Third birthday 【Ultra soul】 エピローグ・セイルーン〔2〕
斜陽の美しい露台で、二人は手すりにもたれかかって空を見あげていた。ちかりと星が瞬き、ひとつふたつとその数を増やしていく。
「考えてみれば、セイルーンから外に出たことはなかったな」
「そうですね。ティルがいましたから」
二人とも、旅から帰ってきたティルトの話を聞く度に、いつも一緒にそこに行ったような気になっていた。自分たちの代わりにティルトが行ってきてくれればそれでよかった。
だから、改めて自分たちの行動半径がおそろしく狭かったことに気づく。
「母さまは………」
ユレイアが呆れたように嘆息した。
「前からムチャクチャな人だとは思っていたけど、こんなにムチャクチャだとは思わなかった」
二人は生まれたときからその母親に接しているし、周りも母親の方針に合わせて二人の教育にあたっていたから、小さい頃は何もおかしいとは思わなかった。
しかし噂話というものはどんなに気をつけていても耳に飛びこんでくるものだし、それに何より、前宮廷大臣と現在の宮廷大臣が二人を見るたびに目を潤ませてよろよろと泣くのである。長じてくるにつれ二人にも、だんだんと母親のムチャさ加減が飲みこめてきた。
数年前にカルマート公国の公女が大使としてセイルーンを訪れたことがあるが、あまりにも自分たちと違うので二人は驚いたのだ。城下のお祭りに行ったこともないし、魔法を習ったこともないという。焼き栗が銅貨何枚で買えるのかも知らないし、土をいじって花や野菜を育てたこともないという。だいたい、もう結婚する相手が決まっていて、その相手も貴族だというのだ。
自分たちの父親は貴族の出身ではないらしい。そして既に亡くなっている祖母もそうだという。
だから二人は王侯貴族と平民はごく普通に結婚できるものだと思いこんでいた。
どうやらそれは多大なる間違いらしい。
自分たちには姉同然の人物がいる。遊び相手の同じ歳の子どももいる。この二人は姉弟だが、共に何の身分も持っていない。その二人の両親もだ。どうやら少しばかり有名人で、セイルーンの王国自体がこの二人に絶大なる借りがあるらしいが、それでも身分を聞けばあの家族はけろりとした顔で「平民」と答えるだろう。
ところが平民の子どもと頻繁に会って一緒に遊ぶというのも、どうやらかなりあり得ないことらしい。
さんざん、変だ、おかしい、あり得ない、とその公女から言われ、さすがに疑問を抱いた二人はリナに聞いてみた。母親に聞かなかったのは、忙しそうだったせいもあるが、何となく言いだしづらかったのだ。リナならあちこち旅をしてまわっているし、色々な王族を知っているに違いないと思ったせいもある。
リナは茶目っ気たっぷりの笑顔で逆に双子に尋ね返した。
「あんたたちはいま自分たちがやっていることは変だと思う?」
きょとんとした双子にリナは言った。
「お祭りに行って焼き栗にお金を払うことは変かどうかってことよ。品物に対して、それに釣り合うだけの価値のある代わりのものを渡して手に入れるということは変なこと? どうなのそこらへん」
「それは……当たり前です」
「ほかの人だってそうしてるじゃないですか。お金をはらわずに持っていくほうが変です。それってドロボウじゃないですか」
「そうよ」
リナは頷いた。
「あんたたちがやってることは当たり前のこと。少なくともこのセイルーンに住む人のほとんどがお金を払ってものを買ってるわね。同じセイルーンに住んでいる王族のあんたたちが町の人と同じことをやったって別におかしくないわよ。土いじりも同じこと。農家のおじさんだって、あんたたちと同じように―――まあ、あんたたちより何倍も大変だけど―――土をいじって麦やら何やら育ててるんだから。あんたたちが同じことをしたって別にいいじゃない。知らないより知ってるほうがいいに決まってんだから」
何だか違うことを言われているような気がしたが、幼い二人に反論などは到底無理である。よくわからないうちに納得してしまった。とりあえず変ではないらしい。
だからアセリアは次の質問に移った。
「父さまと母さまみたいなのはおかしいんですか?」
リナが顔をしかめる。
「アセリア、あんたティルみたいよ」
何が言いたいのかさっぱりわからないと言外に言われて、アセリアとユレイアは慌てて二人がかりで祖父母と両親の結婚―――つまり王族と平民という組み合わせは一般的に見ておかしいことなのかどうか問い直した。
「ものすごく変よ」
きっぱりリナは言い切った。
何もそこまで反論の余地もないくらい言い切らずともいいだろうというぐらい、にべもない口調だった。
「変だけど、アメリアもゼルも、変を承知で結婚したのよ。フィルさんもね」
双子は目をまん丸にしたまま沈黙していたが、やがてユレイアがおそるおそる尋ねてきた。
「それって父上も母上も、お祖父さまも変な人ということになりませんか………?」
リナは盛大に吹き出した。よっぽどおかしかったらしく、しばらく笑っていた。
「そうね。そうかも」
祖父母両親共に変人だと言われ、何とも言えない顔をしている二人に、その変人と長い付き合いを続けている魔道士の女性は笑いながら言った。
「別にいいじゃない。ゼルはアメリアが好きだったし、アメリアもゼルが好きだった。だから結婚した。このこと自体は別にぜんぜん変なことじゃないでしょ?」
リナは二人に向かって二人の両親のことを話すときでも、ごく普通に名前を呼んでいた。『あんたたちの父さん母さん』とは滅多に言わなかった。
どうやらこれも珍しいことらしいと、二人はうすうす感づいている。王宮の人間はたいてい『あなたさまたちのお母さま』だの『殿下がたのお父上』などと言うのだ。
そして両親も双子との会話で互いのことを話すとき、同じように名前で読んだ。決して子どもの自分たちに合わせない。
アセリアが妙に真剣な顔で言った。
「変だけど、変じゃないんですね?」
ティルト並に意味の通らない言葉だったが、リナは笑いをひっこめると頷いた。
「あんたたちも知っている通り、アメリアはセイルーンの王女様よ。おそらく次の王様になるでしょうね。立派な王族。王族だからという理由でアメリアを見ると、ゼルと結婚したのはそりゃ変よ。でも、アメリアは女の人であんたたちの母親よ。女の人が好きな人と結婚したいと思うのは当たり前のことでしょ?…………自分で言っててナンだけど、こっ恥ずかしいわね」
最後のあたりは苦笑混じりだった。
「要は見方の問題。色んな見方したほうがいいわよ」
もっともだと思ったので、双子は素直に頷いた。
それから注意して見てみれば、母親のやることはムチャが多いが、他の視点から見てみるとそれほどでもない。
が、しかし、それでも端から見ればメチャクチャやっていることに違いはなかった。
今回のこれは極めつけである。
二人揃って王宮から叩き出される日もそう遠くない。
溜め息をついているユレイアの隣りで、アセリアは手すりに頬杖をついた。
室内に続く硝子戸の向こうから人の話し声が聞こえてきたのはそのときだった。
どきりとして、思わず意味もなく手をとりあってしまう。
本来ならここは双子には立ち入り禁止の場所なのだ。母親の執務室の隣りの隣りにある部屋で、空き部屋なのをいいことに勝手に入りこんでいるが、いわゆる政治区画で子どもが入ってきてはいけないのである。
あたふたしながら二人して呪文を唱えると、露台の途中まで張りだした庇の上まで浮かびあがった。それでもまだ角度によっては見つかってしまうため、アセリアがユレイアを強引に引き倒して、傾斜の緩い屋根の上に寝転がる。
ほぼ同時に露台の硝子戸が開く音がした。
「にしてもリナ、クーンはどうしたんです」
双子の耳に聞き慣れた声が飛びこんできた。
アセリアとユレイアは顔を見合わせる。これでは降りるに降りられない。
「知らない。あたしがこっち来るときにはまだ帰ってなかったわよ。ガウリイのあの顔ったら………っ!」
あとに爆笑が続いた。
そのリナの笑い声を聞きながら、ユレイアはそっと傍らの相手に耳打ちした。
「クーン姉上が連れてきたっていう人は、クーン姉上のその………よくわからないが将来を誓った殿方なのか?」
本人たちが聞いたら否定する以前に、どうしてそこまで話が跳ぶんだと目を剥きそうなことを尋ねたユレイアに、アセリアも小声で返事をした。
「姉さま、そんなこと一言も言ってませんでしたよ」
「じゃあ何でガウリイさんがどうこうという話になるんだ?」
「そんなことわたしに聞かれても知りませんよ」
怪訝そうなユレイアに、アセリアは少々憮然として答えた。
「リナは無関心ですね。普通、娘が男の人連れてきたら気になりません?」
「いやだって。その気ならそういうだろうし。リアが誰とどうしてようがリアがそれでいいんなら別にどうだっていいわよ」
不意に声音が変わった。
「それにね、親が子どもに見る夢ほど鬱陶しい代物ってないわよ。アメリア」
「………わかってます」
「ほんとに?」
「これ限りです」
リナが息を吐いたのが、双子にもわかった。
「良い王様って意外と簡単に作れるんですよ」
「急に何の話よ」
「国がまっとうに機能するだけの人畜無害な王様って、わりと簡単なんです。まっとうな教育をして、まっとうな常識を教えて、まっとうな帝王学を修めればいいんです。あとはそれなりの判断力とそれなりの思いやりがあればいい」
「………あんたね、それがどれだけ難しいことかわかってて言ってんの」
「やるべきことがわかっているという点じゃ簡単じゃないですか。生まれたときから将来王様になるのが当たり前だと教えこめば、それ以外の選択肢なんてでてきませんから」
「わざとやんなかったくせに」
「ええ。だって、嫌でしたから」
アセリアがユレイアの手をぎゅっと握る。知らない母の口調だった。娘の自分たちに話しかけるときとも、父に話しかけるときとも違う。
「たしかに夢を見ました。行きたいところに行っていいんだと、なりたいものになっていいんだと、知らないまま跡を継がせるなんて嫌だった。王様には誰もそんなことは最初から教えない」
「教えなかったほうが幸せだったかもよ?」
「それ本気で言ってます?」
「一般論」
「リナの口から一般論だなんて」
くすくすと笑い声が後に続いた。
「知ったうえで、行きたいところに行けなくて、それ以外なるものがない王様になるほうが大変よ。―――あんたみたいにね」
「だってわたし、先払いしてもらったんですもん。さんざん前借りしてメチャクチャやりましたから、多少は働かないといけないじゃないですか」
リナは呆れて吹き出したようだった。
「あんたにかかると王様がただの丁稚奉公に聞こえるわ」
「それ以外の何に聞こえます?」
悪戯っぽい母の声だった。
「もう少しね、馬鹿でいいんですよ。あの子たち」
「少なくとも、昔のあんたよりは利口よね」
「ええ。わたしは昔、馬鹿だったんですよ」
すました声音でそう言って、母親は続ける。
「うっかりリナなんかと知り合って成り行きで魔族にケンカを売って、冥王だの魔竜王だの果ては異界の魔王だの、そこで死んだらどうするんだっていうような無茶をしたじゃないですか。馬鹿じゃなきゃあんなことできません―――だけど、愚かにも死ぬ気がしなかった」
日はもう、すっかり落ちてしまった。夜空が視界一杯に広がっている。
いま声を聞いている母親の瞳の色をした空。
「あの頃のわたしは熱に浮かされたようにまっすぐで、果てしなくて、周りなんて全然見えてなくて、途中で死ぬなんて微塵も考えられなかった。リナ、あなたも」
「ま、ね」
苦笑めいた返事に応えて、晴れやかな声がした。
「ほんとに馬鹿でしたね。でも、もう少し賢い子どもでありたかったとは微塵も思わない」
その声が一転してほろ苦いものになった。
「まあ、だから―――夢を見たんですね」
「ま、夢を見てられるのもいまのうちだけどね」
リナがからりした口調でそう言った。
いつまでこんな大事な話を聞いていればいいのか双子には見当もつかない。
「アセリアもユレイアもそのうち好き勝手に人生歩んで、あんたやゼルの胃に穴をあけるでしょーよ」
「楽しみだわ―――」
深沈と光る星のような、静かで透明な声だった。
その後も話すだけ話しこんで、母親とリナが露台から去ってしまっても、双子は庇に寝転がったまま空を見あげていた。
なんだろう。
聞いてはいけない会話を聞いてしまった罪悪感と一緒にある、この何とも言えない妙な気持ちは。
夜空は星がきらめいて、双子の上に降りこぼれるようだ。
行きたいところに行っていい。
なりたいものになっていい。
知らなかった。それはとても怖いことだ。
アセリアは無理に大きく息を吸いこんでから、そして言った。
「ユレイアは、何になりたいですか」
「わからない。でも、さっき思いついた。旅先で歌を唱ってお金をもらってみたい」
「吟遊詩人ですね」
「ああ、そうだな。それから魔道ももっと勉強したい」
「サイラーグに行ってみたい。シルフィールさんは元気でしょうか」
「クリムゾンにも行きたいな」
「竜だって見てみたい」
「少し苦しいな」
「わたしもです。胸がどきどきする」
起きあがって、二人は背中合わせにもたれた。そして投げ出した手を繋ぐ。
自分たちの母親は星みたいだ。なんであんなにきらきらしているんだろう。自分たちにとっての母親が、アメリア=ウィル=テスラ=セイルーンという女性の属性のひとつであり全てではないということは知っている。聞かされた。言われた。でも実感できない。母親は母親だった。星みたいだとしか言えない。まだ、自分たちのなかの言葉が足りない。
「母さまって、わたしたちぐらいの歳には何やってたんでしょう」
「さっき、何だかとんでもないことを言っていたような気がする」
「どうやって父さまと出会ったのかしら」
「………いつか聞いてみようか」
背中越しにユレイアがくすくすと笑っているのがわかった。伝染したようにアセリアも笑いだす。
「ええ、いつか聞いてみましょう」
そして二人は一拍おいて、肺が空になるような溜め息を吐いた。
理由はわからないが、泣くのもいいかもしれないと思った。