Third birthday 【Ultra soul】 エピローグ・リア〔1〕
その日の午後にリアを出迎えた相手は、少し戸惑ったような顔をしたあと、ふと柔らかく微笑した。
おそらく一瞬見蕩れていたのだと思う。顔の半ばを覆う厚い布を取り去って、もう一度ちゃんと笑ってほしい、ちゃんと見るから。そう思ってしまうような笑みだった。
「よい香りがしますね」
「え?」
思いもよらないことを言われて、リアはひとつ瞬きした。
リアの戸惑いを察したのか、相手が首を傾げる。
「とても良い薔薇の匂いがしますよ? あと、なぜだか丁字とか白檀などの防虫の香料の匂いが」
ようやく原因に思い当たったリアは、あ、と思わず頬に手をやった。
「そんなにする?」
相手はさらに不思議そうな顔をした。
「私の鼻がいいこともあるんでしょうが………でも、他の人も近づけば気づくと思いますよ。自分でつけたんじゃないんですか?」
「違うわよ。まずったわ………」
心持ち顔を赤くしてリアは視線を泳がせた。
昨夜はあのまま王宮に一泊した。
さすがに心身共に限界で、ほとんど失神するように寝付いた。ユズハが隣りにいたかどうかの記憶すらない。夢も見なかった。
目が覚めると顔見知りの双子付きの女官がいた。リアを起こすのに苦労したらしく、げっそりした顔をしていた。自慢ではないがあまり寝起きはよくない。
とりあえず挨拶をしてみた。
「………おはようございます」
「おはようございます。お久しぶりです」
「あ、そうですね………はい?」
そのまま意識が落ちていきそうになるのをこらえながら、リアは起きあがった。
「えと………そんなに寝てました?」
「いえ、普通に起床の時間です。寝たりないかと思いますが、アメリア様が………もしもし、リアさん寝ないでください」
「………すいません」
顔を押さえてリアは沈黙した。また意識が飛びそうになる。眠すぎる。
「えと、なんでしたっけ」
「ですから、アメリア様がリアさんに湯殿をと」
「………ぇ?」
「せめてものお礼にだそうです。お風呂からあがったらお茶にしますから、きてくださいねとのお言葉を預かっております」
「えぇっと………」
リアは必死に思考をまとめた。かなり紆余曲折の思考手順の末にようやっと、旅先から強行軍でやってきて事態の収拾に奔走したリアに対してアメリアが感謝の気持ちを示しているのだという結論に至り、ようやっとそれが湯殿と結びつく。
アメリアやユレイアたちがさんざん苦労しているのを見ているから、王侯貴族がうらやましがられるほどのものではないと知っているリアだが、これだけはうらやましいと思うのが常設されている湯殿だった。泳げるほど広い湯船というものはそうそうにお目にかかれるものではない。王宮に泊まると何がいちばん嬉しいかというと、これだった。
もちろんアメリアもそのことを知っている。
納得したリアの顔がふわぁと笑顔になった。素直に嬉しい。
また眠るのではないかと心配して見ていた女官は、起き抜けのその顔になかば眩暈を覚えた。この顔が見られるなら男は幾らだって貢ぐだろう。見ている女の自分も何やら幸せになってくる。
「わかったら、起きてくださいますか」
「………起きます、すいません。えっと、アセリアとユレイアは?」
「まだ寝ていらっしゃいます。ようやっと仲直りしてくださいました」
「………喧嘩してたの?」
女官はリアがまだ半分寝ぼけているのだと思ったらしく、丁重にその問いを無視した。真実知らなかったのだが、互いの認識が噛みあうはずもない。
意識が飛びそうになるのをがんがん頭を叩いてこらえながらリアは湯殿に案内されたのだが、その湯殿が問題だったのだ。どうやらお湯自体に何かの香料が落とされていたらしく、湯気からして薔薇の匂いがした。
おそらくイルニーフェがアメリアの立太子の祝いの品として献上した物のひとつだろうとリアは見当をつけた。薔薇の香料はマラードで少量作られていて、同じ重さの銀と取引されるとかされないとか。
自然と思考はそちらのほうに流れていってしまう。何か考えていないと寝てしまいそうだった。
「イルニーフェさん、だいじょうぶかしら………」
あの魔族から冗談半分で瘴気をぶつけられて昏倒したという、冗談ではすまされないような話を昨夜、寝る間際にちらりとだが聞いていた。
その話を聞いて、リアは「やっぱりぶった斬っておけばよかった………」と呟いたのだが、血相を変えたアメリアとゼルガディスに揃って「やめておけ」と止められた。
常ならば湯殿までも持ちこむその剣は、いまは預けてある。折れた剣を持ちこむのも馬鹿らしいと思ったのだが、実に落ち着かない。
リアは重い溜め息をついた。お湯は気持ちいいのだが、一夜あけてもまだ自分の記憶が混沌としすぎて如何ともしがたい。
自分はここでこうしていてもいいのだろうか。できるなら、どこか遠くに逃げてしまいたい。これ以上、傷つけることがないように。
(ここまで連れてきて放ったら、それこそミレイに叩かれるわね)
苦笑して、湯からあがったら服がなかった。
不潔ではないが綺麗とも言い難い実用一点張りの旅装だったので、今頃ぬるま湯をはった盥のなかだろう。
あり得ない事態ではなかったので別に驚きはしなかったが、いったい何を着せられるのだろうと嘆息したのも事実だった。
双子付きの女官は幼い頃からリアを見知っている。素材としては申し分ない彼女をことあるごとに飾りたてたがった。一度などドレスを着せられ、危うく夜会にまで引っ張りだされるところだった。逃げたが。
果たして何を着せられるのだろうと危惧していたが、出された服は意外にもごく普通の白の上下で、しかもどう見ても男物だった。
襟と袖口に同色の糸でごく控えめな縫い取りがされている。長いあいだ仕舞いこまれていたのか、防虫香の匂いがした。まがりなりにも香と銘打たれている代物だから、そう悪い匂いではない。
ひらひらした女物を出されるよりは余程ありがたくリアはそれを着こんだのだが、三年ぶりに顔を合わせた女官は非常にそれを残念がった。
「まさか三年のあいだにこうも背丈が伸びているなんて………」
どうもリアの身長に合うだけの女物の衣服を捜しきれなかったらしい。双子はまだ成長期前だし、アメリア王女も小柄な人物なので無理もない。
「これはどなたのなんですか?」
「大公殿下のです。白い色は滅多にお召しになりませんので、お仕立てしてからずっとそのままになっていて………一応、風にはあてましたけれど」
一瞬、誰のことかわからなかった。『大公殿下』が誰かに思い至ったリアは目を丸くして、次に実に不思議そうな顔でこう言った。
「あたし、そんなに背が高かったかしら?」
これには女官が酢を飲んだような表情になった。
リアは背が高い。高いうえにその長身に見合った、均整の取れた実にしなやかな体つきをしている。湯上がりのいまなど、自分しか見ていないことに安堵するぐらいに麗しい。
双子の王女を可愛がってくれているこの少女が―――そろそろ少女とは呼べなくなるが―――以前から自分の容貌に無頓着なのは知っていたが、まさか身長にまで自覚がないとは思わなかった。
溜息混じりに女官は言った。
「わたくしの頭のつむじが見えておりますか?」
「一応は」
「普通それは殿方の目線です」
きっぱりと言われ、リアは軽く首を傾げた。よくわからない。
その後、髪やら顔に色々塗られそうになって早々にお茶の席に逃げてきたリアの出で立ちを見て、その大公殿下が茶器を取り落としそうになった。
「まあ、ぴったりじゃないですか」
実は肩や袖が余る他にもところどころ緩いのだが、傍目にはわからない程度のものらしい。アメリアは目を輝かせてリアを眺めている。
白の上下に腰には剣という出で立ちの娘を見て、リナが茶菓子を手にのほほんと呟いた。
「昔のゼルみたいな恰好ねぇ。剣帯はあたしのだけど」
うながされて席に着いたリアを、きらきらした表情の双子が見あげた。おそらく席順でもめたのだろう。右にアセリア、左にユレイア。アセリアの隣りにはユズハがいた。
リアは破顔して双子の頭に手をおくと、それぞれの頬に口づけてやる。
「おはよう。久しぶりね。ただいま」
「お帰りなさい、クーン姉さま」
「クーン姉上、おはようございます。お帰りなさい」
双子がくすぐったそうに笑った。
「改めまして、ただいま帰りました」
「お帰りなさい。三年ぶりですね」
アメリアが微笑して頷く。
「はい。お久しぶりです」
「三年間、どのあたりに行っていた?」
「いちおう、一通りは。サイラーグとか………だから何で視線逸らすんですか」
アメリアとゼルガディス、リナとガウリイがそれぞれ視線を泳がせる。
「あー、じゃあシルフィールに会ったの?」
「うん、アーウィスさんって人が一緒だった」
アメリアとリナの顔が俄然輝き、しばらくその話に花が咲いた。双子はリアを見て嬉しそうにしているし、ティルトとユズハは大人しい。リアは意図的にこの二人を無視した。
そのうち、話の流れでリアがサイラーグからここに向かってきたことを知ったリナは呆れた顔をした。
「半島の反対側からこっちきたの? 旅先でアレにちょっかいかけられてすっ飛んできたにしても、よくあのタイミングで飛びこんでこれたわね?」
氷砂糖に漬けこんだ薄荷を砂糖代わりに茶に浮かべていたアメリアが、リナの言葉に同感とばかりに頷いた。
「何だってサイラーグから急にセイルーンに帰ろうなんて思ったんです? ほとんど半島横断ですよ」
リアは視線を上に投げ、首を傾げた。そう言われてみると、なかなか無茶な旅程だ。よくもまあ、目の見えない相手をサイラーグからセイルーンまで連れてこようと思いついたものである。
「ええっと、用事があったので」
「用事? 顔を見せにきたわけじゃないのか?」
ゼルガディスの問いに、リアは「それもありますけど」と答えた。
「連れがセイルーンに用事があったので。というか無理やり作らせたというか」
シルフィールの話をしたとき以上にアメリアとリナの目が輝いた。双子も両脇からリアを見あげる。ユズハ以外の連れがいるなどとは聞いてない。
「あんた連れがいたの? こんなところでお茶してるけど、その連れはいまはどうしてんのよ?」
「城下の宿よ。―――怒ってなきゃ」
肩をすくめてリアは答えた。目が見えているなら怒って出て行くということもあり得るだろうが、ゼフィアの場合はその可能性は低い。それだけになおさら申し訳なくて、早々に席を立ちたいのだが、どう考えても場の話題の中心は自分だった。
「怒られるようなことをしたんですか?」
アメリアの問いを受けて、リアはじとりとユズハを睨んだ。相変わらずいつもの無表情で、黙々と大量の茶菓子を頬張っている。
「もともとセイルーンが目的地だったとはいえ、妙なのが出てきたせいで強行軍になるわ、セイルーンまで来たら来たで、どっかの半精霊がもうすぐ外壁門というところで、いきなりユレイアの名前呼びながら消えてくれたせいで、あたしの翔封界に付き合わされるわ―――一応、了解はとったけど―――いまも宿にほったらかしだし」
「あたしなら殴る。問答無用であんた殴るわね。何だってそこまで蚊帳の外なのよ」
真顔でそう言った母親に対して、娘のほうも真顔で答えた。
「冗談じゃないわ。あたしと一緒にいながら奇跡的にアレと顔を合わせていないのよ。こんな尋常じゃない事態には絶対に巻きこめないわ。それぐらいなら大人しく殴られるわよ」
すでにイルニーフェを巻きこんでしまったアメリアが恐ろしく真剣な表情でそれに頷いた。
「正しい判断です。あんなのと顔を合わせる機会なんか、生涯持たないほうがいいに決まってます」
アメリアは何とももの悲しい顔で二人の娘を見やると、首を横にふった。
「この子たちはもう手遅れですけど………」
「母さま、わたしは会ってないんですけど………」
「似たようなものです」
ゼルガディスがもはやあきらめたような表情で茶に蒸留酒をたらしている。
「あれはほとんど天災だ」
「賛成です。お茶がまずくなるような話題はこれで終わりましょう」
ティーポットをとりあげたアメリアは、隣りの席のユズハのカップに三年ぶりに茶を注いでやり、久しぶりに見るその食事風景に何を思いだしたのか、実にしみじみとした口調で述懐した。
「よくユズハがぼろを出しませんでしたねぇ」
「知ってますから」
苦笑混じりのリアの答えに、アメリアとゼルガディス、リナの目が見張られた。
「言ったのか?」
言外に、それを信じたのかと尋ねていた。
ユズハの場合、素性を正直に話しても信じてもらえないことが多い。精霊という存在自体が魔道士間で実在を証明されていないので、その精霊と邪妖精との合成獣ですと言ったところで、何の与太ですかと聞き返されかねないのだ。おまけに合成獣としての器も自ら破壊して、現在はほぼ魔族と変わらない在り方をしている。これでは話して信じるほうがおかしい。
「半信半疑、かしら。あんまり気にしてないみたい」
「気にしてないのか? それは寛大というか図太いというか………」
ゼルガディスが呆れたように口をはさんだ。
リアは曖昧に笑った。おそらくユズハの姿が見えていないから、あまり実感が湧いていないのだろうとは思うが、ここでそう言うのもためらわれる。
しかし寛大なことには間違いない。実に根気よく自分に付き合ってくれているのだから。
「なんだって無理やり連れてきたの? うちらに紹介でもする気?」
リナの問いにガウリイが茶を吹き出しかけた。
何のことかわからずリアは首を傾げる。
「別に紹介してもいいけど、何だって母さんたちに引き合わせるために連れてこなきゃいけないのよ?」
「なんだ、違うの」
「白魔術都市だから無理に連れてきたのよ。向こうのプライベートだから許可もなしに本人のいないところでは言いたくないわ」
その言葉にリナたちが納得顔になった。
「よければ魔法医を紹介しましょうか?」
「いえ、シルフィールさんから紹介状を預かってますから」
「あら、じゃあシルフィールとも知り合いなのね」
リナが目を丸くした。
「寛大にしても図太いにしても、そんな理由なら早く行ってあげたほうがいいんじゃないですか?」
アメリアの心配そうな口調に少し笑って、リアは飲み終えた茶器を置いた。
「そろそろ行きます。ユズハ、あんたは? あんたも一緒に頭さげてもらいたいところなんだけど」
「ヨイ。行かヌ」
「………あとで絶対頭さげんのよ」
「わかっタ。ぜあに、よろしゅウ」
珍妙な言葉遣いはいつものことなので誰も気にしなかった。むしろ、ユズハが発した人名のほうに興味をそそられたらしく、ユレイアがリアを見あげて尋ねた。
「ゼアさんですか?」
「んなわけないでしょ」
リアは苦笑した。ユズハが名前を省略するのはいつものことだ。
「じゃあ、何ておっしゃるんですか?」
首を傾げて考えこんだリアは、別に教えても支障はないだろうと判断した。あとでゼフィアにもこちらの名前を教えれば公平だろう。
「ゼフィアよ」
それを聞いたアメリアとリナはちょっと意外そうに顔を見合わせた。アメリアのほうは少し残念そうな顔をしている。逆に父親のほうはどういうわけか露骨に安堵の顔を見せていた。
反応の多彩さにリアは面食らった。そんなに聞かない名前なのだろうか。たしかに柔らかい感じのする名前ではあるが、そんなに珍しいとも思えない。
「どうしたの? そんなに珍しい名前なの?」
リナが笑いを噛み殺しながら首をふった。
「いや、別にそうでもないんじゃない? あんたが誰か連れてるってのも珍しい話だからみんな驚いてんのよ」
「なにそれ」
娘のほうはわずかに唇を尖らせたが、すぐに気を取り直して立ち上がった。茶会の主人であるアメリアから許可が出た以上、ここにいる理由はない。
リアは己の恰好に気付いて、ちょっとためらった。
「すいません。このまま服お借りします。あたしの服は―――」
「乾いたらリナたちに引き取ってもらいますからご心配なく。あげますよ、それ。ゼルガディスさんあまり白い服着ませんから。どうせ家に帰っても、以前の服は入らないでしょう?」
考えてもいなかったことを言われて、リアはうめいた。たしかにそうだ。母親の服も入らない。とすると街に買いに出ないといけない。幅はともかく丈が問題だ。買い物が難航するのは予測するまでもない。ならばここでもらっておいたほうがいい。
「じゃあ、ありがたくいただきます」
立ちあがったリアを、双子がまぶしそうに見つめた。洗いたての金髪は光の糸のように輝いて、肩を過ぎたあたりでゆるく巻いている。並はずれて整った容貌のなかでひときわ異彩を放つ真紅の瞳が、妹分の姿を認めて穏やかに細められた。
「そのうちまた来るわね」
「約束ですよ」
アセリアがそう言った。
どうやらリアが抜けてもそのまま茶会は続くようだった。蒸留酒を多めにたらした茶を父親とゼルガディスがそれぞれ口に運んでいる。
すでに何皿目かもわからない茶菓子を取り分けながら、ふと思いついたようにリナが言った。
「差し支えなければ、そのうちそのゼフィアさんとやらを紹介してちょうだい。あんたが女友達連れてるなんて珍しいもの」
「は?」
最初何を言われているのかわからなかったリアは、しばらくまじまじと己の母親を見たあとで、実に何とも言えない表情をした。気の毒そうな、笑いをこらえているような、実に不可思議な顔のまま、ゆっくりと首を横にふる。
「ゼフィは、男なんだけど」
父親とゼルガディスが、揃って激しく茶にむせた。