Ria and Yuzuha's story:Third birthday【Ultra soul】 収束編〔11〕
体重を感じさせない足音が王宮の床を静かに移動していく。
まだ宵の口だというのに、そこここで交わされる気配や明かりは、皆どことなくひそやかで遠慮がちだ。
夕食の時間だというのに、食堂にはおそらく誰一人としていないのだろう。いまもっとも大事なことは当座の夕食のことではなく、明日の朝食の顔ぶれだった。
やがて、ユレイアはその場所にたどりついた。
いまだ月は天頂にはかからず、ただライティングの光だけが忘れ去られたように誰もいない空間を照らしている。
「ティル………」
この魔法を残していった人物のことを思い、ユレイアはぽつんと呟いた。
自分のために残された光のように思えた。
陰影の濃い竜神像を見あげ、ユレイアは聖堂内へと足を踏み入れる。
「音がない………」
この白魔術都市の真の意味での中心部。秘められた魔力に音さえおそれをなしたのか、耳が痛くなるまでに無音だった。冬の夜の薄氷を踏んでいるような気がする。
スィーフィード像の足下までくると、ユレイアはぐるりとあたりを見回した。
暗くて寂しくて、忘れられたようにある場所だ。
ユレイアは目を閉じる。
もう、自分ができることはやった。
だから、あとは唱うだけ。
自分のためでも魔力のためでもなく、ただひとりの姉妹のために。
この歌に何の力もなくていい。
ただ、帰りを待つためだけに。ただひとり。
届くように。
この、声が。
世界に響き、魔力を振るわせ、この冷たい石の床を貫いて。
呼ぶ名に絡み合うように響く旋律がある。
柔らかに、呼んでいる。
呼ばれているのは自分ではないが、それでもその優しさと、泣きそうなひたむきさが、自分をほろほろと崩していく。いやな崩れかたではなかった。粒子のひとつひとつを丁寧にくるんで、しっかりと保護したうえで解き放っていくようだ。
たった三つの他愛ない音。
それがぶつかってきて、ぶつかることで全体の形が成されていく。幾方向から水の波紋が押し寄せて、相互に影響を与えあうように。
形作りながら同時に拡散していくようでもあった。
呼ぶ声は慕わしいが、自分が求めるものではなかった。一度、そのことで均衡を崩してしまっていたが、いまはだいじょうぶだった。
呼ばれているのは自分ではないが、それは自身にも連なるものだった。
いままで必死にかき集め、集めたそのはしからこぼれていった自分自身を、もっと大きなところから包みこむ音だった。
より中心に斬りこむほどの刃の鋭さは持たずとも、これ以上の拡散を防いでくれる壁だった。
目的がなかば果たされたことを知り、さっさと無駄な努力をやめて散り融けていくのに任せることにした。波がひたひたと押し寄せてくる砂の山のように、ざらりと崩れて他の砂と混ざり合う。
混ざり合ったそこから意識を融けこませ、他の砂を取りこんでいった。歌はつかず離れず、自分の周囲をたゆたっている。その音波にのって、どこまでも心地よく広がった。
やがてすべてに融け入ってしまうと、待った。
魔力の素子となって空間いっぱいに広がりながら、自由気ままに世界そのものにまつわりついた。
だいじょうぶ。自分を定義していたものが何だったか、いまはこうしてはっきりと思い出せる。だから、
もう一度、呼んで。
形を取り戻させるだけの振るえを、起こして。
泣くことさえできない世界を抱きしめるのに、このままではあまりにも頼りないから。
痛みさえともなうような、弾け散るような光の音に貫かれて、正しく在り方を取り戻す。新しく何度でも生まれなおす。
そして輝く―――
Ria and Yuzuha's story :Third birthday
【Ultra soul】
歌が聞こえる。
染みとおるようにひそやかに。
聞かせようとする意図すらなく、ただ静かに。
一途に。願いをこめて。
夢を見ていた。
とろとろと微睡んで、夢と現の曖昧な境界を漂う。
色々と見ている光景は変わった。声だけの夢もあった。音もない夢もあった。
必ず、傍にはユレイアがいた。
そんな夢のひとつだった。
シャボン玉のなかに入ったことがある。
あれはまだ小さかった時のことだ。礼儀作法の授業がつまらなくて、退屈で、それでも何とかやり終えて、二人で遊びに飛び出した。
王宮を抜けて、クーン姉さまとティルトのところへ。
二人はそのとき露店で売っているシャボン液を再現するべく、テーブルの上に家中の器と小刀と石鹸を出し、他にはお湯に砂糖に出涸らしの茶葉に洗濯用の澱粉糊と、何に使うかわからないものまで並べて、ああでもないこうでもないと実験している最中だった。
すぐに自分もユレイアもそれに加わった。終いにはガウリイさんまで加わって、ようやく割れにくくて大きく膨らませられる液ができあがったときには、リナさんに見つかったら大目玉なんじゃないかと思うぐらいテーブルの上は散らかっていたし、びしょびしょだった。
シャボン玉のなかに入ってみたいと言い出したのは誰だったんだろう。
ともかくその一言で、どうすればそんな大きなシャボン玉を作るかどうかを今度は皆が考えはじめた。
案を出したのは、怒りながらも結局つきあってくれたリナさんだった。
輪の形の入れ物を作って、そのなかに人が入る。輪の入れ物にはシャボン液が入っていて、そこに同じ大きさの針金で作った輪っかを浸して勢いよく上に持ちあげる。中の人物がシャボンの円柱のなかに入ったら、空いているの上の部分を輪っかを横に滑らせて閉じる。
いちばん背の高いガウリイさんが閉じる役目を担当してくれたけれど、上の部分をきれいに閉じられるようにスウッと輪っかを移動させるのは難しくて、何度も失敗した。
やっと成功したときには、中にいた自分の髪はシャボン液でべとべとで、服もこすれば泡立ってそのまま洗濯できそうだった。
液が目に染みて痛かったけど、それでも目を開けてシャボン玉のなかから外を見た。どこもかしこもゆらゆらと輝く虹色。
息をするのも怖くて、そっと動かないように縮こまって空を見上げた。
油膜を張ったように青い虹色の、どこか閉じこめられたような世界。
そのなかにまた自分がいるような気がした。
見慣れた王宮の通路をあてもなくどんどん歩いた。
いくら歩いても誰にも出会わない。普段ならどんなに人がいなくても、どんなに静かでも、必ず王宮という空間のどこかで誰かがいる気配がするのに。
こんな耳が痛いような、静かすぎて逆にうるさいような、ある種荘厳な場所ではなかった。
石材に施された青の塗料。少し濁った金の塗料。緑の石が唐草模様を描いて、大理石の上を這っている。
見慣れて何とも思わなくなっているそれの上に、薄い光と影が落ちていた。
空を見上げたら青かった。普通に青くて、なぜだかそれに違和感を感じた。
こんなにしみるように静かなのに。
感覚が冴え渡るようにすべて凍りついているのに。
何であんなにべったりした色をしているんだろう。
漠然と不安になって、ふと神殿に行ってみようと思った。
ここに似た空気を持っている場所。ここがこんなに静かなら、いまあそこはどうなっているんだろう。ここよりも遙かに気が狂いそうなほどの静寂に満ちているんだろうか。
歌が聞こえたような気がして、顔をあげた。
耳慣れた声。よく知っている声。自分と同じ響きの声。
微かに届くそれは何の歌を唱っているのかはわからない。神殿と同じ方向から聞こえるそれをたどって歩き出す。
ユレイアはこういう世界のほうが落ち着くんだろうか。よけいな雑音などない世界。自分はいたたまれなくて、怖くて、音がないことが淋しくて死んでしまいそうだ。
だって、ずっと隣りにユレイアの歌があった。唱う声があった。
(だからいないとさみしいんです)
角を曲がって回廊を渡って、アセリアは神殿を目指した。
声はだんだんはっきりとしてくる。
針水晶のようだと思った。水晶を貫いて伸びる真鍮色の光。
そんな声。
こうしてここまで、届く。
水晶のなかを自分は歩いていく。
ユレイアと喧嘩していたことを思い出したが、それでも歩くことをやめようとはしなかった。
いまなら、いくらでも謝ったっていい。
(だって)
空はいつのまにか見えなくなっていた。王宮の深部でアセリアは扉を開け放つ。いくつもいくつも扉を開け放って、ただ先へと進んでいく。
(母さまはいつも大変そうにして。父さまも忙しそうで)
だから国を治めるという生き方は、とても大変で責任が重くて辛いものだと思った。
人にいっぱい取り囲まれて、考えて、迷って。
それでも決断して。愛して。
(ユレイアには無理だと思ったんです)
人見知りが激しくて、はにかんで話すくせに。
話すことよりも唱うことのほうが好きなくせに。
お人好しで、何でも抱えこむ癖があるくせに。
辛いことを辛いって言わないで我慢して、黙って泣いているようなユレイアだから。
(わたしがなろうと思ったんです―――)
最後の扉を開くと、歌声がいっぱいに溢れ出した。
セイルーンの中心部。石造りの空間には誰もいない。探していた自分と同じ姿もいない。
それなのに、歌声だけが幾重にも響いて彼女を揺さぶる。
月の光はまだ射さない。
セイルーンのなかのセイルーン。建国の秘密を冷たい石の床に秘めた小さな空間。
誰もいないそこで、ただひとり。
真下にいるはずの自分の姉妹に向かって、ユレイアは歌い続ける。
届くように。
この、声が。
世界に響き、魔力を振るわせ、この冷たい石の床を貫いて。
二人の世界がわずかに重なる。あたりを払うように清かに音が共鳴りし、魔力を根底から揺らがしていく。
アセリアの周囲を虹色の油膜がとり囲み、ここでない同じ場所で唱うユレイアの姿をおぼろに映し出した。
ただ目を閉じて。
己の声だけが、共に鳴るのだと。
己こそが、共に在るのだと。
(ユレイア………)
とろりとした蜜のように耳を塞ぎ、時として鼓膜を突き破るように鋭く。声が。何よりも自分に近しい声が。
世界がふるえて鳴っている。
ようやく、アセリアは気づいた。
―――どうして自分はここにいるのだろう。
ここはどこだろう。
なぜ、ここにはだれもいないのだろう。
(ここは、音がしません)
(ユレイアの歌だけが空気を振るわせています)
さみしい。
帰りたい。
ここから抜け出したい。
生まれる前から一緒にいる、けれど絶対に自分ではありえない、もう一人の声がアセリアに訴える。
ここにいるよ、ただひとりあなたが迷わぬよう
ここにいるよ、ただひとりあなたが探さぬよう
違う、とアセリアは思う。
思って、ふと笑いたくなった。
言わないけれど、いつも想っているのに。
問えないけれど、いつも考えているのに。
自分こそ、まさにそうしたいのだと。
―――ねえ、
たどれば、帰れます?
(たどって、帰ってきて)
わたしが馬鹿でした。
(私が馬鹿だったんだ)
帰ったら、もっとよく話し合わないと。
(無事に戻ってきてくれたら、ちゃんと言わないと)
双子だからわかってくれてるんだって甘えてました。
(わかってくれてるんだと思っていた。そんなはずはないのにな)
わたしはユレイアじゃないですから。
(私はアセリアじゃないからな)
そして、和音。
『だから言わないと。あなたの代わりに『わたし』が玉座に着くのだと――』
『だから言わなければ。あなたの代わりに『私』が玉座に着くのだと――』
ゆるやかに世界が重なり浮上する。
アセリアは、そっと目を開けた。
〈Image Illustration by
双児宮/KARY様〉


