Third birthday 【Ultra soul】 エピローグ・リア〔2〕

 部屋に招き入れられ、椅子に落ち着いてからもリアは指摘された匂いが気になって、少々落ち着かなかった。
「自分じゃもう全然わからないわ。そんなにするなんて思わなかった」
 困ったように一房髪をつかんで顔に近づけてみるが、やはりわからない。
 窓のカーテンを調節していたゼフィアがそれを聞いて笑った。
「別に良い香りなんですから気にしなければいいじゃないですか。私は嬉しいですよ。いるんだなってわかりますから」
 思いもよらないことを言われてリアは少し驚いたが、同時になるほどと思った。
 見透かしたようにゼフィアが釘を刺す。
「だからといってこれから無理につけてこないでくださいね」
「………わかった?」
「沈黙されれば、わかります」
 リアは罰が悪そうに頬をかいた。
「ごめんなさい」
「謝る必要もないんですけどね」
 ゼフィアが苦笑した。
「ユズハは一緒じゃないんですか」
「何か、いいっていうから置いてきたわ。久しぶりに会うから向こうにいたいんじゃないかしら」
 昼下がりの光は明るすぎて、窓の外を見つめていると部屋のなかがとても暗く感じられる。外はまぶしいばかりに青い空が広がっている。
 あまりにも陽光が強すぎて、ゼフィアと外に出るのがためらわれた。この光のなかでは辛いだろう。もう少し、日差しが柔らかくなってから用事を済ませに出かけよう。
 ふと午前中の茶会のことを思いだし、何気なくリアは尋ねていた。
「そういえばゼフィアって名前、女の人みたいだって言われない?」
「……………………それが何か」
 少しばかり沈黙が長かった。
 見れば、少々顔が引きつっている。
「もしかして………禁句?」
「今更死んだ親に文句は言えません」
 穏やかな口調とは裏腹に、表情は少しも穏やかでない。
 笑ってはいけないと思いつつ、どうしても笑いだしそうになってリアは口元を押さえた。こんなに憮然とした表情のゼフィアを見るのは、アーウィスと再開したエディラーグ以来だ。どうも触れてはいけない話題らしい。
「あー、ごめんなさい。これ以上何も聞かないことにするわ」
 リアは視線を泳がせた。
「まあ、名前に関してはあたしも思うところはあるし」
「あなたが?」
 意外そうにゼフィアが問い返した。
 リアは苦笑して答える。
「二音の名前で母音が一緒の一字違いなんて、母さんとあたしのどっちが呼ばれてるのか区別がつかないわよ。困った母さんがあたしに付けた名前がクーンなの」
「ということは、あなたの名前はお母上が名付けたわけではないんですね」
「うん。伯母さんが付けたの。伯母さんって呼んだら怒られるから名前で呼んでるけど」
 本当は怒られるどころの話ではすまない。ものわかりの悪いティルトなど「だって伯母さんだろ?」と平気で口に出して母親を凍りつかせ、ルナににっこり微笑まれた。―――弟はものわかりが悪いが、悪いだけで完全にわからないわけではない。その後は、ちゃんとルナさんと呼び習わしている。
「―――あとあと呼び方がめんどくさいことになるってわかってたのに、どうしてリアなんて付けたのかしら。そういえば、リアはレティディウス公用語だってラウェルナさんが言ってたような………」
 最後のほうは独り言になっていた。
 聞くともなしにその独り言を聞いていたゼフィアが首を傾げる。
「クーンのほうは?」
「知らないわ。もしかしてこっちもそうなのかしら。今度辞書でも引いてみる」
 あまり興味がなさそうにリアは肩をすくめた。引いてみるとは言ってみたものの、気が向かない限りそうしそうもない答え方だった。
 不意にカーテンの止め紐が外れて、夏の風をはらんで大きく膨らんだ。
「あっという間に夏になっちゃったわね」
「サイラーグを発ったときは春の初めでしたね」
 席を立ち、止め紐を直しながらリアは会話を続ける。
「そういえば、髪、暑くない? 男の人でそこまで長いのってうちの父さんぐらいしか見たことないんだけど」
「切り揃えると、すぐに不揃いになるでしょう? ある程度長いと伸びても見た目わからないじゃないですか。自分では切り揃えることができませんし、こちらのほうが楽です」
「なるほどね。うちの父さんの場合は、母さんが切らせないのよ―――」
 しばらくのあいだ、そうやってこれからの予定や他愛のない話をしていたリアは、ふと眠気を覚えた。昼下がりというのは、きちんと朝起きていると自然と眠くなる時間帯だ。
 風がたまらなく気持ちよい。
 テーブルに頬杖をついていたリアは、不意に頬に触れてきた手に目を見開いた。
「もしかして、寝てた?」
「むしろ私が聞きたいんですが」
「………寝てたかも。ごめんなさい」
 リアは吐息だけで笑った。
 頬から伝わる相手の熱がひどく心地よい。きっと劣らず自分の頬も熱い。
「本当にごめんなさい。ずっとここまで引き回してきた挙げ句に、全部あたしの都合で勝手ばかりして。全部片づいたら謝ろうと思ってたのに、話の途中で寝るし」
「いいえ」
 ゼフィアが微笑する。
「ここで怒ってもいいんですけどね。何だかそんな気も起きないので」
「何だか怖いわよ、それ」
 微笑が苦笑に変わった。
「機嫌が悪い私は手に負えないので、けしかけないでください。それに、どうにも調子が悪そうな相手を咎めたりしませんよ。疲れてますでしょう?」
「うん、ちょっとね」
 そう答えた瞬間、椅子に座ったまま奈落に落ちていくような気がした。
 愕然とリアは目を見張る。
 一瞬にして血の気が引いて目の前が暗くなる。オリハルコンと、剣が一閃する銀の烈光。切れ切れの映像が再燃されて灼きつく。
 泣くことと笑うことは同じこと。等しく同じ、意味と価値が。
 剣だけは純粋だ。振るい手の意図など関係なく清冽に輝く。たとえどれほど持ち主が醜くあろうとも。
 引き、ぎ、払い、振りおろす。
 一撃でも当たっていれば殺していた。それを知っていた。そしてそれ以上に殺せるはずがないことを知っていた。自分の技倆うででティルトを殺せるはずがない。
 そして剣は折られた。二度と接げない。
 愛している。
(あんたはあたしの弟よ)
 あのとき、もし、会話を遮るようにユズハが現れなかったら。
 それはとりかえしなどつかない。わかっている。
 無意識のうちに頬に触れる手をきつくつかんでいた。自分がどこにいるのかわからなくなりそうだった。
「クーン―――」
「平気………待って、ちょっとだけ待ってて………」
 原因などわかりきっているのに、わけのわからない壊れ方だ。我ながら。
 きっとこれからもこれは来る。何の脈絡もなく日常に滑りこみ灼きつく再燃現象フラッシュバック
 子どものように両手でその手をつかんで額に押しつける。つかんだ手のひらから伝わる体温によって現実へと引き戻されるまで、少し時間がかかった。
「………ごめん。もう平気」
 肺が痙攣したように呼気を吐きだしたときだった。
 ふと、伸びてきた手が彼女の頭におかれた。
 つかんでいた手とは別のその手が、まるでユズハがするような唐突さで。そして、ユズハにいつも自分がしてやるように、繰り返し、
 触れてくる。手が、
 ひどく優しい。
「――――――ッ」
 どんな願いも口にできない。そんな資格はとうに失くした。
 後悔さえ許したくない。それでも剣を捨てられない。
 いつかは必ず露呈する。
 それなのに泣く場所がある。あまりにも卑怯だ。
 代わりに笑っていればいい。そのつもりでいた。それなのに。
 ふわりとおかれた手の感触に涙がこぼれた。
 この人は何だろう。
 当たり前に自分が泣くことを許してしまうこの人は。
 どうして、何も聞かずにそれを赦すのだろう―――。