Third birthday 【Ultra soul】 エピローグ・マラード〔2〕
時は数日ほどさかのぼる。
意識を取り戻してのち、病床でアメリアから事の顛末を聞いたイルニーフェはしばらく沈黙したまま一言も発さなかった。
肉の落ちた指に目をやって、ひとつ嘆息する。
「二度とくらいたい代物じゃないわね。気分が悪いったら」
「あの場に同席させていたわたしの責任です。ごめんなさい」
イルニーフェは冷ややかな顔で義理の姉を見た。
「あなた何か記憶違いをしているわよ。あの部屋にあたしは自分の意志でやってきたのだけれど?」
「わたしの責任じゃないとしたら、あなたが途轍もなく不運だったということになりますよ」
「別に。あたし自分の運が良いとはあんまり思ってないの。変だとは思っているけれど。心にもないことを言うのはやめたほうがいいわ」
「わたしは本気で申し訳ないと言ってるんです!」
血相を変えて叫んだアメリアに、
「だからと言ってあなたに謝られてもどうしようもないでしょう」
イルニーフェは頭痛をこらえるようにこめかみに指をあてた。
「だからと言ってあれに謝りに来られても、もっと困りはするけれど。できればもう一生涯会いたくないわ」
「そうしてください」
ほとんど懇願に近い口調でアメリアは思わずそう言っていた。
それを見て、イルニーフェがさらなる頭痛をこらえるように顔を歪める。
「あのね」
「はい」
「こちらがそうしたいからといって、そうなるものでもないでしょう。あれは」
「いいえ。これ以上、うちにかかわらなければいいんです」
「言われなくてもかかわらないわよ………本当にどんな人生歩んできているの、あなたとリナ=インバースは」
「まあ、少なくとも後悔だけはしていません」
堂々とそう口にしたアメリアに、呆れたようにイルニーフェは首をふった。
「ならあたしは何も言わないけど。―――どっちが継ぐの」
「アセリアです」
「そう」
小さく頷いたイルニーフェに、アメリアは怪訝な顔をした。
「もしかして予想済みでした?」
「ユレイアのほうが向いてないのよ。あの子自身もそれを知っていたわ。そのうえであえて揉めごとを引き起こそうというんだから腹も立つというものよ。………いまだに根本的に二人ともわかっていなさそうだけれど。お互いしか見えてない状態で後を継いでも、早々に身代を潰すだけよ。アメリア王女」
アメリアは苦笑するしかなかった。
イルニーフェと双子がこのことに関して徹底的に相容れないことは、すでにわかっていた。頂点の責任と自覚を嫌と言うほど知ってもなお、それを望んだ彼女だ。双子の態度は甘ったれ以外の何ものでもないに違いない。
まあでも、王になるのに一人一人違う理由があってもいいはずだ。
「それについては、これからに期待していてください」
「何にせよ、決まって結構なことだわ。うちの懸念事項も相談するまでもなく片づいたようだし、心おきなくあなたの王太子認定を祝えるというものよ」
「………それは嫌味ですか」
「ええ、そうよ」
涼しい顔でそう言ったイルニーフェに、アメリアは無言で頭を抱えた。
「これに関しても、本当に申し訳ないと思っています………」
「謝るぐらいなら、呑んでほしいことがあるわ」
「なんですか?」
さらりとした調子でアメリアはその後を続けた。
「わたしの独断でよければ、向こう三十年ほどの関税優遇と優先買い取り、その他ありとあらゆる外交上の便宜をはかりましょう」
「五十年よ」
「わかりました。五十年。長いですね」
「あと五十年のうちに、マラードはセイルーンから独立するわ。便宜はそのときまででかまわない」
まるで明日の天気を話すような口調だった。
「ええ、わかりました。わたしの次にも言い含めておきましょう―――連合諸国に?」
「それはそのときの状況次第ね。できるならクーデルアを併呑してしまいたいんだけど………」
「その条件は呑めません」
「わかっているわ。あたしも戦争は嫌い。死ぬほど予算を食ううえに、誰かが死ぬわ」
「国家間の均衡が崩れます。マラードは沿岸諸国連合の火種なんです」
「ひどい言われようね」
イルニーフェは肩を軽くすくめたが、反論はしなかった。
仮にクーデルアを併呑したとすると、当然ながら沿岸諸国連合の均衡が崩れる。強大化したマラードを周辺諸国は警戒するだろうし、併呑に野心を刺激された他国同士で新たな戦乱が勃発するかもしれない。連合が崩壊する危険性がある。そうすると、いままで無関心を装ってきたエルメキアとライゼールが混乱につけこんで、結束の乱れた沿岸諸国連合に食指を伸ばしてくるだろう。二大国のどちらが動いても、その両国にはさまれたセイルーンを含め、残りの一国を巻きこまずにはいられない。
そしてエルメキア、セイルーン、ライゼールが動いた場合、下手をすると半島内の他の国も動く。
これらは事態がすべて最悪の方向に転がったときの話だが、マラードがクーデルアを併呑しただけでそれだけの影響を及ぼす可能性があるのだ。
「とりあえず国力を強化するわ。関税優遇と優先買い取りの他に、人材の招聘に対する協力を要請するわ。どんな条件下だろうと誰もつけいる隙がないくらい、鮮やかに見事に独立させてみせる」
アメリアは微笑した。
「お手並み拝見します」
「どこの国のせいだと思っているのかしら」
そう言ったイルニーフェの口調はこのうえもなく冷ややかだったが、不意に大きな溜め息をつくと顔に手をあてた。
顔色の悪さに、アメリアは不安げにその顔を覗きこむ。
「だいじょうぶですか? やっぱりマラードに迎えの使者を―――」
「冗談じゃないわよ!」
イルニーフェが急に顔をあげたため、アメリアは危うく額をぶつけるところだった。
「あたしは、あなたの王太子継承の式典に参列するためにここに来たのよ。帰ってどうするというの」
「参列するんですか !?」
「当たり前でしょう!」
仰天したアメリアにきっぱりと言ったのち、イルニーフェは貧血を起こしたのか枕に沈みこんだ。目の光だけは変わっていないが、やはりどう見ても顔色が悪い。
「あのですね。本当ならあなた、二、三ヶ月はゆっくり静養してないといけないんですよ?」
「それこそ冗談じゃないわよ」
話にならないとばかりに言い切ったイルニーフェに、思わずアメリアはくすりと笑っていた。イルニーフェの眉間に皺が寄る。
「………何を笑っているの、気持ちの悪い」
「失礼ですねぇ」
笑いながら、アメリアはにこにことイルニーフェを見下ろした。
「あなたと初めて会ったあのときみたいだなぁと思っただけですよ。あのときもとんでもない大怪我をしてましたよね」
イルニーフェは目を見張ると、何とも言えない表情でアメリアを睨んだ。
「あなたはあのとき、あたしを死刑にしなかったわ」
「ええ」
「恩を仇で返すようで申し訳ないけれど、あたしはこれからセイルーンの顔に泥を塗るわ。五十年かけて」
苦笑混じりにアメリアは首をふる。
「どうぞ、やりたいようにやってください。わたしは言いました。あなたをセイルーンからの手綱として嫁がせたつもりはないと」
「ええ、覚えているわ」
イルニーフェは目を閉じた。黒い髪に縁取られたその顔は、あのときの十二の少女の面影をまだ残している。
「あたしはまだどうしようもない子どもだった。あたしはあなたに喧嘩を売って、あなたに救われた。あなたの傍にいて、あなたを助けたし、あなたに助けられた。そして、あなたのおかげでセイルーンの名前を背負って、マラードに行くことになった」
「あのう………もしかしてまだ怒ってます?」
「少しね」
情けなさそうな口調で尋ねたアメリアに、イルニーフェは軽く笑った。
「それでいいと受け入れたのはあたしよ。あたしはあたしの意志でここまで来たけれど、歩む先を示したのは、あなたよ。アメリア=ウィル=テスラ=セイルーン」
「わたしはやりたいことをやっただけです」
「知ってるわ。あなたはいつだってそうだった」
口調は穏やかだったが、きつい印象を与える挑むようないつもの目をしていた。
リナに少し似ている。
そう思い、アメリアは微かに笑った。
イルニーフェも笑ったが、それは別の何かに意識をとられての笑いだった。
「………このあたしが『セイルーン』なんだものね。何年経っても笑えてくるわ」
「イルニーフェ?」
首を傾げたアメリアに、イルニーフェは話の流れとは関係のなさそうなことを口にした。
「セイルーンは、一応あたしの生まれ故郷になるわ」
いまはもう存在しないシージェ領の小さな町がその故郷だった。聖王都よりもゼフィーリアのほうに近い辺境の地方だった。町はまだあるが、シージェと名の付く所領はすでにこの世には存在しない。
「生まれた町も姉さんのお墓も、みんなセイルーンの国内にあるわ。生まれてから十八年間ずっと、この国から一歩も外に出ずに過ごしてきた」
アメリアを見つめるイルニーフェの双眸は黒光りする鋼のようだ。ふとその光がやわらぎ、表情が悪びれないさっぱりしたものになる。
「でも不思議なことに、これっぽっちも愛着がないのよ。悪いけれど」
「そういうことを統治者の前ではっきり言わないでください。めげるじゃないですか」
憮然とした顔でアメリアが唸ると、イルニーフェは屈託なく笑った。
「嫌いなわけじゃないわ。あなたは好きよ、アメリア王女。ただ、あたしは周囲が思っているよりは、あの国とリーデが好きなのよ」
笑みをおさめると、イルニーフェはいっそ素っ気ないほどの口調で静かに告げた。
「あたしはあの国で生きて、あの国で死ぬわ。薔薇と真鴨の紋章をいただく、森と丘のあの国でね」
緩やかに確実に時は経ち、変わるものは変わるし、変わらないものは変わらない。
アメリアもイルニーフェも、その移りゆく時間をそれぞれに愛していた。
窓の外では夏の空が目に染みるように青かった。