Ria and Yuzuha's story:Third birthday【Ultra soul】 収束編〔9〕

 リアは上を見あげたまま立ちつくしていた。
 見あげたままというのは存外に疲れる。頭と首の後ろは痺れてくるし、平衡感覚もおかしくなってくる。
 呆れるほど広い空間のため窒息する心配はなかったが、辺りに漂っている魔力が濃密で、息を吸うたびに肺が圧迫されているようで苦しい。
 暑いとか寒いといった五感での把握の仕方など、魔力の濃さにどうでもよくなってしまうのだ。
 遠い壁際まで歩くのも億劫で、リアは足下のオリハルコンに手を触れてみた。
 魔力を封じようとしているせいか、総毛立つようなちりちりした感覚が、触れたところを起点に肌に広がり、慌てて手を離す。
 軽く頭をふって立ちあがると、リア再び上を見あげた。
 名前を呼べば―――。
 呼ぶことは、ユレイアが歌を唱うことと同じことだった。振るえを起こし、共鳴りさせる。広がった波紋がぶつかりあうことでユズハは形を取り戻すだろう。
 いつ、呼べば―――。
 機を逸してしまったらと考えるだけで目が眩みそうだ。
 ユズハは消え、アセリアも無事ではなく、セイルーンは魔力に呑まれ、おそらく自分はここから出られない。
 セイルーンに関してだけは、最終的にはゼロスが何とかするだろうという見通しはあるが、それはセイルーンだけだ。ユズハやアセリアはきれいさっぱり無視されるだろう。助けられる機会を、魔族にもかかわらず彼は気まぐれにもくれてやったはずだし、にもかかわらず助けられなかったリアが悪いのだから。
 焦げ付くような、祈りを感じる。自分ではない誰かの。
(間に合わなかったら―――)
 ユズハであるはずの光の球を睨む。
 夢中だったとはいえ、己に託された選択の重さに背筋が寒くなる。母親はそうと知りながら、あっさりと死地に等しいところに娘を送り出してくれたが………。
 果たせるだけの実力と運が自分にはあるのか。自分は母ではない。
(これくらいでしくじるようなら母さんの娘といえないわね)
 慣れていないのだ、たぶん。
 一歩間違えば自分以外の何かを失うという状況下に。
 もちろん、一歩間違えば命を失うという場面には、旅をしているあいだに何度か遭遇している。そういうことではなく、自分の周りにいる大事な人の命運を自分が掌中にしているという、この事実だ。
 あれだけ魔族に大見得をきって、怖じ気づくか。今更。
 この自分は世界の命運すら内側に抱えこんでしまっているのに。
 リアは目を閉じた。
 その指が胸元を探り、首にかかった鎖の先を探し当てて握りこんだ。
 自分は正しいかなどわからない。これでいいのかわからない。いつか唐突に、何もかもが打ち壊されていくような気がしてならない。いまのこの瞬間も。
 ただ、正しくなくても歩き続けていくだけだ。
 隣りを見下ろせば、そこにはいつも人ではない無垢な存在がいるはずだ。
 いまもこれからも。
 ユズハ。
 不意に周囲の様子がおかしいことに気づき、リアは目を開いた。真紅の双眸が顕れ、映りこむ周囲の銀と混じる。
 かかる魔力の圧が急に弱まった。
 原因を確かめようとして、ゆらり、と舞いあがった己の髪に愕然とする。魔力が風さえともなって、どこかに流れようとしていた―――いったいどこに?
 魔力が騒いでいる。わだかまるそれを透かして、朱燈の輪郭が陽炎のように揺らめいた。
「ユ………!」
 思わず名前を呼ぼうとして、危うく踏みとどまる。
 ダメだ。まだダメだ。
 圧迫感は完全に消えていた。逆に自分ごと舞いあがっていきそうな浮揚感がする。鈍い銀色に輝く空間そのものが浮き立ち、足下から舞い上がっていきそうだった。
(まさか………)
 その可能性に思い至り、リアは蒼白になった。
(結界が崩壊するの?)
 間に合わなかったというのか。既に機を逸していたと?
 朱燈に輝く球体の表面に激しく波紋がはしっているのが見てとれた。一点に現れては円となって広がる。無限に湧く泉のように、虹色の膜がいくつも生まれては消えていった。
 それを目にして、あまりの恐怖に一瞬、自分が立っているのかさえわからなくなった。
(ユズハ………!)
 ただ立ちつくした、そのとき―――
 音が聞こえた。



 Ria and Yuzuha's story :Third birthday

        【Ultra soul】




 声。最初はただそれだけだった。
 言語として意味を持たない、喉からこぼれる音。
 流れたゆたい、うねりながら高低を変えていくと、それにともなって声は歌となった。
 そして、声だけではなかった。おおよそ何の音か見当もつかぬほどに反響がかかり変質した音が、つかず離れず伴奏のように歌に絡んでいる。―――弦?
 歌に感応するかのように、オリハルコンがちりちりと鳴いた。ひとつひとつは聞き取れないほど微かな、単なる振動にしか過ぎぬそれが、無数に重なり、まるで鈴がふるえるように空間全体が音をたてる。
 すくんだリアをなだめるように、音がゆるやかに彼女の周囲にまつわりついた。
(………ユレイア?)
 ちらりとその名が脳裏をよぎり、すぐに確信めいたものに変わる。
 うたっているのか。ならば結界が開く。この奇妙な感覚はその兆候。
 しかしなぜいま再び、ユレイアが歌を唱う―――?
 結界が一瞬でも開けば、たしかに魔力は減る。だが外への影響が強い。一度目はともかく、二度目ともなれば多くの者が異変に気づくだろう。開いたまま閉じなくなる可能性もあるというのに。
 地上に残された者たちが何もしてないわけはない。何かしら動いてはいると思っていたが―――。
 不意に眩暈をおぼえた。落下したような浮遊感。どこにも墜ちてはいないというのに。
 むしろ全てが上方へと集約しているのだ。開こうとする出口に、限界に近い魔力が解放を求めて殺到している。
 魔力の侵食が弱まったためか、ユズハであるはずの光球の表面は安定を取り戻していた。
 啓示か何かのように、ふッとリアの思考に何かが落ちてきたのはそのときだった。
(いまなら)
 呼べば。応えが。
 唇がひきつれたようにふるえた。
 息を吸おうとした瞬間、


 結界が開いた―――


 開いたのが見えたわけではない。そうとしか思えない感覚の異常に、それを知っただけだった。
 あたりいっさいが漂白されたようだった。無音の衝撃と、世界が遊離していくような違和感に耐えきれず、耳を塞いだ。名を呼んだかもしれない。しかしそれさえわからない。リア自身には聞こえなかった。
 異常をこらえようと目も閉じようとした刹那、愕然として、リアは逆にその目を見開いた。
 魔力が地上へと逃げていく。それに逆らうようにして出現した気配がある。
 激烈に違和感を放っていたためすぐにわかった。自分と魔力と頭上の光球しか存在しないこの空間に、新たな気配はあまりにも異物だった。
 あまりのことに疑問符が浮かびあがったまま思考が停止した。
 そのあいだにも気配は垂直に移動する。少々の距離を落下して地面に落ちたその気配が、苦痛の声を洩らした。
「っ痛ぇ………」
 あまりにも呑気なそのぼやきに、怒りを通り越して一気に血の気がひいていくような気がした。
 墜落してきた相手は半身を起こすと、いまだ意識がはっきりとしないのか、頭をふりながら顔をあげた。そしてそれから視界に己の姉を認め、呟いた。
「あ、姉さん」
 リアは一瞬、目を閉じていた。
 ―――この途方もない奈落感をどう説明したらいいのか。
 どうにか踏みとどまって目の前に広がる暗闇をやり過ごすと、途端にふつふつと怒りがわき起こる。
「ティル、あんたね………ッ」
 怒鳴りかけ、そして再び目を閉じる。
 まぶたの裏に美しい蒼穹の青が焼きついて、思わずリアはきつく頭をふっていた。
 いつからか知らないうちに、自分はこのを直視するのを避けていた。真実しか映しださないお伽話の鏡のようで、あまりにも怖い。
 決して知られてはならない深奥まで見透かされそうで、いつも怖れの対象だった。底知れぬ深遠の淵が口を開けているような。
 数歳も年下の弟にここまで怖れを抱く自分自身にも腹が立つのだが、弟はあらゆる意味で特別だった。この双眸とその奥に広がる思惟しいそのものが、リアにとって姿を映してはならない鏡だった。
「あんた何しに来たのよ」
 どうやってとは聞かなかった。愚問だ。ユレイアの歌で結界が開き、ティルトがここにいる。それ以上の説明は不用だった。
 聞きたいのはそんなことではない。
「まさか空中に放り出されるなんて思ってなかった。姉さんはちゃんとこれたのか?」
「人の質問に答えなさい」
 押し殺した姉の問いに、弟は困ったように頭をかいた。
「なんでそんなこと訊くんだ? 姉さんわかってるはずなのに」
 再び、リアは目を閉じる。
 胃のから灼けつくように迫りあげてくる濁った何かをやり過ごすのに、それだけの時間が必要だった。
「―――わかっているわよ。でもわかりたくないわね。あたしは、却下と言ったはずよ?」
「うん、言ったけど………」
 いっそ穏やかともいえる姉の問いに、ティルトはやや口ごもった。
「それでもオレも助けたかったから」
「………そう」
「後を追ってくるなとも、あの魔族言わなかったし」
 リアは眉間に皺を寄せて記憶を反芻し、舌打ちした。確かに言ってない。
「足手まといだとは言ってたと思うけど」
 そう言われた幼い顔が、わずかに怪訝そうにしかめられた。
「………なんで? 姉さんがただ言ってくれればいいことだろ。そうすれば、オレだってどう動けばいいか、わかる」
「あたしがあの場で言わなかったのはわかっているわけね………?」
「話せばみんな動くからだろ。自分だけでいいと思ったんだ。こんなとこ来るのは」
「…………!」
 リアは無言で弟の頭を張り飛ばしていた。
「っ痛ぇよ!」
「―――黙れッッ!」
 自分が姉の逆鱗に触れたことを知ったティルトが、わずかに目を見張って姉を見あげた。
 青。まっさらな青だ。
 見るな。
 こんな、年下相手に激高してる自分など。
 自分はここにこんなことをしに来たのではない。
 己の醜さを噛みしめながら、リアは唸るように言葉を押し出した。
「あんたはいつも………!」
 感情がきあげて収拾がつかなくなり始めている彼女を、相手は黙って見ている。
 リアは立っていた。
 ティルトは座っていた。
 自然、弟は姉を見あげる形となった。
 その結果、見あげた姉の背後に広がる遙か高みに、彼は探していたものを見つけることになる。
 リアが我に返るのと、それが呟かれるのとは同時だった。
 手で遮ることさえできず、わずかに目を見張って聞くだけ。
 残酷なほど間に合わない。
「ユズハ………?」



 ………契機は、まだだ。



 何が起きたのか、ティルトはまったく把握していなかった。
 いったいことの始まりはどこなのか、まるでわかりはしない過去のなかでそれでも、あのとき、あの場所で、自分がただの三つの音の連なり、それを発していなかったら何か変わったのではないかと………後で、本当にだいぶ時が経ってから、彼は漠然と考えることになる。
 本当に後のことだ。
 そのときはただ、声にならない悲鳴を聞いたと思った。
 空間が劇的に変化を遂げた。
 それまで硬直していたのは、いまこのときに崩れ落ちるためだったと言わんばかりの急変だった。
 朱燈の球体に激しい波紋が奔った。
 何かに抵抗するかのように、あるいは形を取ろうとしたのか、わずかに表面がふるえる。それは希薄な何かでしかなかったその存在に、はっきりと意志があることを示すものでもあった。
 姉が何か叫ぼうとしていた。しかしそれは声にならない。
 喉から吐き出されたその呼気が、大気をふるわせるより早く―――崩れゆく。
 油膜に似た虹色の輝きがゆらめくと、透明に透き通りながら、みるみるうちに薄れていく。何ひとつ音をたてることなく、無音で。
 何かに似ている。
 ぼんやりとティルトはそう思い、シャボン玉にたどりついた。
 何かにぶつかることもなく消えずに漂っていた泡の玉が、最後まで球の輪郭を保ちながらほろほろと大気に消えていく。目の前の光景はそれを思わせるほどに、淡く儚い。
 音もなく魔力が狂乱した。
 形の崩れた朱球めがけて一斉に殺到し、喰い荒らす。
 薄く透けゆく朱い紗幕の向こうに眠る輪郭をとらえたのは、その直後。
「―――アセリア!」
 思わず叫んだその声に、わずかにその輪郭が消えゆく形をとどめたような気がしたが、それも一瞬のことだった。
 頭上の空間で、あまりにも静かにすべてが進行していく。朱は溶けて混ざり合い、混ざり合ったそれがなお一層、残りの朱を侵食しにかかる。
 いま消えていこうとしているのは、ユズハなのか?
 おぼろげにそう理解したものの、それが自分のせいだとはいまだ気づけずに、その形が失われていくのを彼はただ黙って見ていることしかできなかった。
 やがて、朱金の内側に在ったものがはっきりとわかるようになった。短く切り揃えられた髪のその色。衣の裾が魔力の圧にひるがえり、朱と金の余韻が消えていこうとする。そのただなかで、
 姉が叫んだ。
 これが聞き慣れた姉の声なのかと思うほど凄絶な。餓えにも似た研ぎ澄まされたのぞみを抱いて。
「ユズハ――― !! 」