Third birthday 【Ultra soul】 エピローグ・リナ〔2〕
ティルトがおみやげを渡しそこねたことに気づいたのは、日も暮れてからだった。
オリハルコンは粉々になってしまったから渡せないが、肝心の石像は無事だった。
ただ、あんまりにもどたばたしていたものだから、すっかり忘れていたのだ。姉を追いかけてユレイアと部屋を飛びだしたときに、そのまま卓上に放置されていたのをリナが荷物にしまいこみ、そのまま自宅まで持って帰ってきてしまったのである。
午後もだいぶ過ぎてから、母親が王宮に出かけることになったので託そうかとも思ったが、おみやげは自分で渡さないと意味がないと思いなおし、明日、持っていくことにした。
ちなみに夕食にも姉は帰ってこなかった。顔を合わせたくなかったティルトはほっとしたのだが、どういうわけか父親が卒倒しそうな顔をしていた。
しかし夕食こそ一緒にとらなかったものの、寝る前にはちゃんと姉は帰ってきた。
何だか怪訝そうな顔で、戦々恐々とした父親の問いに逐一答えていたが、途中で面倒くさくなってしまったらしく母親とみやげ話をはじめた。おかげで父親は泣きそうだった。
翌朝、ティルトが目を覚ますと姉はすでに出かけた後だった。やっぱり父親は昨日と似たような顔をして、いいかげん忍耐が尽きたらしい母親に怒られていた。
「母さん、オレ、メシ食ったらちょっと王宮行ってくる」
「昨日の今日でどうしたの?」
「おみやげ渡すの忘れてた」
「あんたまだ渡してなかったの?」
リナは呆れ顔になったが、すぐにどうでもよさそうに朝食を用意しはじめた。ティルトは本日の予定と行き先を告げただけだし、リナは呆れはしたものの特に反対するでもなく了解した。ただそれだけのことである。
「………姉さんは?」
「朝食前には出てったわよ。向こうで一緒に食べるって」
何がおかしいのかくすくす笑いながらリナが答える。
「一緒って、その、だれだっけ? 宿に置いてきぼりの人?」
途端にリナは頭痛をこらえるような顔になった。
「………あんたリアの前でんなこと口にしたらはっ倒されるわよ」
「わかった。言わねぇ。で、結局、なんだっけ?」
「あんたねぇ、昨日の茶会のときにリアが言ってたでしょうが」
「だっけ? ごめん、覚えてない」
リナは唇の片端を引きつらせながら息を吐いた。
「セイルーンに病気の治療に来たんだって。で、ここなら地元だから案内を買ってでたそうよ。シルフィールの紹介状持ってるって言ってたじゃないの」
「ふうん」
ティルトは納得した。別にどこもおかしな理由ではないのに、何だって父親が狼狽しているのかがさっぱりわからない。
「そういえば、わかったの?」
不意に問われ、ティルトはそのまま首を横にふった。母親は「ま、すぐにわかるようなもんでもないしね」と答え、会話はそこで終わり、ティルトは王宮へと出かけた。
門で小一時間近く待たされ、変装や幻影の魔法などを使っていないか調べられ、一通りの検査を受けてから王宮のなかへ入る。いつものことで、異議を唱える気もない。王宮に入ろうと思うならこれは当たり前のことだった。
アセリアとユレイアは不服そうなのだが、アメリアとゼルガディスはリナたちが王宮を訪ねることに関して特に何の便宜もはかっていなかった。特別に帯剣が許されているくらいのものだ。
もちろん、アメリアたちのほうがリナたちに用がある場合や、火急の際などは問答無用ですっ飛ばすのだが(事実、昨夜も姉が侵入行為をしている)、それゆえか普段はむしろ規律を守ろうとする。どうもアメリア側も両親側も、いざというときは全部無視すればいいのだから何の問題もないと思っている節がある。それはそれで問題のような気がするのだが。
出迎えたのはアセリアだけだった。
「ユレイアは?」
「一緒じゃないです。女官のみなさんも探しきれなかったみたいで、とりあえずわたしだけが捕まりました。王宮内にはいると思いますけれど。昨日の今日で、どうしたんです? まだ旅には出ませんよ?」
「それはわかってる」
ティルトがおみやげの話をすると、アセリアはどういうわけか眉をつりあげた。
「じゃあ、ユレイアもいないとダメじゃないですか!」
「いや、だから。オレ、最初からユレイアはって聞いてんじゃん」
アセリアは卓上の包みを睨むと、指をそれに突きつけた。
「絶対、まだ開けないでください!」
「開けてない」
「わたしとユアが揃うまで、絶対開けちゃダメです」
「だから開けないってば。ならオレ、ユレイア探してくるから、アセリアそれ見ててくれよ」
反対されるかとも思ったのだが、意外とアセリアはすんなり頷いて、長椅子に腰を下ろした。
「たぶん、花園か、もう一箇所のところです」
「………場所わかってんならアセリアが行けばいいじゃん」
「わたしは失神したくないですもん。ティルなら平気じゃないですか」
わかったようなわからないようなことを言い、アセリアは包みをじっくりと観察しはじめた。相当に中味が気になるらしく、ユレイアを連れてくる前に下手をすると開けてしまいそうだ。実際にそんなことはないだろうが。
白い石材が陽の光を反射する中庭に降りたち、ティルトは森に向かって歩きはじめた。
一日経つごとに日差しがきつく暑くなる。夏が近づいているのがいやでもわかった。
本宮を抜けると、途端に足元の感触が変わる。磨かれた敷石から柔らかな芝に代わり、森が近づくに連れ、さらにそれは手入れされていない下生えと苔に変わった。
相変わらず広い王宮だ。
木漏れ日が淡い金色に色づいて、さっと光を投げかけていく。
それに一瞬、目を細め、ふと父と姉の髪の色だと思った。
一昨日、帰ってきた姉に手合わせをしてもらおうと思っていた。
いまはそんな気はない。
もう充分だった。
あれ以上のものがあるだろうか。
(本気だったよな………)
本気で姉は殺すつもりだった。少なくとも、最初の一撃は間違いなくそうだった。
よけられたのは勘でしかない。本能が無意識に避けさせたのだ。当たれば間違いなく致命傷だったから。
ぶつけられた殺気に反射的に剣の柄に手をかけた自分を見て姉は、
ひっそりと笑った。
例えようもなく嬉しそうに微笑した。
幼い子どものような、いままでおよそ見たことのない底の抜けた笑い方だった。
斬り結んでいたあいだ、その微笑した唇の形が目に灼きつき、ずっと囁いていたような気がした。
それでいい―――、
何がそれでいいのか。
わからない。わからないまま、どうしようもなく剣を折るしかなかった。剣士にとってそれがどういうことか痛いくらいわかっていたけれども、そうしなければならなかった。あのままだとどこか斬られていた。だからといって、逆に姉を傷つけることなど論外で、剣を斬り飛ばすしかなかったのだ。
わからないと言った。
姉の剣を斬ってしまったことが腹立たしくて、なぜ自分に剣を向けるのか、そんなことをさせるのかが、わからないと怒鳴った。
不思議と殺されそうになったんだとは思わなかった。事実、殺されてなどいないのだから別にどうでもいい。
だから、わからないと言った。
すると、あんたはそうだと姉は答えた。ずっとそのままだろう、と。
一生かかってもわかるはずがない、と。
ほとんど言い諭すように、静かにそう言った。
そしてその通りわからないのだ。
姉が自分に対して怒っているのかどうかすら、わからない。
最初はそう思った。知らずユズハの命を奪いかけたことに対して激怒したのかと考えた。しかし違うような気がした。
自分がわかっていないことに対して怒っているのかとも思ったが、その『わかっていないこと』が何なのかすらも、わからなかった。
なぜ、剣を向けられねばならないのか。
向けられたのは自分なのに、どうして姉のほうが逆に剣を向けられたような顔で自分を見るのか。
正直、あまり考えたくなかった。
けれどもこのままではすまされないと、どこか意識の片隅で気づいていた。
何事もなかったかのように、姉は笑う。両親と双子の前で屈託なく笑ってみせる。同じように振る舞うことを無言で要求されているような気がした。
そんなことを要求されなくても、言えるはずがない。だけど、笑えるはずもない。
何で笑いたくないのに笑うのか。そこからしてティルトにはもうわからない。笑うことと泣くことは、全然違うことだろう。
嫌いじゃない―――。
嫌いじゃないんだ。むしろ逆なんだ。
当たり前に大好きなんだ。だって、家族なんだから。姉さんだから。
向こうもそうだと思っていた。何の疑問もなく信じていた。家族だから。
歩きながら、ティルトはようやくひとつだけわかった。
(哀しいんだ)
家族に剣を向けられたから。向けられるはずがないと思っていたから。
でも、それだけではない。それがわかっても何も片づいていない。もっと考えないと、まだわからないことだらけなのだ。
小径の先の開けた場所に、ユレイアの姿を見つけたのはそのときだった。
ティルトはいったん考えることをやめて、新緑の向こうを透かし見た。
ユレイアは靴を脱いで裸足で小川のなかに立っていた。服の裾を持ちあげて、濡れないように気をつけている。ティルトに気づいた様子はない。
無意識のうちに自分が気配を消していたことにティルトは気づいた。
ユレイアは何かをたどるように虚空に視線を泳がせていたが、やがて不意に足で水を蹴った。
ぱしゃん、と軽い音。飛沫がきらきらと光を弾きながら落ちていく。
やがて再びユレイアは水を蹴った。
しゃん、ぱしゃん。
気がつくと、草のあいだをすり抜ける風のように、ユレイアが小声で歌を口ずさんでいた。静かで、柔らかい旋律だ。いつものように歌詞はない。
ぱしゃん。
水が跳ねた。歌に合わせて、まるでこのタイミングで水がこんな音を起てるのは当たり前なのだと言わんばかりに、ごく自然に水音がした。
当たり前のように風が吹いた。当たり前のように葉擦れの音が、歌に絡むようにさわり、と鳴る。
ぱしゃん―――、
知らずティルトは総毛立っていた。
ユレイアが唱っていた。肌が粟立つ。旋律がティルトにぶつかるたびに体全体に振るえを感じた。足元から水が迫ってくるように、細かな泡が全身を這いあがり、頭頂まで来るとふわっと弾ける。それが何度も繰り返され、全身が泡だっていくようだ。共に、鳴る。
自分を含めあたりの世界がユレイアの歌に共振し、細かく振るえているのがわかる。たまらない。
振るえているうちに、やがてまとまっていることがつらくなり、自分の意識と身体を構成しているものが、ひとつひとつ、緩やかにほぐれてあたりに融け、世界とひとつになることがこのうえもなく幸せのような気になる。そうすれば、わからないことなど何もない。何も怖いことなどない―――。
ティルトは両手で顔をおおって、膝をついた。
歌が止んだ。
「ティル!」
驚いたような声と共に、足音がこちらに近づいてくる。
いままで歌に絡んでいた水音や風の音が、唐突に解放されて戸惑ったようにざわめいて、日常に還る。
「すまない! いると気づかなくて、何の加減もなく唱ってたんだ」
ユレイアの影が落ちて、視界が暗くなる。ティルトはうずくまったままずっと動けずにいた。
「ティル―――?」
ユレイアが心配そうに手を伸ばした。いくら何の加減もなく唱っていたとしても、ティルトがこうまでなるはずはなかった。ユレイアの歌を聴いても何ともないのは、ユズハとガウリイとティルトなのだ。
大きく息をついて、ティルトは肩をふるわせながら顔をあげた。
「………オレ、やっとちゃんとユレイアの歌聞いた」
「ティル………っ!」
ユレイアが絶句する。
ティルトはまだ片手で顔をおおっていた。顎先から滴がしたたり落ちる。
歌の名残が身のうちでまだ響き渡っている。しかし歓喜に満ちていたそれは、いまはひどく哀しく、あり得ない―――。
「いままで、ちゃんと聞けてなかったんだ。ごめんな………」
ユレイアが、弾かれたように激しく首をふった。
「違う、ティル………!」
「違わねぇよ」
ぐいと目元をこすって、ティルトは肺が空になるような溜息をついた。どこか満たされたような、それでいてどことなく空虚な溜息だった。
「ちゃんと聞いたら、こうならないはずないんだ。でないとおかしい」
ユレイアは泣きそうだった。
何かがおかしい。ティルトがこんなことを言うはずがない。
ユレイアにとって歌をちゃんと聴いてくれるというのは、ユズハやガウリイや以前のティルトのように、歌を歌としてしか聴いてくれないことなのだ。歌は歌でしかなく、それ以外のものばかり耳につく自分の歌は、たとえ自分でその有り様に納得していても、少し哀しい。
歌を聴いてくれるはずのティルトが泣いている。自分の歌のせいで。
恐慌状態に陥りそうだった。
「ユレイア………」
囁くように言われて、ユレイアは泣きそうになりながらティルトを見た。
「ごめんな」
「謝るな!」
思わず怒鳴っていた。
ティルトは自分の歌を聴いても動じないはずだった。何だかひどく裏切られたような気分だった。
「違うよ………」
ティルトは少し笑った。
「オレが謝ってるのはそうじゃない」
「何が !? じゃあ、ティルトは何を謝ってるんだ!」
「何もわかってなかったんだ」
ティルトの言葉にユレイアは竦んだ。途轍もなく恐ろしいことを言われているような気がした。
単なる否定ではなかった。もっと、遙かに深いところまで遡ってティルトはそう口に出していて、そのことでユレイアに謝っているのだ。ユレイアだけではなく、おそらく彼を知る全ての人に。
「わからないことが怖いことだなんて思ってなかったんだ。当たり前だと思ってたんだ」
アセリアはどうしてこの場にいないのだ。自分だけがここにいるのは不公平だった。怖い。なぜだかどうしようもなく怖い。
「相容れないってことは怖いことなんだ。当たり前だけど、普通は怖いんだ」
「ティル!」
「何もオレわかってなかったんだ。………だから姉さんは」
ようやく顔をあげて、ティルトはユレイアを見た。
「ごめんな」
―――その表情。
ユレイアはその場から走りだしていた。もうこれ以上、ティルトと一緒にいたくない。
取り返しのつかない何かが起きてしまった気がした。
裸足のままだったことに気づいたのは、王宮に帰り着いてからだった。
置き去りにされたユレイアの靴を拾いあげ、ティルトは空に目をやった。
夏の空だ。重く鈍く光る入道雲に、自分の瞳と同じ色の空。鮮烈な陰影。
どうして季節によって空の色が違うのか、ティルトは知らない。
知らないことは知ればいいと思っていた。わからないことはわかればいいと。
そして知りようがないことは知らないままでいいし、どうしてもわからないものはわからないままでいい。そう思っていた。
わからないことがこんなにも不安だということを、自分はわからなかったのだ。
わからないことは当たり前でもなんでもないことなのだ。そしてそれは、とても怖いことなのだ。
わかった途端、何もかもわからなくなってしまった。
世界があれば自分はないはずだった。自分は世界の一部だったはずなのだから。
自分が変われば世界も変わる。
世界が変われば自分も変わる。
そうじゃないのか。違うのか?
―――普通はそうじゃないのよぉ。
アリサの声が聞こえてくるようだった。
普通って何だ。いまのこの状態のことを言うのか。
世界のなかにぽつんとある自分に気づいて、途端にそのことが怖くなった。相手が自分のことをどう思っているのかがわからなくて怖くなる。わからないことが怖いのだ。生きているから。生きている自分以外の世界もやはり生きていて、それぞれ勝手にティルトの与り知らない理由でティルトにかかわっていくから怖いのだ。
いままでそんな簡単なことすらわからなくて、わからないでいることを何とも思っていなかった。
世界が重なる。何ということもなく、たやすく無様に。
「………だから姉さんは、オレを斬るんだな」
自分のなかの何かが剥がれ落ちて、世界がひどく真新しく見えた。
それでも、答えはまだ出せそうにもない。