Ria and Yuzuha's story:Third birthday【Ultra soul】 収束編〔1〕

 はたり、と空気が静止したような気がした。
 音という音が、聖堂から消える。
 耳が痛い。静かすぎて耳が痛い。
 赤の竜神像が暗くそびえ立っている。
「こ、ここから………」
 何もないのに怯えている自分を叱咤した。
 ここから、出ないと。
 どこでもいいから、ここ以外の場所へ。
 そう思って、一歩を踏み出した瞬間、それは来た。
「――――ッ !? 」
 全ての位相がずれたような気がした。石の層、空気の層、空の層、肉体の層に精神の層。より高位から低位まで。薄紙のように重なったありとあらゆる階層を、一本の棒が貫き通して穴を空けたような。
 音波だ。凪いだ水面に一滴の水が落ちて描かれる同心円の波紋。
 そんな錯覚を覚えた。
 踏み出したその爪先が、石床を踏むことはなかった。
 凄まじい速度で、中心から膨張するように広がり、そして集束する。
 溢れ出した魔力が少女を絡めとり、引きずりこんで収縮した。それは一瞬。衣の裾があおられたようにまきあがり、ひらめく途中でかき消えたのも、瞬きするほどの出来事。
 それだけだった。
 後には、当たり前に赤い西の空。暗さを増す聖堂。物言わぬ赤の竜神像。放射状に伸びている回廊の向こうから、行き来する人の気配が微かに届く。
 埃がわずかに舞っている。
 誰もいない。
 ごく日常的に繰り返される、聖堂の一日の終わり。



 竪琴の弦が音をたてて切れた。
 弾けた弦が指を打ち、じわりと赤くはれあがる。
 その痛みに我に返った。
「え………?」
 部屋は既に真っ暗だった。
 窓のあたりだけがぼんやりと明るく、カーテンだけが白く揺れる。
 ―――自分は何をやっていた?
 以前からずっと頭のなかで思い描いていた旋律を、夢中で弾いていた。
 おかげで、さっきまで最悪だった気分は妙にさっぱりとし、なんとか回復しつつある。
 けれど、最後に声が………聞こえたような。
 聞こえるはずのない、いるはずのない声が。
 自分と、もう一人の名前を。
 急に不安になった。
 憑き物が落ちたような爽快さは跡形もなくなくなっていた。代わりに、のしかかるものがある。
 立ちあがった拍子に椅子が床に転がった。やけに大きく響いて癇に障る。
 流されたままの黒髪が風をはらみ、主の動きに従った。
 扉は開け放たれ、理由のない焦りと不安が、双子の片方の名を繰り返し呼ばせた。
 明かりの魔法が等間隔にともり、それでもそこかしこに払いきれない闇のわだかまる王宮。
 呼ぶ声に返ってくるものはない。
 駆けながら、もう一度、自分に問うた。
 自分は何をしていた?
 そして―――いったい何を、してしまった?



 セイルーン王宮に続く大陸橋を駆け抜ける姿があった。
 沈みかけた夕陽に照らされ、遙か下の家並みにその影が長くぼやけて落ちる。
 激しくひるがえる朱金の髪に、うるさく鳴る腰の剣。
 馬車しか通行を許されていない大陸橋に、あるはずのない人の影。
 魔法で翔んだほうが早いにもかかわらず、己の足で駆けていく。
 使えなかった。
 一度使おうと試みた翔封界レイ・ウイングは、速度と高度の反比例の関係に著しく狂いが生じて制御が効かず、危うく屋根に激突するところだった。
 いまは落ち着きを取り戻しているが、街に入った直後は、馬や犬といった獣たちの怯えがひどかった。
 人間よりも遙かに敏感な動物と、偶然そのとき魔法を使っていた魔道士、一部の勘の鋭い街の者たちは気づいている。
 一瞬だけ、何かの気のせいのように訪れた瞬間を。
 街の喧噪がその瞬間だけ途絶えた。
 しかし次の瞬間には何事もなく、いつもの夕暮れが姿を見せていたため、多くの者は首を傾げながらも日々の仕事に戻った。
 気づいたのは、ほんの一部。
 巻きこまれたのは、さらにそれよりも少数。
 そして、何が起こったのかを知っていたのは、たった一人だけ。
 しかもそのたった一人は、人間ではない。
 走りながらも指が剣の柄を探り当て、きつくそれを握りしめた。
 この宴の招待主。
 返答次第では、ただではすまない。



 初めて飛びこんだ精神世界面アストラルサイドはひたすらわけのわからない世界だった。
 もっとも自分にとって、わけがわからないということは、そうたいしたことではない。
 精霊界に似てもいたが違っていたし、もはや精霊界すらも自分にとって相容れない世界となっていた。
 すべてが渦を巻き、同化しているかと思えば分離と融合を繰り返して弾け散る。どろどろと満ちているようでなにもない。一瞬前まで『在る』と思ったものがそこにはない。
 そのなかで個を保ち、揺らいでいるものが魔族なのだろう。『境界』と認識されるものにへばりついて、無数の星のように煌めいているのがヒトなのだろう。
 体の感覚など必要としない意識だけの世界。
 いままで生み出されてからこのかた、五感を持った器に拠って存在してきた自分にとって、ひどく勝手の違う世界で動きにくかった。
 移動したい。
 ゆるゆると融け崩れる周囲の流れがひときわ速くなる。押し戻されそうになって、とにかく抵抗した。大嫌いな水のなかのようで気に入らなかった。
 とにかく、行きたい。
 流れの向こう。先の『境界』に空いた渦が、目的地。
 不意に、笑みを含んだ思念が黒い泡のように弾けた。
(ようこそ。宴の主役はあなたです)
 いつか物質界で見た魔族のようだったが、無視する。
 初めから眼中になかった。
 それどころではない。
 初めて相対する世界の法則と必死に格闘しながら、物質界で言うところの『空間を渡ろうと』する。
 また笑う気配がした。
(どうぞ、こっちですよ)
 黒い力が背中を押した。背中のような気がしただけで、本当は背中なんてこの世界にはないことを知ってはいたが。
 不意に目の前が開け、水の中から飛び出したような感覚がした。己の魔力が物質界で肉体へと変換されていく。
 感覚が切りかわる。空気だ。肌に触れる空気の感触。
 世界が開け、途端に存在そのものを変質させかねない膨大な魔力が、自分の周囲に溢れかえっていた。
 物質界に溢れた魔力は器を欲しがる。
 すぐに自分の存在を保つ輪郭が浸食されはじめるのがわかった。
 そして、いま眼前にあるもうひとつの存在が、同じ目に遭っていることも。
 ためらいなく手を伸ばす。伸ばしながら、己を初めて炎以外のものに変化させた。
 守る。助ける。
 そのために、自分はここに来た。
 名を呼ぼうとして、声はでなかった。
 既に、自分は五官を持った人型ではなかったからだった。
(―――では、がんばってください)
 薄紙一枚隔てた精神世界面で、笑みを含んだ思念がささやいた。



 Ria and Yuzuha's story :Third birthday

        【Ultra soul】




 その一室を、恐ろしいほどの沈黙が支配していた。
 襲ったその感覚に、アメリアは思わず血の気がなくなるほど強く、肘掛けを握りしめていた。
「いまのは―――」
 まるで一瞬だけ風にあおられたような。体の中心を下から上に奔り抜けた感覚。
「魔力だわ。一瞬だけど、とんでもなく圧縮された魔力が………」
 リナの答えを受けて、ゼルガディスがうなずいた。
 まるで体の中を走査していかれたように、その瞬間だけ発された魔力。
 目を閉じたまま、ティルトが呟いた。
「気持ち悪いな。なんだかフタの上みたいだ」
「なるほど。わかりやすい例えだな」
「………また二人だけでわかってる。腹立つったら」
 真紅の瞳がいらだたしげに己の家族に向けられる。
 ティルトがぱちりと目を開く。蒼穹の色をした瞳が母親を見た。
「吹きこぼれてる鍋のフタの上にいるみたいだ。さっきのは、フタがちょっと開いただけみたいな気がする」
 部屋の中にいる面々のなかで、最も魔力に対して感覚の鈍いイルニーフェは、さっきの出来事を少し妙な間があったとしか感じなかった。
 そのため、周りの反応がかなり腑に落ちなかったが、それでも何かが起きたということはわかる。
 呆然と自失したような残りの者たちをイライラと眺め、肘掛けを強く叩いた。
「ちょっと! いったい何なのかしら。何かが起きたのならさっさと行動したらどうなの。魔法絡みのことならあなたたちの得意分野でしょう、アメリア=ウィル=テスラ=セイルーン! 規模と影響を調べて対策をたてなさい!」
 その叱咤に、止まっていた時間が動き出した。
 最初にゼルガディスが立ちあがった。アメリアも遅れて立ちあがる。
「困ったことに心当たりがあります。これはわたしの失態です」
「どういうことよ?」
 リナの問いに、アメリアは彼女らしかぬ仕草で髪をかきあげた。
 その様子はむしろ彼女がやる仕草というより、問いを発した人物のほうがよくやるもので、彼女がやると雰囲気も何もかも違って見えたが、それも一瞬のこと。
 かきあげた髪がさらりと崩れ、もとの位置に戻るころには、既にいつもの彼女のいつもの表情だった。
「もっと真剣に対策をこうずるべきでした。もっとも優先すべきことを後回しにするなんて、とうとう焼きが回りましたかね。まだ間に合うことを願いましょう」
 アメリアは親友をふり返った。
「リナ、力を貸してください」
「あたしがあんたの頼みを断ったことがあった?」
「まあわりと」
 沈黙したリナに、アメリアは彼女しか持ち得ぬ微笑を浮かべて、言い足した。
「でも、大事なときのお願いを一度も断らずにいてくれたことも、ちゃんと知ってますよ?」
「アンタね………」
「お願いします、リナ」
「………ったく。オッケー、いいわよ」
 二つ返事で快諾して、今度はリナがその髪をかきあげた。
「やれやれ、結局あたしたちはどういう境遇にあろうと騒動には困らないわけね」
「お前たちだけだ」
「勝手言ってなさい。この状況でよく自分は違うと言えるわね、ゼル?」
「お前たちが帰ってくるのを待っていたかのように、この騒動だ」
「でもおれたちが帰ってくる前から、それらしいことはあったんだろう? だったらやっぱりゼルもそうだよなぁ」
 緊張した状況下で交わされる、ある種呑気な両親たちのやり取りを、ティルトは面食らったように聞いていた。
 だが、すぐに生き生きとその目が輝く。
 打てば響くような、互いの力に対する念押しと、信頼。
 彼が生まれる前、こんなやり取りが事あるごとに両親たちの間で交わされていたのだ。
 純粋に、すごいと思った。
 イルニーフェは、少し気後れした。
 この四人が揃っているなかに、自分がいることがひどく場違いなことのような気がする。自分が持っているものと、彼らが持っているものは、あまりにも方向性が違うのだ。
 多少居心地が悪かったが、当の本人たちがそれを知ったら怒り出すに違いなかった。
 うらやましいと、少し思った。
「―――で、原因は何なのよ?」
 リナの問いに、アメリアは息を吸って吐いて、それから言った。
「このセイルーンの六紡星結界です。先日、異常が報告されていました」
「たしかに勘が鈍ってるよーね、アンタ」
「まったくです。平和ボケしましたかね」
 リナが目を細めて笑う。
「そーいうボケ方って、悪くないと思うわよ。ま、時々平和じゃなくなるときがあるってのが問題なんだけど」
 端然と椅子に腰掛けたままのイルニーフェが口をはさんだ。
「これで規模は確定したんじゃないかしら? 範囲は、白魔術都市セイルーン全域よ」
 ゼルガディスが顔をしかめた。
 執務はとりあえず全放棄だ。
 討伐隊が到着するまで、デーモンのほうはどうしようもない。調査報告はこっちが何もしなくても勝手にあがってくる。
「オリハルコンとデーモンの件は後だ。こっちのほうが一刻を争う」
 言われたイルニーフェがいきおいよく眉をはねあげた。
「いつあたしがオリハルコンを優先しろと言ったのかしら !? いい加減、馬鹿にしていると怒るわよ。そういう余計なところまで気が回るのだったら、さっさと動きなさい」
 椅子から立ちあがる気配も見せず、イルニーフェはアメリアへと視線を移した。
 己の分ぐらいわきまえている。
「あたしは勝手に部屋に戻っているわよ。お気遣いなく。できることがあったら呼んでちょうだい」
「頼みます」
「あなたからそう言われるのは悪い気分じゃないわね」
 イルニーフェは微かに笑った。
「じゃあ、ティルト。送ってもらえるかしら?」
「ええ !? なんでオレが? 」
「送っていったその足で、あなたはアセリアとユレイアの居場所を確認しておきなさい。ユレイアは聡いわよ・・・・
 アメリアがそこで初めてその事実に思い至ったらしく、顔色を変えてティルトを見た。
「お願いします。おみやげ渡しに行ってください」
「うわー、何だかそれって、オレのおみやげってものすごいヤな口実だ」
「頼む」
 ゼルガディスからも頼まれて、ティルトは口を尖らせた。
「いいけどオレ、ホントのこと言うぞ。嘘ついても、どうしてだかすぐバレるし」
「それは任せます。何とかしてください・・・・・・・・・
「うわー、またものすごいヤな頼まれ方した」
「ティールー」
 リナから名前を呼ばれ、ティルトは不承不承、包みを手に立ちあがった。
「おれたちも移動しよう。実際に確かめに行った方が早い。いまが小康状態なら、いまのうちに聖堂を封鎖して、誰も立ち入れないように―――」
 イルニーフェを残したその場の全員が動こうとしたそのとき、突然ノックもなく扉が開いた。
 いつも結っている髪はそのまま流され、走ってきたために乱れて肩にふりかかっている。その肩は上下して息はあがっており、目は妙に赤っぽく、顔は泣きそうだった。
 扉の両脇には、困惑した顔の衛兵が二人、立っている。
「ユレイア、どうし―――」
「父上、母上」
 ゼルガディスの言葉を遮ってそこまで言うと、ユレイアは切れた息を整えた。
 そこで初めてリナたちがその場にいることに気づいたようだが、挨拶する余裕もないらしく、切羽詰まった表情で尋ねた。
「アセリアがどこにいるかご存じありませんか?」
 その言葉に、アメリアとゼルガディスの表情が緊張したものになる。
「アセリアがどうした」
「いないんですか !? 」
「わかりません。ただ、姿が見えないのが気になって………さっきから探しているのにどこにもいないんです」
 アメリアの唇が微かにふるえた。
「聖堂には行ってみましたか?」
「せ、聖堂………?」
 思ってもみなかった場所を提示されて、ユレイアは激しくまばたいた。
 その様子に答えを知ったゼルガディスは、扉の外に身をひるがえそうとする娘を押しとどめると、また部屋のなかにいるリナたちをふり返った。
「ダメだ、お前は行くな。リナ、悪い。聖堂に行くついでにアセリアも―――」
「―――彼女なら、どこにもいませんよ」
 この場の誰の者でもない声。
 リナが鋭く舌打ちする。
 ティルトとガウリイがほぼに同時に、一点をふり向いた。
「色々考えたなかでも、最ッ悪の根源が出てきたわ」
 陽が沈み、暗い赤をわずかに残した夜空は室内に灯る明かりの反射で、もはやよく見えない。
 代わりに磨かれたガラス窓に映るのは、さっきまでこの場にいなかった存在の後ろ姿だ。
 黒ずくめの僧侶服に、切りそろえられた黒い髪。薄く光る紫闇の瞳。
「三人ほど初めて会う方もいらっしゃるようですが………とりあえず、おひさしぶりと言っておきましょうか、みなさん?」
「月並みだけど、二度と会いたくなかったわ」
 吐き捨てるようなリナの言葉に、獣神官はうっすらと微笑んだ。