Ria and Yuzuha's story:Third birthday【Ultra soul】 マラード編〔1〕

 セイルーン王宮の子ども部屋で、イルニーフェは本を読んでいた。
 子ども部屋には、部屋の主である双子のユレイアとアセリアの他に、彼女たちを訪ねてきた、リナ=インバースの娘であるリアがいて、いつも以上ににぎやかだった。
 もう一人、王宮に居を定めている精霊の合成獣の姿が見えなかったが、彼女(または彼)の居場所がはっきりしないのはいつものことで、そのうちひょっこり顔を出すやもしれなかった。
 イルニーフェの膝の上には彼女の手に余るような重厚な装丁の本が置かれている。頁は先ほどから全然すすんでいなかった。
 彼女が侍従長として仕える主であり、双子の母親でもあるアメリア王女はまだ執務から戻ってきていない。
 本来ならイルニーフェは、王女の傍に在っておのが職責を果たさなければならないのだが、ここ数ヶ月の間にまき起こったとある事情により、それが許されなかった。
 それどころか、その事情のおかげで王宮のどこにいても視線が彼女を追いかけ回すので、いまや安息の場所はこの子ども部屋しかない。
 そのため双子のお守りをしながら子ども部屋で本を読むのが、最近の彼女の日課だった。
 イルニーフェは本を読むのをやめて、顔をあげた。
 子供用の机が置かれている反対側には硝子をはめこんだ窓があり、そこにはうねる黒髪にとりかこまれた、線のきついおのれの顔が映っている。
 あどけない子どもの頬の輪郭を持っていた同じ顔を、かつてこの同じ窓に映したことを覚えている。
 変われば変わるものだ。
 もう、子どもではない。
 そんなことなど、自分でよくわかっている。
 だいたい自分が子どもなら、この騒動が持ち上がるはずはなかったのだ。
 つとめて考えないようにしている方向に思考が行ってしまい、イルニーフェが顔をしかめたときだった。
 不意に、幼い声が彼女を呼んだ。
「ニーフェあねうえ」
 窓から目を離し、声のしたほうに彼女は視線を巡らせた。
 かかとが沈むほどの毛足の長い絨毯の上にさらに綺麗な布を敷き、その上で双子が人形遊びをしている。その顔立ちは、どちらがどちらと区別をつけがたいほどよく似ていたが、目の色や髪の長さが微妙に違っているため、彼女に声をかけた相手を見間違うことはなかった。
「なにかしら。ユレイア」
 濃藍色の組紐で髪を軽くまとめた小さな少女が、にっこり笑って言った。
「これからも、あねうえってお呼びしてもいいですか」
「いいもなにもぜひそうしてちょうだい」
 イルニーフェは頭痛をこらえるような表情で答えたが、その答えに、今度は浅葱色の組紐を髪に編みこんだ同じ顔の少女が不思議そうに首を傾げた。
「でも、もうすぐ、ニーフェねえさまは、母さまと姉妹になるんですよね? だったら―――」
「あたしのことを叔母様だなんて呼んだら怒るわよ」
「もう怒ってますうぅ」
 とりつく島もないイルニーフェの言葉に、アセリアが情けなく呟いた。抱かれた猫がふみゃあとそれに唱和する。
「でもびっくりです」
 双子の人形遊びの相手をしていたリアが顔をあげてイルニーフェのほうを見た。真紅の瞳が輝く白い貌を淡い金髪で縁どった、目をみはるほどの綺麗なその容貌で、にっこりと笑う。
「リーデットさんと、イルニーフェさんが結婚するなんて思いませんでした」
「………………………………あたしも思わなかったわよ」
 前半の沈黙部分は果てしなく長かった。
「ニーフェあねうえがしんせきになるなんて、うれしいです」
「………………………………さすがにあたしも言葉がでてこない事態だわ」
 脱力するしかない事態だ。
 もうどうにでもしてくれ、と言いたくなる。
 イルニーフェは手にしていた本ごと、よりかかっていたクッションの上に沈みこんだ。
 双子とリアが興味深そうにこちらを見ている。
 眉間に皺を寄せて――この慶事にその表情はやめろと何度か注意されたが――イルニーフェは、こうなるに至った過去を反芻してみた。



 もともと彼女はセイルーンの一領主が、遊行のさいに町の娘に手をつけて生ませた私生児だった。
 認知以前の問題で、父親の方は手をつけた娘の顔さえ覚えていなかっただろう。
 イルニーフェ自身も覚えてほしいなどと思ったことは欠片もない。
 漁色が過ぎて、正妻のすさまじい嫉妬から家督騒動を引き起こし、それが原因でセイルーンの方からお家取り潰しをくらった人物である。認知などされていたら、まさに身の置き所のない身内の恥だったに違いない。
 彼女の母親は、そうした父親のいない事情を抱えた分だけの苦労をしながらイルニーフェを育ててくれたが、彼女が六歳のときにデーモンに襲われて死んでしまった。
 ちょうど半島規模で異常気象やデーモン勃発が相次いで、人心も浮き足だっていた世相のときのことだった。
 彼女のように親を喪くした者は少なくなかった。
 そういった子どもは、運が良ければ遠縁の者が引き取って育ててくれる。彼女の場合は、同じくの庶子の一人であるローゼがそれに名乗りをあげた。
 ここまではまだ、多少凹凸があるとはいえ、まだ人に話しても理解してもらえる人生だった。
 どこからか異母妹の存在を聞きつけ、引き取り手として名乗りをあげたローゼは、母親がロードの愛妾だったおかげで、きちんと父親から認知されていた。
 ローゼは、表向きはイルニーフェを遊び相手を兼ねた侍女で通し、異母妹だということを周囲には秘密にして彼女を育ててくれた。
 異母姉のことは心の底から愛していたし、彼女に引き取られたことは今でも幸運だったとイルニーフェは思っている。
 しかし、それ以外のことは歪んでいた。
 館の外ではロードの圧政が行われ、館の内では正妻による庶子の謀殺がくり返され、彼女が十二歳のときに、とうとうローゼもその毒牙にかかって死んだ。
 そのわずか三日後に、セイルーン王宮から監査を兼ねた使者が到着した。
 たった三日の差で、義姉は死ななくてもすんだかもしれないのだ。
 セイルーンの不手際を本気で憎悪したイルニーフェは、なかば死ぬことを覚悟して―――いま思い返すだに赤面ものだが――たった独りでセイルーンに刃を向けた。
 いくつかの偶然と事情が重なり、彼女が仕掛けた事件は想像以上に大きな代物となってセイルーンの屋台骨を揺るがしたわけだが、思い返すだに、自分は良くも悪くもつくづく子どもだったのだと思う。
 事件のなかで自分の身柄は二転三転し、最終的にはどういうわけか、その一件で前王エルドランの命を盾に脅迫した相手であるアメリア王女に気に入られ、女官として働きながら王立学院に通わせてもらい、卒業すると侍従長にまで取り立ててもらった。
 ここまでくると、物語の設定としても話が奇抜すぎて現実味に欠ける。ましてやこれが実際の話だとは、誰に話しても信じてもらえまい。
 だが、これにはさらに続きがあった。
 イルニーフェ自身、続きがあるとは思いも寄らなかった。
 彼女自身でさえ、まだ十八年しか生きていない自分の人生が、ちょっとどころでなく波瀾万丈だという自覚はあったのだ。
 このうえ、さらにどんでん返しがくるとは微塵も考えていなかった。
 セイルーンの王位継承者であるアメリア王女以外に、彼女が姉のように慕っているマラード公国の公女にも、イルニーフェはなぜか気に入られていた。
 セイルーンの属国であるマラード公国には、そのアセルス公女以外にもアメリア王女と同年のリーデット公子がいて、こちらも過去の事件のさいに知り合っていた。三ヶ月ほど一緒に旅をしたこともある。
 その彼に求婚された。
 求婚とは文字通り、婚姻を求められたということで、相手が世継ぎの公子である以上、つまるところ未来の公妃の座を提示されたのだった。
 常識とか慣例とかを相手が棚に放りあげて――しかもイルニーフェの身元保証人であるアメリア王女がそれに便乗してくれた――求婚してきたため、つい承諾してしまった。
 一生の不覚か、英断か、いまだにどうにも判断しかねる決断だった。
 しかし、こうして譲歩に譲歩を重ねて、二転三転どころか四転五転したあげく、最終的には一国の公妃になるのが自分の運命だったのだと受け入れたとしても、だ。
 この輿入れに、セイルーンの継承権保持者である身元保証人はとんでもない持参金をつけてくれたのである。
 イルニーフェは、もうすぐ名前が変わる予定だった。
 名前が変わると、彼女はイルニーフェ=テュスト=ローゼ=セイルーンと呼ばれることになる。
 もちろん、ただの侍従長に名字がごてごてと付くことも、あろうことかセイルーンの名前が入ることもない。
 思い返すたびに眩暈がしてくる。
 常日頃から型破りだと思っていたアメリア王女だったが、これは極めつけだった。
 何かの悪い冗談のようだが、これからイルニーフェは、継承権はないものの、まぎれもない三人目のセイルーン王女として属国に降嫁する予定なのである。



 何度目かわからないため息をイルニーフェがついていると、人形遊びにも飽きたらしい双子が道具類を片づけながら、リアに何やら問うているのが横目に入った。
「クーンねえさまは、どうしてドレスを着ないんですか?」
 問われたリアは返答に窮した表情で、救いを求めるようにイルニーフェのほうを見た。
 彼女がいま着ているのは、淡い色合いの膝丈の娘服に自分で右側に大きなスリットを入れたもので、その下から柔らかな細身のズボンを履いている。王宮内なので帯剣してはいないが、動きにあわせて裾が舞いあがるのを押さえるために、幅広の剣帯を装飾も兼ねて腰にひっかけるようにして斜めに巻いていた。
 もちろん、この格好は好みだ。
 しかしリアとしては、これが単に彼女個人の好みの問題として訊かれていることなのか、はたまた、もっと重要で、双子たちの置かれた環境に起因するものなのか判断できなかったのである。
 イルニーフェはリアの視線を受けて、字面だけ追っていた本を閉じた。
 回答者がリアからイルニーフェに移動したことを知って、双子の視線がこちらを向く。
「じゃあ、どうしてあなたたちはドレスを着ているの」
 質問に質問を返されて、アセリアとユレイアは微妙に色の違う互いの瞳を見交わした。
 アセリアが上目遣いで答える。
「わたしたちが今日はどんなのを着たいっていわない日は、ドレスが用意されてます………」
 答えになっていなかったが、イルニーフェは軽く微笑んだ。
「じゃあ、どうしてドレスが用意されているのかしら」
「………私たちがお姫さまだから?」
「そうね。アセリアとユレイアは王族だから綺麗なドレスを用意してもらえるのね。それは正しいわ。ではなぜ王族だとドレスを着られるのかしら」
 双子は考えこんだ。幼いなりに真剣な表情をしている。イルニーフェの問いに容赦がないからだったが、もともとわからないことはわからないなりに、きちんと考えるようしつけられてもいた。
 ようやっとユレイアのほうが口を開いた。
「あの………ニーフェあねうえ」
「何かしら」
「こんなことあたっているとは思わないんですけど………」
「言ってごらんなさい」
「え、えらいから………?」
 イルニーフェはますます微笑んだ。
「間違ってはいないわね」
 双子がほっとした表情を見せる。リアはこれで終わらないような気がして、イルニーフェを見た。
「ではどうして王族はえらいのかしら」
「ニーフェねえさまぁ」
 アセリアが音をあげたように名を呼んだが、イルニーフェはにっこり笑って言った。
「考えなさい。最初に質問したのはアセリアよ」
 ユレイアは口を引き結んで考えこんでいる。
 リアはその光景を見守りながら、双子たちの母親であるアメリア王女の言葉を思い出していた。
(帝王学はほんとはイルニーフェに教えてもらいたいんですけどね)
「わからないなら宿題ね」
 イルニーフェは本を手に立ち上がった。
 そろそろ日が暮れる。双子たちは夕食の時間だ。
「あの………ニーフェあねうえ」
「なに、ユレイア。答えがわかったのかしら?」
「いいえ。そうじゃないんですが………王さまって、ひとりですよね」
 イルニーフェの表情に、言語化しえない微妙な色彩がたゆたった。
「普通はそうね」
「私とアセリア、どっちがそうなるんですか?」
 首をかしげての問いに、イルニーフェは笑った。
「さあ。どちらかしらね。それは二人で決めなさい」
「二人がいいです」
「却下よ」
 間髪入れずに即答されて、双子は口をへの字に曲げた。
「どうしてですか?」
「それもまた自分たちで考えなさい。宿題が二つね」
 イルニーフェはそう言って、窓の外を見た。
 彼女は王ではない。だが、その権力に近いところにいることは事実だった。近いうちにその距離が一段と縮まることも知っていた。
 絹にくるまれて生活する資格が自分にあるのか否か、彼女はいまだに判断し得なかったが、そのことを容認するのは、彼女でも彼女に求婚したリーデットでもなく、嫁ぎ先のマラードの民だった。