Ria and Yuzuha's story:Third birthday【Ultra soul】 収束編〔8〕

 飛びだして行ったままの扉は開け放たれたままだった。
 明かりひとつなく、闇のなか窓のとばりだけが揺れている。
 大きく息をつくと、ユレイアは部屋に無数のライティングを放った。弱めにしたにもかかわらず光は強く目を灼く。
 それからユレイアはおもむろに、冷たい化粧板の床の上に寝転がってみた。
 わざと行儀悪いことをしてみるのは、どうしてだろう、そこはかとない楽しみがある。
 自分の動悸を聞きながら目を閉じた。
 息が切れていては歌えない。
 ひとつふたつと呼吸を数えているうちに、鼓動が静まっていくのがわかった。
 静かに起きあがり、竪琴に手を触れる。一弦一弦、丁寧に音を調弦していきながら、ユレイアはふと思いだしたように呟いた。
「私は、この竪琴にふさわしい王女じゃない」
 待遇に見合うだけの責任など何ひとつ果たしてなどいない。母親は十四のときには既に神殿で巫女頭を務めていたというのに。何ひとつ公的な役割や責任など自分たちには負わされていない。
 負わなくてもいいように、両親が計らってくれたのだ。
 待遇に見合うだけの王女になる前に、自分自身に見合うだけの自分になれる時間が持てるようにと。
 ユレイアが個人として、または逆に王女として、何かを望めば、すぐにでもそれに応じるだけの用意はしておきながら、両親は自ら何もしようとはしなかった。
 呼吸するように王女であった母自身とは逆に、己の身分に懐疑を抱くように、それでいて何の不満も憶えさせずに自分たちを育ててきた両親は間違っているのかもしれなかった。それは決して王族に対して与えてはいけない環境だ。
 一歩間違えば溺れる。
 なんて情け容赦なく、自分たちは愛されているのだろう。
 気づくまで沈黙し続けるなど。
「アセリア―――」
 ひっぱたいてしまったときの双子の姉妹の顔を思いだして、ユレイアは泣きそうに微笑んだ。
「どうしようか。ケンカが終わったら、私たちは母上に雷を落とされそうだ」
 彼女はもう気づいているのだろうか。
 私たちは、自分たちが柔らかな土のなかにいることにすら気づいていない種子だ。
「ひとりで怒られるのは、つまらないな―――」
 話したいことが、この小一時間ほどで山ほどできてしまった。話すためにも、自分は唱うのだ。
 椅子に座り、ユレイアは目を伏せた。
 もう二度と知識に引きずられて漫然と唱ったりなどしない。
 この自分の意志を帯びて、振るえは振り幅を変える。特定の音叉が何もない空間を渡って別の同じ波長の音叉を振るわせるように、それは条件を満たしたものだけに共鳴りし、世界を変えて新たな法則を作り出す。それが魔法だ。
 それが為せるのは、この声、この耳。
 それが成せるのは、この自分だけ。
 稀代の魔道士になれるというのなら、なってやる。


 ―――何の前触れもなく、突如として高らかにその詠唱は始まった。
 セイルーンを言葉本来の意味のままに震撼させる、音の波が。



 Ria and Yuzuha's story :Third birthday

        【Ultra soul】




 赤の竜神像の足下から、ティルトは天窓を見上げた。
 硝子がはめこんであることさえわからぬほど、夜の色そのままに天窓は闇にとけこんでいる。
 ゼルガディスとアメリアが立ち入りを禁じたせいで、セイルーンの中心であるこの空間は、日が落ちたいまも明かりひとつなく暗いままだった。月もまだ中天に差しかかるほど高く昇ってはいないため、まだ闇になれていない目には、あたりは塗りつぶされたよう感じられた。
 確かライティングはだいじょうぶだったはずだと、ティルトは呪文を唱え、予想以上に強い光に目をしばたたかせる。
「魔力が変ってのはこういうことか」
 きつい光に、ものの影が濃く長く伸びた。背後にあるスィーフィードの像が陰影を増して、より一層神らしく見える。
 もっともティルトにしてみれば、ここに来たのは双子たちとこっそり王宮探検をやっていたとき以来で、そのときもヘンな像だという感想ぐらいしか持たなかったから、今現在明かりに茫と照らされる竜神像を見ても、相変わらずでかいなとしか思わなかった。
 彼が生まれるよりも十年近く前、この場所で母親が魔族に魔力を封じられたことがあるのだと聞いても、やはり「へえ」としか言わなかっただろう。
 竜神像の台座に手をかけ、ティルトはかつかつとブーツの感触を確かめた。靴音が甲高く、やけに響く。
 石床に立っているはずなのに何となく足場に不安を覚えてしまうのは、ここがフタの上だからだろうか。
 煮え滾る魔力のフタの上。
 たしかに首筋がちりちりするような妙な感覚がする。
 父親並みに気配に聡く、時として父子二人してその勘を母娘から呆れられることもある彼は、すぐに空間自体が振るえを帯びて、何か大きな力を顕そうしていることに気づいた。
 ―――歌っているのだとすぐにわかった。
「ユレイアはすごいな」
 自分にはただ聞こえてくるだけのその歌声。
 鳥の声や風の音と同じく、ただ気がつくと当たり前のように耳に飛びこんでくる音だ。
 だから歌は歌として楽しむし、ユレイアは文句なしにうまいから、聞くのは嫌ではない。ただそれだけだ。
 ところがそう思っているのは自分を除けば、ユズハと父親だけらしい。他の者は歌を聞くたびに、魂の抜けてしまったようなうっとりとした顔をする。
 あんまり気持ちよさそうだから、自分も体験してみたいのだが、ユレイアの歌はどう聴いてもただの歌なのだった。
 これは自分がおかしいのか、まわりがおかしいのかわからない。その他大勢が自分とは違うところを見ると、やはり自分がおかしいのだろう。ユレイアの歌は本来うっとりとするべきものなのだ。そう聴いてやれない自分が悪い。
 ティルトはそう思っているのだが、ユレイアのほうは魂翔たまがけりしたように陶然と聞いていられるより、彼のようにただの歌として聴いてくれるほうが嬉しいという。
 綺麗すぎて聴いてもらえないなんて、可哀想だなと思う。
 不思議な力がユレイアの歌にあるというならあるのだろう。つい先刻、魔族が不思議な力でも何でもなく、それは魔法のひとつの形だと言い、裏付ける理論だか理由だかをなんだかごちゃごちゃ言っていたが、あまり聞いてはいなかった。あるならあるのだ。ただそれでいい。
 喉が渇いたなら水を飲めばいい。嬉しければ笑えばいいし、好きなら好きだと気持ちを裏返すことなく言えばいい。
 歌いたければ歌えばいい。
 守ると約束したから、守る。
 どうしてそれじゃダメなんだろうと、ティルトは少し唇を尖らせた。
 思いついたことをそのまま垂れ流せば頭をはたかれるし。
 かといって、言葉を探していると三日たっても出てこないときがあるし。
 黙っているのも嫌なので、それでも口を開いてはいるけれど。
 やっぱり自分の世界と他の人たちの世界は重なっていないのだろう。世界は鏡だから、その人その人によって違った顔を見せてはいるのだろうけれど、どの世界も自分ほどおかしくはないのだろう。
 ちりちりとした振るえが強くなる。ライティングがあり得ないことにその輝きを増して、皓く視界を灼いた。
 世界の相がずれていく。天から地まで一本の棒を貫き通したかのように、力の柱が突き立つ。大気のなかにある力の素子がどんどんと密度を増して、ティルトが立っているあたりに収束した。
 懐のオリハルコンが、かすかに脈打ったような気がした。
 これがあるから何とかなるだろう、と他の者が聞いたら憤死しかねない呑気なことを考え、ふとティルトは姉の言を思い出していた。
 ―――却下。
 自分も行くと告げたときの、あのにべもない一言。
(これで来ちゃったら………怒るよなぁ………)
 白焔のごとき姉の怒りを思い、少し顔をしかめたものの、結局ティルトは開き直ることにした。魔族が連れて行くと言ったのは確かに姉一人だけだったが、自分は魔族の手は借りてないし、他に誰も来るなとは言わなかったのだから。
 口も聞いてくれないくらい怒ったら、とにかく謝ろう。
 父も母も怒りっぽい姉も、無条件でティルトは好きだった。口も聞いてくれないくらい怒られるのはやはりこたえる。
 約三年ぶりに見る姉の姿だった。この三年間でティルトは身長がかなり伸び、さては姉の身長を追い越したかと期待したのだが、向こうもやはり三年分伸びており、身長差が以前と何も変わらずにいるのが悔しかった。
(お互い背が伸びたってことは、間合いも変わってるよな。オレも剣変わったし。あとで手合わせしてもらおうっと)
 何の屈託もなくそう思いながら、ティルトは溢れだした魔力にそのまま身を委ねた。



 与えられた情報量の多さに目眩がしそうだったが、一歩離れて眺めてみれば事態は非常に単純だった。各地で起きている異常も、すべてこの白魔術都市セイルーンにある結界が原因だ。
 その単純さに腹が立つ。
 とりあえず、アメリアの立場でうてる手は既にうった。均衡を崩す黒魔法の使用は禁止、白魔法及び、律を乱さない精霊魔法は逆に使用を推奨。その命令を出す時点で、王宮に伺候してきた評議長と連盟会長に結界に限界が来ている事実は明かしておいた。
 結界が臨界点を超えそうな状態にもかかわらず、現在自分たちには打つ手がないことと、ものの見事にアセリアが巻きこまれていることは、無論ふせたのだが。
 そしていま、こうして回廊を歩いている。
 大股でどんどん歩いていると、背後から柔らかな声がした。
「怒るな」
「怒ってなんかいません」
 立ち止まって挑戦的にふり返ったアメリアに、相手は少々げんなりした顔で言った。
「お前は怒るといつも一人で先に行くんだ。何でそういうところは変わらないんだ」
 アメリアは少し不安げになって両手で頬を押さえた。
「わたし、どこか変わりました?」
 出奔をやめて。王宮という華やかな闇のなかで立ち続け、闘って。選んで。親になって。娘を二人もって。右から左に権力をふるう地位に登って―――。
 知らず、手を離して嘆息していた。
「まあ、普通は変わりますよね。あなたも変わりましたし」
「だから、一人で先に行くところは変わってないと言ってるんだ。それだけだ」
 憮然としながら追いついてきたゼルガディスと肩を並べ、再び歩き始めたところで、アメリアは不意に呟いた。
「美人になっていましたね」
 ゼルガディスは、唐突なその言葉の意味をとりそこねて聞き返す。
「だれがだ?」
「イヤですね。クーン以外に誰がいるっていうんです」
 何のことはない。単に直前までしていた、変わった変わらないのやりとりから連想しただけだ。
 変わったかと言えば間違いなく変わっていると言えたし、変わっていないと言えば、またそうとも言えた。
 十代の頃の三年間は貴重だ。信じられないほど背は伸びるし、みるみるうちに容貌が変わる。会わずにいれば、なおさらそう思える。
 リアは以前より確実に掌ひとつぶんは背が伸びていた。少女らしさが影を潜め、容貌の華やかさは息を飲むほどだ。―――父親の端正な顔の造作を余すところなく受け継いでいる。
 それでいて同性としての母親の面影も、きちんと譲り受けていた。リナよりも背が高く、剣士として均整のとれた体つきをしているせいで、一見するとどこも似ていないような気がするのだが、爪の形などの細かい部位は、どう見てもそっくりだった。
「いきなり何を言い出すかと思えば………」
 ゼルガディスが呆れたように呟き、アメリアはその彼を見あげるために再び立ち止まった。そう、リアの身長があまり目の前の彼と変わらないものになっていることに先刻、驚いたばかりだった。わずかに低いぐらいだろうか。どちらにしろ自分は見上げねばなるまい。
 渋い表情をしている相手に、殊更、アメリアは笑ってみせた。
「だって他に言うこともないじゃないですか。下手なこと言うと、またゼルガディスさんを困らせそうですし」
 本当はいてもたってもいられない。
 何もできない焦燥に、あたりかまわず飛び出して大声をあげて走り廻りたいくらいだ。やらないのは、不幸にも分別がついてしまっているだけで。―――分別がつかないのも、また不幸なことではあるのだが。
 隣りにいるゼルガディスも似たような思いでいると考えれば、なおさらそんな真似はできなかった。
 再び歩きだすきっかけをつかめぬまま、立ちつくしたアメリアはぽつりと呟いた。
「………クーンひとりに任せるしかないなんて、不安です。わたしたちはどうしてここに立ってるんですか。あの子たちの親なのに」
「頼むからそれを言うな」
 ゼルガディスが嘆息した。
 親しく付き合ってきたぶん、互いの子どもは姪か甥のような感覚がある。もっとも四人とも姪や甥を持った経験がないので何とも言えないのだが。
 二人からしてみれば、リアは双子の娘たちと同列の庇護の対象だった。
 年齢も経験も圧倒的に違う。どうやっても目下の者という鱗が見る目にはりついてくる。ゼルガディスと凌ぎを削るほどの剣の腕や、リナを上回るほどの魔力を持っているという実力を侮っているわけではないのだが。
 信用していないわけではないのだ。
 ただ二人にとっては、リアもユレイアたちと同じく守るべき者に分類されているため、そのリア一人に任せるしかないという事態は思いもよらないことだっただけだ。
 アメリアは頬を押さえてため息をついた。
「三年もたてば、多少は変わっているかと思ったんですけど………そのまま大きくなった感じですね。だから不安なんですよ」
 変わっているといえば、変わっている。
 変わっていないといえば、変わっていない。
 外見はともかく、内面は母親によく似た娘だった。苛烈で、くるくると表情がよく変わり、実はお人好しなところまで母親譲りで、覇気のある真紅の目がそっくりだった。
 しかしそれでいて、両親二人に共通してある安心して見ていられるところがない。
 ガウリイはさておき、リナは目を離すと何をするかわからない破天荒さと、感情的なぶん起伏が激しく、それが不安でもあったが、それでもまだ安心して見ていられた。
 それがあのリアの場合だと、覇気があり、華やかなぶんだけ、両親にない脆さが際立って見えてくる。家族のなかでリアだけが持つ危うさだった。―――弟のほうは逆に安定しすぎていて、ときどき小憎たらしくなるほどなのだが。
 ………三年もたてば変わるだろうと思っていたのだが、アメリアが見た限りでは相変わらずのようだ。子どもによくある一過性のものかと思ったのだが、どうやら違うらしい。
 リアの危うさは、彼女が彼女である限りおそらくあのままだろう。何が彼女をそうさせているかはわからなかったが、それはそれでいいと思えた。
 例えどんなであれ、リアはまぎれもなくリナとガウリイの娘に違いなかった。アメリアにとって大切なのはそのことだった。リアがどれほど己の家族を愛しているか、見ているだけもわかる。
 不意にひやりとした気配がし、アメリアは顔をあげた。
 ゼルガディスが聖堂のほうをふり向く。その表情は険しい。
 魔力がたわめられていくような妙な感覚。わけもなく人を不安にさせ、浮き足立たせる感覚だ。
 また結界が開く。
「ユレイア………」
 アメリアは唇を噛んでうつむいた。
「やれることがこんなに少ないなんて思わなかった」
「アメリア?」
「父さんはわたしに溢れるほど大事なものをくれたから、親になったら色んなことを自分の子どもにしてあげたかったんです。父さんみたいに。でも、父さんも、案外もどかしがってたのかもしれないなって、いま思いました」
 さらりと落ちたその髪に隠れる頬に触れて、ゼルガディスは微かに笑った。
「お前は勝手にどっかに飛び出しては、リナたちに巻きこまれていたからな。それこそ気を揉んでいたんじゃないか?」
 上目遣いにアメリアは軽く相手を睨みつけた。
「そうでしょうね。出先であなたを見つけて帰ってきたんですから」
「をい」
 ふわりと笑い、アメリアは夫の手に己の手を重ね、聖堂のほうを見やった。
「胃が焼き切れそうだなんて微塵も思わせずに、笑って雷を落としてあげないと。それが親の礼儀ですよね」
「おれにはわからん」
「じゃあ、そうしてください」
「………努力する」
 親の記憶がほとんどないゼルガディスは正直にそう答えると、アメリアを促して歩き出した。
「どうか、みんな無事に―――」
 おそらく自分は史上最大の欲張りだ。
 こんな母親を持ってしまった娘二人には、運命だと思ってあきらめてもらうしかない。
 甘やかしすぎだろうか。けれど大事だった。大切だった。途方もなく真摯に愛している娘たちだった。
「どうか、だれひとり怪我することなく、無事で。明日の朝、みんなで一緒にご飯を食べることができますように―――」
 それだけでいい。ただそれだけでいいから。
 わたしの娘たち。
 どうか死なないで。
 再び門が開き、魔力が下から上へと駆け抜けていく―――。