしない。
 やがて猫は撫でられるだけ撫でられると、どこへともなく去っていってしまった。家人が帰宅直後の家に食べ物などあるはずがないことをわかっているのだろう。とりあえず挨拶の義理は果たしたという感じである。
 同じ兄弟猫でもクレハとユキハが王宮で飼われているのと違って、ラァは仔猫の時はともかく、今では飼い猫というよりほとんど通い野良猫と化していた。どうもこの辺り一帯のボスの座を母親から継いだようだ。実にたくましい。
 ティルトがラァに挨拶しているあいだに荷ほどきに取りかかっていたリナだが、やがてその手を止め、虚空に視線を据えた。
 目が微妙に据わっている。
 深く息を吸っては吐き、リナは勢いよく相手を睨みつけた。
「ちょっとガウリイ。さっきからうろうろしないでちょうだい!」
 立ち止まったガウリイが、恨めしげにリナを見る。
 荷ほどきするでもなく窓を開けるでもなく、部屋中をうろうろと周回されれば、リナとていいかげん文句を言いたくもなる。
 王宮にいたときからこうである。正確には、茶会の途中から。
 まあ原因はわかっているが。
「荷ほどき手伝わないんなら部屋行っててよね!」
「リナ〜」
「あああもう、情けない声だしてんじゃないわよ! そんなに気になるなら顔見に行けばいいでしょ!」
 素っ気ない口調で言い、リナは荷ほどきを再開した。向こうも周回を再開する。紐に指をひっかけながらリナは半眼になった。人の話を聞いちゃいない。
 十五で旅に送り出して以来、顔も見てなかった娘が帰ってきてみれば男と一緒というのはたしかにリナも驚いたが、よく考えなくとも自分とてほとんど同じ事をやらかしたのだから文句も言えない。
 おまけに当のリアは、これだけは幼いときと何も変わらない、きょとんとしたあどけない表情で、何で誰かを連れてきただけでそんなに驚かれるんだろう?と首を傾げていた。―――たまたまセイルーンに相手が用があるというから、まんざら知らない場所でもないし、帰省がてら案内を買ってでたというのが正しいところだろう。ということは、別にガウリイがうろたえるほど込み入った関係でもないはずだ。………ガウリイにとっては、娘が男と一緒というだけでうろたえるには充分かもしれないが。
 これからどう転ぶにせよ、リナには何だか面白そうという感想しかない。言葉にするなら「ふ〜ん」だ。淡泊かもしれないがこれが本音である。
 木の床に響いていた足音がやみ、憮然としたガウリイの声がした。
「だってどこの宿かも聞いてないぞ」
「………本気かい」
 顔を見に行けというのはあくまで冗談のつもりだったのだが。
 リナは荷ほどきを止め、腰に手を当ててガウリイに向きなおった。
「あのね、ガウリイ」
「………何だ?」
「うちの父ちゃんそっくりよ。あんた連れてったときの」
 ものの見事にガウリイの動きが止まった。
 しばらくすると、その場にしゃがみこんで頭を抱えはじめる。リナはほっとくことにした。つきあっていられない。
 リアも帰ってきたことだし、当面旅に出る予定はない。旅先で手に入れたものを棚に収め、留守にするからと片づけていた必需品を引っ張り出して、買うべきものをリストアップする。
 そうこうしながら、リナはこの場にいるべきもう一人がおそろしく静かなことに気がついた。
「ティル?」
 顔をあげれば姿が見えない。自室で荷ほどきでもしているのだろうか。にしても静かだ。
 怪訝に思っていると、ティルトの部屋へと続く扉が開いて本人が姿を現した。何だか元気がない。茶会のときから静かだったが、疲れているのだろうと思ってほっといたのだ。
「どうしたの?」
「うん」
 生返事だ。視線が泳いでいる。
「荷ほどきはした?」
「した。あのさ」
「何?」
「オレ、もっと本読んだほうがいい?」
 リナは危うく手にした硝子瓶を床に取り落とすところだった。
 ガウリイも頭を抱えるのをやめた。
「アンタ、熱でもあるの?」
「ないよ」
 思わずティルトを観察してみる。顔色は普通。表情が冴えないことを除けば至って健康そうでもある。感情が表に出やすく、喜怒哀楽が激しいので、しょげているのは珍しくない。昔からリアに怒られたり邪険にされたりしてはしょげていた。感情の振幅が激しいのはリアも一緒なのだが、根本からひっくり返り大嵐を引き起こすリアと違って、ティルトの場合は気分的なものだ。すぐに落ちこんで、すぐに立ち直る。
 しかし、こんなことは初めてだった。ティルトは魔道を習っているときから、本を読むより実践して覚えるタイプで、読書を強制されるのを嫌がっていた。
 典型的に『活字が苦手な男の子』なのである。それが何を思ったか、本を読んだほうがいいかときた。
 ティルトには失礼だが、本気でリナは旅の疲れが出たのかと思った。
「どうしたんだ、急に」
「いや。あのさ。何かどう言えばいいかわかんなくて。本読めばわかるかと思ったんだ」
「はあ?」
 相変わらず何が言いたいのかさっぱりわからない。たしかに語彙を増やせとは口を酸っぱくして言ってはいるが。そしてそれには読書が最適なのも事実だが。
「たぶん、怒ってんだと思うんだ。同時に、哀しいような気もする」
「………誰が?」
「オレが」
 リナは溜め息をついて、ティルトのほうに向きなおった。
「お腹が痛いんじゃない?」
「リナ?」
 突拍子もないリナの言葉に、ガウリイが怪訝な顔をする。
 問われたティルトは大まじめに答えた。
「痛いような気がする」
「あのさ、ティル。ちっちゃな子がさ、もどかしいとか、寂しいとか、くやしいとか、そういった言葉を知らないとき、そういう喜怒哀楽より複雑な気持ちをどうやって訴えるかわかる?」
「………泣くとか? 赤ん坊は泣くのが仕事って言うし」
「赤ん坊まで年齢をさげないでちょうだい。ちょうど見た目がユズハよりちょい下ぐらいの歳の子よ。まあ、泣くのもアリだけど、泣くまで激しい感情じゃない場合」
 ティルトは顔をしかめて考えこんでいる。
 その様子に少々呆れ、リナは吐息混じりに正解を言ってやった。
「お腹が痛いっつーのよ」
 感情の内容が複雑すぎて、持っている語彙ではとても不快感を言い表せないのだ。リアがちょうどそれで、お腹が痛いと訴えてはガウリイをその度におろおろさせていた。
 リナの言葉に考えこんでいたティルトは、しばらくしてからムッとした顔で反論した。遅い。
「それオレがガキってこと?」
「アンタまだ十四にもなってないでしょうが」
「ユズハよりは上だよ」
 もちろん外見の話であって、実際はユズハのほうが年上なのであるが。
 唇を尖らせて不満げな息子に、リナは穏やかに言い聞かせた。
「たしかに『お腹痛い』なんて言いだす歳じゃないけど。あんたもガウリイも、言葉に表せない部分に頼りすぎてるきらいがあんのよ。それはそれでいいんだけど」
「だから。それでいまオレ困ってるから聞いてるんだけど」
「本読んでも書いてないわよ、んなもん。でかくなりゃわかるわよ。自然とね」
「………いますぐ知りたい」
 無茶を言いだしたティルトに、リナはいったい何があったのかと首を傾げる。
「どうしたのよ。何かあったの?」
 ティルトはしばらく口ごもっていたが、やがてリナから視線を外し、ぼそりと言った。
「姉さんに怒られた」
 リナとガウリイはわずかに顔を見合わせる。
 リアが時々ティルトに対して腹を立てることがあるのは知っている。ティルトがあまりにも突き抜けすぎている・・・・・・・・・のが、リアにとって我慢がならないのだろう。リアの怒りに対して、ティルトがその原因がわからずしょげるのも日常茶飯事だったが、今回のしょげかたは何やら様相が違う。三年ぶりだからだろうか。
「………来るなっつってんのに追いかけてったんだから、怒られるのは当たり前でしょ?」
「………うん。だけど。何か違うから。オレが」
 ぼそぼそと答えると、ティルトはそっぽを向いた。
 蒼穹の色をした瞳が翳って、曇り空のようになっている。
 リナは息を吐きながら、栗色の髪をがしがしと掻きあげた。何と言ったらいいものか。
「あのね、あたしがあんたにそれを教えてあげるには、あんたが自分に起きたこときちんと言葉を使ってあたしに説明できなきゃなんないのよ。ティル、できる?」
「………できねぇ」
 ほとんど呻くようにティルトが呟いた。リナが考えていることとはまったく別の理由からティルトはそう答えたのだが、リナにわかるはずもない。
 いつにないその不透明さを見通そうとリナは軽く目を細めたが、ティルトのほうがそれをいとって視線を逸らした。仕方なくリナは溜息をつく。
 親だからと言って何もかもわかるわけじゃない。生んだ瞬間から別の人間だ。
 言葉は万能ではない。言葉の他にそれを発するときの表情や、声音、タイミングなどといったさまざまな他の伝達手段と合わせて、人は相手の内面を推し量る。それでもまだ完璧ではないが、もとより完璧などだれも期待していない。ただ、必要なのだ。完璧ではなくとも。
 完全には伝わらないからといって、あきらめてしまうには言葉は力を持ちすぎている。
 いつだって言葉が足りなくて、自分の内側の感情に名前をつけたくて、それを相手に伝えたくて、その感情を盛る言葉の器を探しながら、人は生きていくのだ。
 だが―――。
 ふとリナは疑問に思った。
 ティルトはそれを伝えたいのか? 誰に・・
 むしろ、そうではなくて。
 伝えたいどころか、彼自身でさえまだそれを知らない・・・・・・・・・・・・・・・―――。
 自分自身のなかが覗きこめない―――そこから感情を拾いだせない。混沌として。
 ティルトがくるりときびすを返した。
「わかった。考える」
 部屋に戻っていくその背中を見送って、リナは再び息を吐いた。親になるということがこんなに大変だとは思わなかった。
 ガウリイがようやっと周回をやめ、椅子をひいて腰を降ろす。その金髪がさらりと揺れた。
 窓という窓を全開にした部屋は、少々強すぎるほどに初夏の風が吹きこんで爽快だ。
「あんたもそうだった?」
 唐突な問いにも驚くことなく、ガウリイは苦笑して首を傾げた。
「どうかな、あんま覚えてない」
「………このくらげ。いっそ、そっちのほうが楽でいいかもしんないわね」
「なんつーか、いつの間にか勝手にわかってた気がする」
「タチ悪………」
 リナは頭を抱えた。もう何年も一緒にいるが、相変わらず本気で困った相棒だ。
 とすると、ティルトが中途半端に鋭くて、中途半端に鈍いのは、自分の血を引いているせいか。自分が自身に対して鈍感なのは、多方面から指摘されているのでわかっている。
「リアもねぇ。もうちょっと、見逃してあげられればいいんだけどね」
 苦笑混じりにリナは呟いた。
 リナとて姉にコンプレックスを抱いて魔道士協会に行かせてもらったくちだから、兄弟姉妹に対する複雑な感情には覚えがある。嫉妬もするし、忌々しく思うときもあれば、尊敬するときもある。家族だし、好きだし、そういう個性だと知って愛しているけれど、それでも時々その性格には腹が立つ。
 ただリナの場合、対象が姉で年上だったが、リアの場合、相手が年少ということもあってよけい腹が立つのかもしれない。
「三年たてばオトナになってるかと思ったけどなぁ。背だけでかくなっちゃって」
 笑いながら、リナはすぐ隣の金色の頭を抱き寄せた。
「まあ、あともう三年もすれば、ティルトも育つし、リアもいいかげん落ち着くでしょうよ。―――案外、リアはすぐかもしんないけどね?」
 腕のなかの頭が跳ねるのを押さえこみ、リナはひょいとその顔を覗きこんだ。
「あのねぇ、あんたがそうしてたらあの子、そのうち本気で嫁き遅れるわよ?」
「リアに限ってそれはない」
 バカらしくなって、リナは窓の外に視線を投げた。
 何だってこうも溺愛するようになってしまったのだか。たしかに初めての子どもでおまけに父親似の女の子だから、可愛がりたくなるのもわからないでもないのだが。父親とはそういうものらしいし。
 まあ、一度生死の境をさまよってるし。無理もないか。
「………小さい頃はなぁ、おとーさんと結婚するとか言ってたんだよなぁ」
 しみじみと呟かれ、さすがにリナは抱えていた頭を放りだした。