Ria and Yuzuha's story:Third birthday【Ultra soul】 収束編〔12〕
剣の余韻は完全に大気に溶け散り、そうしてもたらされた互いの沈黙は果たして長かったのか短かったのか。
破られたいまとなっては、それも判然としない。
「―――姉さん!」
リアはゆるやかに目を閉じる。
ためらいがちに、それでも明確な意志を持って呼んでくる声。
まだ、呼ぶのか。そう、呼べるのか。
その声の調子に救われる己がいることが許せなかった。
目の前には無惨な亡骸と化した己の剣。この身には傷ひとつなく、身代わりのようにさらされているその切り口に絶望的な落差を思い知らされる。鏡のように滑らかなその切断面。
あの状況下で、鋼を斬るだけで済ませられる。その事実こそが。
―――ああ。
リアは大きく息を吸い、そして吐いた。
ひとつ呼吸をしていくごとに、胸の奥を折りたたんで隠していく。
精神の亀裂はいまだ醜く傷跡をさらしたままだったが、いまは己よりも優先すべきことばかりが目の前にあった。
何もかも、大切なものは目には見えない。
目には見えないそのことで、救われもするし、傷つきもする。見えないからと、癒えることなく放っておかれもする。今は別にどうでもいいことだ。
深く息を吐ききったところでリアは目を開けた。
それですべては拭い去ったように、より深いところに押しこめられていた。
淡々と目の前に落ちている剣の残骸を拾うと、丁寧に鞘に戻す。
「姉さんッ!」
焦れたように、声が再び彼女を呼んだ。その屈託のなさが最大の凶器だ。そして、何よりも得難く思っている美点でもあり―――。
一呼吸のち、今までと何も変わらぬ仕草で彼女はふり向いた。
「………なに?」
「何って………」
あまりにさっきとは相容れない姉の様子に、ティルトは口ごもると無言で上を指した。こちらも姉に問うべき事より先に目の前の状況を優先させることを選んだらしく、すでにその手に剣はない。
指さす先にはこの事態と剣劇の原因でもあり、助けることを姉弟共通の目的としている存在が二つ。
リアが見あげたその瞬間、それを待っていたかのように朱橙に輝く球体が、水の波紋のように周囲に溶け広がって、消えた。先ほどまで繰り返していた無様な浸食や拡散とは、まったく相容れない、するりとした消えかただった。抵抗すらなく、あっけなく。
襲いかかる対象をなくしたせいか、魔力がつんのめるように不自然な対流を起こし、揺らめいた。
アセリアを保護していた球体が消えたにもかかわらず、どういうわけか魔力は彼女に近寄ろうとしなかった。むしろ意図的に避けているふしがある。
もはや驚愕や憤怒といった激情は、剣が折れた瞬間に共に麻痺してしまったのだろう。感じ方を忘れてしまったまま、ただリアは頭上を見あげて事態を認識する。それがかろうじてできることだった。
やがて、うっすらとアセリアが目を開いた。
それを合図にがくん、とその体が大きく傾ぎ、安定を失い空中に投げ出される。何が起きているのか把握していないその双眸が、大きく見開かれた。
リアが背中を押すまでもなく、ティルトは落下地点に向けて走りこんでいる。今はまだ自分よりも小さなその背を見送りながら、姉はわずかに嘆息した。
「詰めが甘い」
この空間は広すぎる。セイルーンの王宮区画に匹敵するほどの円形の空間だ。それを覆いきるだけの天蓋となれば、その高さはなおのこと。
朱球は天頂近くに存在していた。そこからの落下となれば、受け止めようと思う事自体が間違っている。
リアが呪文を唱え始めると、魔力がその効果を顕すべくいっさんに駆けていくのがわかった。どこか親しげに。
先ほどまでの隙さえあらば、周囲のものすべてを浸食しようとしていた凶暴さがどこにもない。相変わらずその圧は限界まで高まっていたが、それでもどこか余裕があった。
リアが唱えた指向性のある浮遊の呪文を受けて、風が落下するアセリアを包みこんだ。目に見えてその速度が遅くなる。ひるがえった衣の裾は、駆けこんできたティルトの腕のなかにきちんと収まった。
「ティ、ティル―――?」
事情の飲みこめないアセリアと、それに答えるティルトのやりとりを聞きながら、リアは呪文の集中を切った。急に増えた重量にティルトが腕の中身ごとその場に座りこむ。小さな悲鳴があがったが、弁明は支えきれなかった当人にしてもらうことにした。
やるべきことをやっているのに、どこか現実から乖離したようにふわふわしている。行動している自分をどこか遠いところから別の自分が見ているかのようだった。
溜息をついて、リアは折れた己の剣先を探すべく、どこへともなく歩き出した。魔力が慕わしげにまつわりついてくる。
わずらわしいと思いながら、目的のものを探して視線を巡らせた。
壁にぶつかったと思っていたのだが、冷静に考えてみればいくら弟が斬り飛ばしたにしろ、王宮区画の端まで飛んでいくような威力などあるはずがない。
ほどなく、突き出すようにして成長したオリハルコンの根元に落ちているのが見つかった。
拾いあげると鞘のなかに落としこみ、その上から改めて残りの柄の部分を収める。
己の成した行為をつきつけるその無惨な形骸を、何のためらいもなく拾いあげることができた自分に安堵し、嗤った。まだ、だいじょうぶだ。
どこかもどかしげに魔力が渦を巻いた。
それが癇に障り、ふとリアは虚空に視線を投げた。
魔力は相変わらず周囲を回游している。違うのは出口を欲する狂おしさがなくなり、むしろ形をとりたがっているかのような印象を受けることだ。
やがて、リアはひとつ溜息をついた。
つい先ほど目の前から消えてしまった存在がいる。
一度目は取り返しのつかない事態を引き起こしたほどに、感情の箍を外してしまったそれを、二度目のいまは何とも思わない自分の内側のからくりに気づいて、思わず嘆息したのだ。
何のことない。もう、とっくに気づいている。
リアは虚空に手をさしのべた。
絡みつくように魔力がその手に集ってくる。人の気も知らぬげに。
まったくもって、最初から身勝手だった。
そして今も身勝手だった。
一言の断りもなく飛び出していった挙げ句、人の助力を無自覚にアテにしているところなど、本当に腹が立ってくる。
(あんたが呼べば、あたしはここにいることになる)
(あたしが呼べば、あんたはここにいることになる)
世界は鏡。そこに在って、ここに在って、相対して互いを映しだす。
映しだされたその像に、存在は己が存在するのを見るのだ。
世界が変われば、己も変わる。
己が変われば、世界も変わる。
それが存在だ。
それが魂だ。
(名前を、呼ぶよ)
この醜い傷を露呈した自分に呼ばれて、新たに生まれてくるお前に歪みが生じても、もう責任はとれない。
お前は選んだ。
自分はそれを許した。
どうしてそれが自分なのか、愚かに理由を問うことはもういい。
わかるまで旅をしようと思っていた。
わからなくても旅をしようと思っている。
黙って逝くなど許さない。
何も知らずに彼女を慕う幼い二人に背を向けて、リアは両手をさしのべた。
ありとあらゆる資格を無くしてもなお、この手に残るものがあることは祝福なのか、底のない痛みそのものなのか。
(あたしはあんたのこと好きよ)
(あんたにとってはどうでもいいことかもしれないけど、あんたのことを心配させて)
あちらは最初から身勝手だった。
ならばこちらも勝手にそうするだけのことだ。
(ユズハはユズハだから、ユズハの名前を、あたしが呼ぶよ)
この自分こそが呼ばなければならないのだと、ありがたくもご指名いただいたのだから。
「ユズハ―――」
魔力が歓喜に染まって渦を巻いた。リアがさしのべる手のうち、そのただ一点に集束する。
淡々と彼女は囁いた。
「いいかげん、食わず嫌いはやめなさい。怒るわよ」
西日が射しこむような朱い光が満ちた。空間全体に広がった魔力が、色をともなって物質界に顕現しようとしていた。
暖かな、寒さを知らぬ灯火の色だ。
いまにも触れただけで弾け散りそうに、期待に満ちて、その瞬間を待っている。
世界がふるえるほどに。
―――この、大バカ者。
リアは息を吸いこんだ。
叩きつけるように、なかば引きずりだすつもりで、その名を呼ぶ。
「いいかげん目を覚ましなさい。ユズハ―――!」
それは痛みさえともなう、弾け散るような光の音。
朱金の光にふるえが奔った。おそろしい勢いで光がその手のうちに圧縮され、次の瞬間、完全に円形の衝撃波がリアを中心に広がった。遅れて音がそれに追従する。
脳髄に潜りこむような甲高い金属音が、空間全体から湧き起こった。千の鈴をいっせいに鳴らしたかのような音だった。
その音とともに強烈な意識が空間いっぱいに広がり、魔力を支配下に置いていく。
やがてその音が鳴りやんだとき、あれほど結界内に満ちていた魔力は跡形もなくなっていた。
もうここは、どこにでもある、何の変哲もない大気と大地が作りだす地下の空洞だった。
銀の光がさらさらと降りこぼれる。
粉と化して降り積もるそれは、結界を形づくっていたオリハルコンだった。
少し離れたところで、ティルトとアセリアの二人が、呆然と雪のように舞い落ちてくるそれを見あげている。
その光景がいつか雪の日に皆で遊んだ記憶を喚起させた。ユレイアが足りない。早く地上に帰って安心させてやらないと。すでに自分はそこから遠く隔たってしまっていたが、愛することはまだできていた。
泣くことは簡単だったが許せなかった。
不意に耳のすぐそばで声がした。
「………くーん?」
リアはうつむいたまま、その場に座りこんだ。その周囲にもさらさらと銀の光は降りこぼれ、やがて降り積もるそれの上に降り立つ、たしかな足音が耳に届いた。
うつむいたまま、リアはその相手に告げた。
「………いい。あんた、あたしと一緒に謝りに行くのよ」
こくりと無言で相手がうなずく。
その気配を感じながら、彼女は再び繰り返し念を押した。
「あんたのせいで、ゼフィにさんざん迷惑かけてるんだからね。後で一緒に頭さげにいくのよ」
「ン、行ク」
「何か言うことは」
少し首をかしげたあとで、相手は淡々と呟いた。
「お腹いっぱイ」
次の言葉が出てくるまで、相当の間が空いた。
「……………………それは、何より」
髪に飾り粉のように降り積もる銀粉を、頭をふって払い落とすとリアは顔をあげた。
「この………バカっ」
「バカ違ウ」
「違わない !! さっさと魔力全部喰ってりゃ、地上であんな大騒ぎにならずにすんだのよ !! 」
言いながら、リアはようやく見慣れた形を取り戻した相手に触れて、ちゃんとそこにいることを確かめた。
空間に満ちていた魔力全部を取りこんだせいか、以前より確実に存在感の増した相手はその小さな手のひらを、リアの頬に押しつけてくる。
その感触に泣きたいほどに安堵した。
「何度だって、あんたを呼ぶわ。あんたが望む通りに、あたしが呼ぶ。このあたしが呼ぶ。あんたがあんたで在りたいと願う限り、あんたの名前をあたしが呼ぶわ」
相手はゆるく瞬きした。
具現化したばかりの髪にも、その睫毛にも、銀の粉が降り積もっていく。
しばらく考えこんでいたらしい相手は、やがて嬉しそうに頷いた。
「ありがとう」
「………あんたからそんな殊勝な言葉が聞けただけでも、呼んだ価値はあったわね」
リアはかすかに笑った。
いまは目の前の二人を救えただけでよかった。
それ以上は望まない。自身のことなどどうでもいい。
ただひたすら、愚かに守り通していけたらと、そればかりを願っている。
「ユズハ」
つと手を伸ばして、そのさらりとした癖のない髪を梳いてやった。オリハルコンの粉が混ざり、白金と銀に輝く。
「大好きよ」
こんな顔ができたのかと思うほど鮮やかに、ユズハが笑った。