Ria and Yuzuha's story:Third birthday【Ultra soul】 リア編〔3〕
翌朝、まだ菫色の薄闇がかっている時分に、リアたちは村を出た。
こんな時間に村をうろうろすると怪しさ極まりないが、事前に言っておいたおかげで、ご丁寧に、来たときとは反対側の村の入り口まで見送ってもらえた。
「わざわざ見送ってくださってありがとう」
リアがにっこり笑ってそういうと、相手の兵士は暗いなかでもわかるほど真っ赤になったあげく、リアたちの道中の無事を祈ってくれた。
兵士たちに声が届かないところまで離れると、リアは赤い舌を思いきりだした。
「ぜーったいあとで確かめにきてやるから」
「またそんな………」
ゼフィアが呆れてそう言う間にも、どんどんとあたりはリアたちが向かう方向から明るくなっていく。
丘とも呼べない低い起伏を街道にそって登りきったときだった。
さあっと音をたてそうなほど急激に、あたりが金色に払拭された。
布越しにでもそれがわかったのか、ゼフィアが手を掲げて目を庇う。リアはまぶしさに目をすがめた。ユズハだけが平然とした様子でぐるりとあたりを見回した。
低い起伏だと思ったのはラルティーグ側からだけの話で、セイルーン側からすると、リアたちがいる場所は小高い丘の上だった。眼下に展望が広がっている。
リアは後ろをふりむいた。
村の背後に広がる山裾に金色が音もなくはいあがり、山脈の陰影を浮き立たせている。村は湖の照り返しを受けてまぶしくかすんだ。その遙か先の西の空は、まだ夜の色を残して深い藍色をしている。
正面に向きなおって、リアはささやいた。
「ゼフィ………、セイルーンが見える」
行く先に広がる平原の真ん中に、手のひらにすっぽりおさまりそうな小さな白い塊が見えた。平原をぬって彼方に消えていく放射状の白い線は、セイルーンに集っている街道に違いなかった。リアたちの足下にある道も、あのうちのどれかに続いているのだろう。
セイルーンから左手のほうに視線を移すと、遠くゼフィーリアとの国境になっている山脈の稜線が、朝日を浴びて黒に近い緑にくっきりと浮かびあがっていた。リアたちの背後にある大湖から流れる川が、ゆるやかに蛇行して彼方へと消えている。ところどころ、平原の海に浮かぶ島のように森や街があった。
それらすべてが朝の金と薔薇色に染まりセイルーンは、朱金の水盤。
リアはひとつまばたきをした。
一瞬、セイルーンが本当に水をたたえた盤のように揺らいで見えたのだ。目を凝らしてみたが、すぐにそれは消えたため、光の加減だろうと納得する。
太陽が濃い赤みを帯びてあたりを薔薇色にしていたのは、ほんのわずかの時間だった。
すぐに白みが強くなり、白金色の光線が世界を貫いて、世界の隅々まで照らしだす。
朱金の雲が、まだ暗い西の菫色の空のほうに残っている。
潤んだ朝の風が吹いた。風が渡るたびに、眼下の麦や草に波が奔る。
髪が風にからまるようにして流れ、彼女は髪に手をやった。
なんて、幸せな。
世界が祝福される朝。
「ゼフィ、もう一度あなたとここに来るわ」
「クーン?」
「絶対、目の治ったあなたと一緒にもう一度ここに来る」
「空約束はしないでください」
ゼフィアがそっと囁いた。
「けれど。そのことを願ってもいいですか」
リアは彼を見ずに呟く。
「許可なんて。あたしが出すものじゃない。自分自身が許すもの」
「知っています。だけど、望むことは怖い」
「わかるけど。叶わないなんて、あきらめないで。あたしは、あきらめない」
ユズハが先に丘を降りはじめた。
それを見送ってから―――どうせそのうち転んで、下りているのか転がっているのかわからなくなるのだろうが―――リアはゼフィアに向き直った。
曙色の光をまとって反射する銀色の髪が、風にたわんで緩やかに踊る。
あまりに綺麗で、胸がしめつけられた。
「行こう、ゼフィ。もしあなたの目が治らなくても、あたしがあなたの目になるよ」
「クーン―――」
ただ名前しか言えなかった。
口をついて出そうになった言葉はあった。
けれど、きっとこれは枷にしかならない。
だから言わない。
人が言葉を発するということ。そして、それを受け取るということ。
音に介されて伝わるその心がどれほど相手に響くのか、言った本人には決してわからない。その、言霊。
だから、言わない。
そこまで勝手にはなれない。
抑えることには慣れている。在ればただそれでいいと騙せるくらいに。
どれほど、「決定的」だったのかは。
ずっと、黙っている。
「クーン………」
だから、ただ名前だけを呟いた。
音は風にさらわれて散っていく。
その風が渡る音。潮騒にも似た音だ。
眼下に広がっているはずなのは、セイルーン。
過去の記憶から引き出されたその風景が、確かにこの瞬間と重なった。
朝焼けと共に丘を降り、街道を歩き続けて日が沈む頃。
真っ赤な残光のなか、ユズハが不意に立ち止まった。
「ユズハ?」
リアは怪訝な顔で自分も立ち止まり、ゼフィアの腕に触れて、彼も立ち止まるようにと合図をした。
ユズハの返事はない。
その小さな背中をこちらに向けて、白亜の街に顔を向けたまま動かない。
「ユズハ、こんなところで止まってどうするの」
リアはユズハ越しに街道の先へと視線を奔らせた。もう少し行けば旅の小屋がある。夜にはセイルーンの外壁門が閉まってしまうため、運悪く夜に到着した旅人や、閉め出された人々を一泊させるための無人の施設だ。
もうすぐセイルーンの門は閉まる。今日中にたどりつくことは無理だと予めわかっていたため、リアは小屋の利用を考えていたのだが、立ち止まったユズハが動かなければどうしようもない。
だらりと下ろしたままだったユズハの指先が微かにぴくりと動いたとき、リアも気づいた。
不自然に風がやんで、一瞬後、今度はリアたちに向かって逆向きに吹いた。
「風が………」
視力の代わりに他の感覚が鋭くなっているゼフィアが呟く。
風のなかに湿気や匂いとは違う、表現できない何かが混じっていた。
圧迫感を感じたが、すぐにそれはユズハからではないことがわかった。遠くに見える白い壁がひとまわり膨張したような気がした。
―――セイルーン。
「ダメっ!」
突然、ユズハがそう叫んで走り出した。
「ユズハっ!?」
愕然としたリアは後を追おうとして、ゼフィアのことを思いだして躊躇した。
「ごめん、ここで待ってて」
「どうぞ遠慮なく置いていってください」
マントをふわりと絡ませるように手渡すと、リアは全力で後を追いはじめた。
風に混じる予感はますます強くなっている。
土を蹴る乱れた足音が二つ。
どういうわけかユズハは宙を滑空しなかった。怪訝に思って、もしかして『しない』のではなく『できない』のではないかと気づいた。
それがユズハが変わったせいなのか、それとも目の前のセイルーンのせいなのかはわからない。
―――だめだ。
何の根拠もなくそう直感した。
止めなければならない。行かせてはいけない。
「ユズハ、待ちなさい!」
だいぶ先行していた小さな背中が転んで倒れた。
その隙にようやくに追いついて、リアは助け起こそうと手を伸ばす。
「ユズハ―――」
「ゆあ、ダメ!」
「!?」
聞いたこともない切迫したその声に、思わず伸ばしかけていたその手が止まる。
しかも―――『ゆあ』?
圧迫感は耐え難くなった。
思わずセイルーンをふり仰ぐ。
気の箍が外れそうになった寸前、ユズハがもがくように両手をついて体を起こし、大地を蹴った。
引き絞られた弦のように放たれる叫び。
「ダメ、ゆあッ! せあがまだ、ソコにいるッッ!!」
空白。
次の瞬間、そこには乾いた街道の土しかなかった。
主を失った帽子が、重力を思いだしたかのように、ぱさりと落ちた。
リアは息を呑んで周囲を見渡した。ユズハがたったいままでここにいたことなど嘘のように、あたりは何も変わらない。
風は穏やかに吹いている。さやぐ草の音。
朱色の残光。
―――もし消えるときも、あんたはみんなに黙って逝くの。
眩暈がした。
自失していたのはリアにとっては一瞬だったが、実際にはどれくらい経っていたのかわからない。
近づいてくる足音で、己を取り戻す。
「ユズハはどうしたんです」
真剣に案じているらしい声音に後ろをふり向いて、その名を呼ぶ。
「ゼフィ」
「気配がしません。足音も。追いつけなかったんですか? 小さな子の足でそう遠くまでいけるはずがない」
リアは大きく息を吸って、頭をふった。
一瞬でも本当に消えたのかと錯覚してしまった自分が馬鹿だった。
「ここにはもういない」
「では、どこへ」
「それは―――」
消える直前のユズハの言葉。
『ゆあ』はユレイア。『せあ』はアセリア。
目の前に広がる白亜の都の王女たち。彼女にとって妹同然の双子の名。
ユズハが消える直前、セイルーンから魔力が爆発的に噴出し、一瞬で収まった。
(まさか)
不意に思い当たったことに自然表情がけわしくなった。
無意識にその手が剣の柄にかかる。
ざわりと彼女を包んだ気の正体に、ゼフィアが小さく息を呑んだ。
(あの魔族………!)
黒衣の魔族はこう言った。
―――なるべく早くお越しください。白亜の六紡星の街へ。
―――そこの合成獣と共に。
まさか。
本当に招待されていたのは―――。
リアはようやくユズハの帽子を拾いあげた。ユズハにとっては何代目かの耳覆いのある帽子だ。赤褐色の地に赤い刺繍とビーズの飾りがあるものだ。
無言のまま丁寧に埃を払い、ゼフィアからマントを受け取ると、リアはそのままその手をとった。
「行かなきゃ」
「あなたは、どこへ」
問われるままに、リアは真紅の視線を投げた。
その先には白い城壁。
「ユズハもあたしも、セイルーンへ」
そこが、旅の終着点。