Ria and Yuzuha's story:Third birthday【Ultra soul】 収束編〔10〕

 何かを思いだそうとして、失敗して崩れた。
 融けていくは心地よい。それは始源に還っていくことだ。
(そもそも個の区別は曖昧なもの)
 記憶にも似た思念が泡のように弾けた。記憶とは何か。過去だ。過去とは時間だ。時間の感覚さえも曖昧に融けている。それが以前の―――だった。
 以前の………何だ?
 生まれる、前の。
ことわりりつと力がその存在―――)
(力在る言葉の介入によって律を変更させられることもあったが、そのときは新たな律に従うだけ)
(かといって、完全にひとつにまとまっているわけでもない)
(共有できるところはどこまでも共有できたが、できないところもあった。勝手に生まれたし、勝手に消滅した)
 世界そのものだった。
 いつからかそこから切り離されたような気もしていたけれど、そんなことなどなかったような気にもなっていた。………気にもなっていた、とは?
 何がそれを何のために考えているのか。考えて? 考えるとは?
 とりとめもない。集めるそばから散り融けていく。何で捉えられていた。形づくるものは何だった。
 わからないと思わなくなっていることにさえ、気づかなかった。
 何かを思いだそうとして、失敗して崩れた。
 融けていくは心地よい。それは始源に還っていくこと。
(そもそも、個の区別は―――)
 霧のように、とらえどころなく拡散していこうとする無数の粒子を切り裂いて、不意に何かが炸裂したのはそのときだった。
 たった三つの他愛ない音。
 その音によって激震が起きた。粒子に次々とふるえが伝わり、隅々にまで衝撃が行き渡る。
 融けかかっている存在をかき集めて輪郭を描きなおす。そうさせるだけの力が、再び戻ってきていた。
 それは完全ではなかったが、思いだすということを思いださせるには充分だった。
 曖昧な輪郭の中で、ゆめうつつに考える。
 「この存在」を定義するものは何だった?
 何かの切れ端のように、ふわりと漂い出す想いがあった。
(護ル)
(待っテる)
 いったい、何を。
 問いかけに対して、再び思考の断片が意識の表層に浮上した。
(契機、を。出口を)
(もう一度、呼んデ)
(その手で扉を、開いテ)
 そして―――



 一時は完全に消えかかっていた光球が再び形と色を取り戻したのは、その変化をつぶさに見ていたティルトにさえ、どこか奇跡じみて嘘のようだった。
 眠る相手の髪の漆黒は再び朱燈の幕の向こうに隠れてしまう。
 やはりすべては音もなく、ひっそりと元の状態を取り戻した。結界の出口からも光球からも閉め出された魔力が、名残惜しげに再び周囲を回游し始める。
 結局、周囲は変化が起きる前と何ひとつ変わらない状態に戻り、戸惑いながらも彼は息を吐いた。
「よかった………」
 安堵がにじむその呟きが、吐息と共に吐き出される。
 そして。
 息を吐ききって吸いに入る。そのもっとも無防備な呼吸の一瞬、滑りこむように放たれたそれ・・を避けることができたのは―――なぜだろう。
 飛びすさったその眼前を、鈍い銀色の光が一閃した。
 オリハルコン?
 とっさの思考は即座に五感によって否定された。
 聞き慣れた鞘走りの音がした。目の前で抜き放たれた清冽せいれつな刃の輝きの向こうで、動きに引きずられて舞いあがる金色の髪。
 目があった。
 息を呑んだかもしれない。
「――――」
 どこか他人事のように、自分の手が剣の柄にかかるのを感じていた。



 灼け焦げたような脳裏で盛んに何かがわんわんと鳴っていた。五月蠅うるさい。
(どうして、あたしはここに―――)
 鈍い銀色の空間に立ちつくしている。
 何が起きたのだったか。
 ぼんやりとしたまま、剣のことを考えていた。
 剣が好きだった。
 心底好きだった。理由もなく、ただそれを振るうことが好きだった。好きという想いそれ自体が理由だった。
 上達するのが楽しい。高みを目指すのは自分自身のためだった。
 剣を手にしているとき、自分は自分でいられる。自分のなかに自分以外だれもいなくなる。ただ満たされて充足を覚える。剣によって自分は自分を抱きしめる。
 決してそれは手段ではなかった。自分の内側をなだめるためのものではなかった。なだめられるのは結果であって、目的ではなかった。剣そのものが自分そのものだった。
(だから剣を) 
 思考はとりとめもなかった。
(斬れる?)
(違う)
 突然、自分の目が自分の手を見た。左手は手袋に包まれている。利き手の右は指なしの手袋だった。しかし何だって手なんか見おろしているのだろうか。
 頭蓋の裏側をがりがりと嫌な何かが掻きむしっているようだ。
(右手の指が剥きだしなのは、利き手だから)
 いいからまず、顔をあげなければ。それから次に、
(剣を)
 はっとした。
 指が柄にかかっていた。指が慣れ親しんだそれを握った。剣だ。剣がある。
(そうだ。剣を握る利き手だから指が剥きだしのまま―――)
 だから何だ。いいから顔をあげて。呼吸をしないと。そしてそれから、
 柄を握る手に、力を。
(違う)
ゆるすな)
 理性が声をらさんばかりに絶叫していた。自分の心から離れたところで、理性と衝動が激突している。自分がどこにもない。
 うねる何かが自分を高みへ連れて行こうとしていた。浚われるまま押しあげられて、波濤はとうのように砕け散る瞬間を待っている。
 全身が警鐘に打たれたかのごとく強張っていた。驚愕が滅茶苦茶に衝動を乱打して押しとどめようと叫んでいる。
 まるで音もなく吹き荒れる嵐だ。
(やめなさい)
(それはとんでもないことよ。取り返しが)
 腕が小刻みにふるえた。どうして自分は剣を握りしめている。なぜこんなにも視界に飛びこんでくるもの全てが煩わしいのか。五月蠅い。
 呼吸の音が聞こえた。自分のものではない深い溜息。吐き出され、そして―――


「よかった」


 音を立てて何もかもが噴き飛んだ。
 すべてを置き去りにしたまま、その瞬間が訪れる。
 剣が唸った。ただそれだけだった。
 何が起こったのかわからなかった。しかしそれも一瞬のことで、引き絞られ放たれた矢が軌跡を残して霧を払うように、彼女は悟った。
 二度と戻れない。取り返しはつかない。
 底が抜けたように、いっそ晴れ晴れと笑い崩れてしまいたくなるほどだった。
 笑うことと泣くことは、彼女にとって等しく同じことだった。どちらも同じ意味と価値を持つものだった。
 だから。
 目が合うと、剣を振り抜いた姿勢のまま彼女は微笑した。
 相手の手が剣の柄にかかるのを、むしろ歓迎するかのように。



 Ria and Yuzuha's story :Third birthday

        【Ultra soul】




 それは見過ごしてしまいそうなほど自然な動きで始まった。
 はっとしてティルトは再び後ろに跳んだ。無意識のうちにその手が剣を鞘から抜き放つ。ぶつかりあう鋼のきらめきがオリハルコンの空間に鋭く散った。
 息を呑みこむ。
 さらに数度、鋼を散らしてから、ようやっとその叫びは口をついてでた。
「―――姉さん!」
 叫んだ、その直後。
 凄惨な一撃が放たれていた。受け止めた手が鈍く痺れる。歯を食いしばってそれをやり過ごすと、ティルトの剣も覚悟を決めたかのように構え直されていた。
 はしった。
 応酬。広大な空間一面を覆う鉱物の鈍い輝きに、剣戟けんげきの火花が散り映え、高らかに音を弾き、韻々とこだまして辺りを満たす。互いの感情を託すには、あまりに澄んで哀しい音だった。
 曲線の動きをさらなる曲線でつなぐような、信じがたいほど柔らかな動きが互いの剣の重なりあいだった。その動きとは裏腹、手加減を知らない剣撃が巻き起こす気が、舞踏にひるがえるドレスの裾のように鮮やかに渦を巻く。一合、二合、三合。
 耳障りな鋼の音がひときわ甲高く響き渡った。
 打ち合わせた勢いで互いに距離をとると、有利な足場を確保すべく走る。二人のブーツが同時に足元のオリハルコンを踏みしめ、蹴って跳んだ。
 かーん。命のやりとりにというには、あまりに他愛ない乾いた音が響いた。子どもが喜んでもう一度聞きたがるような、現実感のない音だった。そこからさらに引き、ぎ、払い、振りおろされる。互いの得物の限界を試すような応酬は止まらない。
(強い………!)
 リアの顔が歪んだ。
 かつてこれほどの本気を持って弟の剣と相対したことはなかった。弟もまた同じだ。れ合いではないが、親愛に裏打ちされた手合わせのみが、姉と弟の剣を競わせてきた。ただそれだけの手合わせでも、わかっていた。弟の剣が天賦のものであることに。
 努力してきた年月や、どちらが先に剣を握ったかなどまるで関係なしに、軽々とどこまでも高く伸び上がれる剣だった。むしろ高みに届かないことこそ異常に思われる剣だった。どんな努力も才能もその前には膝をつくしかない、それは可能性そのものだった。
 憤怒と嫉妬で地団駄踏むほどに、欲し焦がれてやまなかった。なまじ己に半端に才があるからこそ、渇望してしまう剣だった。畏れと敬意と妬心を。あらゆる感情を引きずり出して目の前に突きつける。
 目が眩みそうだ。
 ―――愛しているわ。
 唇を噛んで、リアは剣を振るった。何のために戦っているのか。戦う理由はどこにあるのか。剣が交わされるその高みで、朱金の繭にも似た光球が、剣の振るえに守られるようにただそこに在る。
 時は過ぎ去る。声をかけることが崩壊の一助になる時は過ぎ、逆に名を呼ぶことが救済の契機となる瞬間がやってくる。それまでこの剣は止まらない。それまで名を呼ぶことは許さない。名を呼んだことが赦せない。それが理由。
 しかし、それだけでもなかった。
 決定的に崩れ去る瞬間を望むかのように、いままでこらえてきた奔流が堰を破り、溢れかえっている。抑えてきた抑えきれない感情が、重りを取り払われた天秤が傾むくようになだれをおこして。
 叩きつける。
 それでも。
 リアはわずかに微笑んだ。
 ―――愛しているわ。
 何もわからず、それゆえ全てをわかっている血を分けた弟よ。
 どうしようもないくらい憎んでいるよ。
 同じくらい愛しているよ。
 いっそ全てを粉々に破砕しても後悔しないほど、お前のことを何とも思っていなければ楽だったと思えるほどに。
 剣尖が弧を描く。鋭く、唸りをともなって銀色の軌跡が波紋のように連なり、その数だけ剣撃の音が響く。
 余波をうけたオリハルコンがぴりぴりと神経質に振動した。それほどに激烈な打ち込みのそのすべてを、受け流し、巻き取り、逆に斬りこんでくる相手だった。
 どうにかしなければ。全身が粟立つほどの恐怖と、絶望に裏打ちされた歓びと、焦燥にも似た予感。それらに包みこまれて、頭の芯から痺れが広がっていくようだ。思考が硬直したまま唸りをあげている。世界がどんどん加速する。
 ティルトが打ち込んできた。互いに打ち合わせた剣撃の狭間が、真空のように一瞬沈黙し、刹那、弾け飛んだ。オリハルコンが一斉に共振する。純粋に物理的な衝撃にか。純粋な思いの衝突の果てに精神世界側から揺さぶられたのか。
 リアは大きく後ろへと跳んだ。踏んだオリハルコンの凹凸に体勢を崩し、思わぬほど膝が笑っていることに気づいた。緊張と疲労に体のほうが耐えきれなくなってきている。汗にぬめる柄を握りなおして、リアは前方を見据えた。
「ティル―――」
 うっとりと優しげな声だった。
 名を呼ばれた弟は、わけのわからぬ苛立ちに顔を強ばらせたまま立ちつくしていた。
「わかんねぇよッ!」
 蒼穹の青の双眸がまっすぐに姉を射し貫いた。心臓を貫く神の矢にも似た視線を、紅蓮の瞳は淡々と受け止める。
「あんたはずっとそうよ。そのくせわかってるから腹が立つ」
「わかんねぇって言ってるじゃんかよッ!」
 癇癪を起こしたような返答に、リアは苦笑にも似た笑みをこぼしてティルトを見た。それはまさしく、きかん気な弟に姉が向ける表情だった。
「なんで笑ってるんだよ。笑いたくなんかないくせに」
 今度こそリアは苦笑していた。
 本当に何もわからない弟。それでいて何もかもわかっている弟。
 己が悪いことはわかっている。弟は何ひとつ悪くない。すべて自分自身が勝手に引き起こしたことだ。勝手に愛し、勝手に妬み、勝手に剣を向け、そして望んでいない彼に剣を返させる。
 そのことは永遠に理解しえないだろう。リアも望んでなどいない。もはや謝ることさえできない。
「あんたはずっとそんな感じのままなんでしょうね」
「姉さ―――」
 向けられた剣先にティルトの言葉は途切れた。
 灼けつくようにリアは願う。
 このまま、粉々に叩きつぶしてくれればいい。
 中途半端な敵愾心など抱けぬほどに、完膚無きまでに砕けばいい。
 超えていくことを渇望して、決して超えていけぬことを知っているから。けれどそれでもまだ一縷いちるの望みにすがりついているから。
 剣を向ける。
 ティルトはまだ何かを言いかけ、それから無言で―――動いた。
 青い瞳は澄んでいる。
 動け―――。リアの本能が危機を訴え、予断を許さずに剣を振るうことを厳命した。諦めろ、何もかも。
 リアは泣きそうに微笑んだ。そして、
「あんたには一生かかってもわかるはずないッ !! 」
 八つ当たりにしかすぎない絶叫が唇からほとばしった。放たれたその叫びに真紅の瞳がたぎり、対する蒼穹の瞳はどこまでも底がなく、透徹さを増していく。
 二筋の剣閃が奔った。一筋になるために惹かれあうような銀の光条が真っ向からぶつかりあう。
 軋むほどの剣撃が起きた。オリハルコンが一斉にいた。
 そしてその経過だけを曖昧な残像にしたまま、折れた剣先がティルトの頬をかすめ、赤い飛沫ひまつを飛び散らせる。
 振るえの残滓が空間に広がり、いつまでも耳から消えない。覆い被さるようにオリハルコンが鳴いた。
 遠くのその壁にあたり、甲高く、静かに音が落ちる。き………ん………。
 ―――決定的に。
 リアの手からすり抜けた剣が、オリハルコンの床に再び反響をもたらした。中央から斬り飛ばされた亡骸だった。あまりにも滑らかで美しいしかばねだった。
 すれ違い、すり抜けた背後の弟が立ち止まり、ためらい―――結局ふり返ることなく、ユズハとアセリアの名を呼んだ。それをリアはぼんやりと聞いていた。時は過ぎた。呼ぶ名の振るえが覚醒を導く。魔力は駆逐されるだろう。
 果たされた。何もかもが。
 こうなることをわかっていたくせに、それでもなお衝撃を受ける己が赦せず、リアは笑った。笑おうとして、喘ぎが出てきただけだった。息が。
 双眸は確固として開かれているのに、映し出される情景が、何の意味も持たないまま思考を一巡して吐きだされていく。
 リアは口元を手でおさえた。何かが溢れてきそうだった。
 これ以上、何が出てくるというのだ。全て噴きだしてしまったくせに。
「あ………」
 膨張し、内側から突き破って溢れ出しそうな何かに、声を出してリアは抗った。
 いまここで、それを許してしまうと―――。
 取り返しがつかなくなる。
 緩慢にリアは抵抗した。
 結局。何もかも。


 ―――愛しているわ。


 果てしない悲痛と諦観の末にたどりついた安堵がそこにはあった。
 嬉しいような。まだ抜け出せず、途方もなく苦しいような。
 泣くにはまだ早かった。
 決定的に。瓦解はしたけれど。



 それでも、まだ。
 吐息のようにリアは囁く。


 ―――愛しているわ。



 そう思える限り、きっとあたしはまだここに留まっていられる。