Ria and Yuzuha's story:Third birthday【Ultra soul】 収束編〔14〕

 闇のわだかまる聖堂も、二人でいるとおかしなくらい怖くなかった。
 だから、その闇を割って突然ティルトとユズハが姿を現したときも、二人はたいして驚かずに受け止めた。アセリアは自分のあとからティルトもリアも来ることを知っていたし、ユレイアにとっては、アセリアが帰ってきたあとにティルトが続くことは当然のことだった。
「ティル!」
 ユレイアが弾んだ声を出す。アセリアは少しムッとしたが、どちらに腹をたてたのかは自分でもわからなかった。
 ユズハがふわりとこうべを巡らせて、双子を見た。暗闇のなか、月光の射しこんだ朱橙の瞳が獣のように一瞬だけ光る。それがユズハを知らない存在のように見せ、双子を束の間どきりとさせた。
 ティルトが聖堂の床に着地し、ユズハがその手を離す。寝起きのようにティルトは気怠げに頭をふった。
 ユレイアが唱えたライティングの明かりにつられてこちらを向いたものの、その空の色をした瞳がどこを見ているのかわからない。
 怪訝に思い、それでも直接声をかけることはためらわれて、ユレイアはユズハを見た。
「ユズハ?」
「なに」
 ユズハがゆるやかにまばたいた。そこに以前にはなかった存在感と穏やかさを見いだして、ユレイアは驚く。
「クーン姉上はどうしたんだ」
「今から、迎えに行ク」
 あっさりとそう答えられ、ユレイアはようやく心から安堵した。きちんとみんなで明日の朝食をとれそうだ。
 笑おうとした、そのときだった。
「ユズハ!」
 不意の怒号にユレイアは身を竦ませた。
 隣りを見れば、アセリアも愕然としたらしく硬直したまま、怒号した人物を見つめている。声を荒げて怒るところなど初めて見た。怖い。
 しかし怒鳴られた本人はと言えば、我関せずといった風情でその幼い顔を傾げただけだった。
「なに」
 その声の調子はユレイアにそう言ったときとまったく変わっていない。
「何でそのまま連れてきたんだよ! まだ姉さんと話している最中だったのに!」
 ユズハは不思議そうに答えた。
「何も話しテなかっタ」
 ティルトはぐっと言葉に詰まった。
「まだ聞きたいことがあったんだよッ」
「何を聞ク?」
 答えかけて、ティルト口をつぐんだ。おおよそ双子が見たこともないような表情をしていた。
 しばらくユズハを凝視していたが、不意にティルトは苛立ったように地面を蹴りつけた。
「―――いいよ。なら後で聞く。父さんたちを呼んでくる。姉さんを迎えに行って、結界を閉じろよ」
「そうスル」
 ユズハは相変わらず何の反応も見せずにそう言った。
 双子はいままでにないティルトの様子とそのやりとりに体を強ばらせていた。ユレイアはずっと握っていたアセリアの手をさらに強く握って注意をこちらに向けると、そっと目で問うた。―――地下で何が?
 アセリアは黙って首をふった。―――わからない。
 二人にはティルトの様子を的確に表す言葉が思い当たらなかったが、敢えてあげるとしたら、彼はしょげているのではないかと思った。
「違ウ。てぃるのコト、嫌イじゃナイ」
 不意に言われたその言葉に、ティルトが弾かれたように顔をあげる。
「じゃあ、何でだよ」
「知らナイ。ゆずは、くーんじゃナシ」
 その身も蓋もない答え方に、ティルトがあきらめたように息を吐いたときだった。
 唐突にユズハが足下に目をやった。
「くーん」
 次の瞬間、ユズハの姿は消えていた。



 Ria and Yuzuha's story :Third birthday

        【Ultra soul】




 ユズハがティルトを連れ去り、気配が完全に消えたのを確認して、リアは大きく息を吐きだした。
 肺を空にしきった途端、右手が思いだしたかのようにふるえだした。
 その手を見つめ、リアは微かに笑みを浮かべる。
 いまさら何を訴えようというのか、この右手は。
 止めようと左手で押さえこんだが、ふるえは伝染し、終いには両手がこわばって指が伸ばせなくなるほど激しくなった。
 仕方なく、左手を口元にもっていき、きつく噛む。
 ふるえも苦痛も恐怖も、何もかも噛み潰してしまえればいい。
 いつかこのかつえが自分自身を喰い荒らしていくだろう。
 本音を言ってしまえば。痛みや、後悔や、愛情や。そういった、坩堝のように渦巻くあらゆる想いを取り去ってしまえば―――。
(楽しかったわ)
 突き動かされるように剣をふるっていたあのやりとりは、どうしようもなく心躍らせるものだった。あまりにも強すぎる感情にすべては夢のような気さえしてくるほどに、目が眩んだ。
 かつてアーウィスに見られてしまった核が発芽し、葉を芽吹かせ、毒々しい大輪の花を咲かせた。彼はいまの自分を見たらいったい何と言うだろうか。一瞬で花開き、すべてを奪い去りながら一瞬で枯れ果てていった花だった。
 その花と引き替えに永遠に失われたものがある。
 失われてしまったそのものの大きさと重さに能うものなど、この世界のどこを探してもない。そういうものだった。
 剣に狂えるほど純粋でも一途でも、追随を許さぬ高みにあるわけでもないくせに。
 この、胸のうちの花。
 視線を彼方にやったまま、リアはさらにきつく己の手を噛んだ。ふるえる両手はどこまでも他人事のようだった。
 やがてぷつっと皮膚が切れた感触がして、小さな痛みが奔った。鉄の味が口のなかに広がる。
 手を出してみると、じわりと溢れた血がみるみるうちに筋となって伝わり、落ちた。ふるえの止まらない手の勢いで、ふり撒かれるように。
 散った雫がオリハルコンの上に真紅の染みをつけた。鈍い銀色の砂に吸われ、瞬く間に黒ずんでいく。
 よどんだ赤だ。
 不意に、鼓動が異常な勢いで跳ねあがった。
「―――ッ」
 のけぞったリアの動きに金の髪が緩慢な動きで追随する。倒れこんだ先で派手にオリハルコンが飛び散った。
 思わず胸元に伸ばした手が首からかけた鎖に触れ、リアはその先にあるものを強く握りこんだ。
 どういうわけか、口のなかに残る血の味が鮮明さを増した。
 永遠に飼い慣らさなければいけないのは、自分自身だ。
 赤い染料が水煙を揺らめかせながら溶けていく。おりとなってたまっていた彼女自身の闇を喰いながら、むしろそれを濾過してやっているのだと言わんばかりの厚かましさで広がりいく。
 徐々に近づいてくるのは恐怖だ。
 心臓の鼓動がその足音に聞こえた。
 冗談ではない。
 向こうは浸食したがっていたが、こちらはその隙を与えなかった。結果として、接触する二者は攻防の果てにゆるゆると混ざり合い、リアという器を満たしていく。
 ―――混ざり合ってしまえば、どちらでもなくなってしまう。
 それはどちらにとっても本意ではない。
 必死にそうなだめていると、やがて諦めたのか、少しずつその足音は遠ざかっていった。結局、いつもリア自身をおびやかすためだけにこの足音はやってくる。
「………っ」
 動悸のおさまってきた胸を服の上からつかみ、リアは寝返りを打ちざま大きく喘いだ。
 口の端からオリハルコンの粉が入りこみ、体を丸めて咳きこんだ。息が詰まって耳鳴りがする。
 こんなところをあの高位魔族に見られたら―――。
 それこそ冗談ではない。
 頭ががんがんと痛みだすころにようやく咳がおさまった。生理的に溢れた涙を拭って、リアは己の顔をおおう。
 呼吸がまだ荒い。
 どれほど己が無様に思えることか。おそらく疲れ切った醜い顔をしているに違いない。
 誰もいなくなった途端にこの有様だ。よっぽど今夜の一連の事態は自分にとって負荷が大きかったらしい。耐えかねた挙げ句、突き抜けて引き返せないところまで来てしまった。
 胸が締めつけられるようだった。
 リアは不意に、自分はいま泣きたいほど不安なのだと気がついた。幼い子どものように体を丸めて。こんなにも哀れに―――。
 不思議と涙は出てこなかった。
 可哀想。
 思わず笑おうとした喉の奥で呼吸がはぜた。再びむせかえり激しく咳きこむ。苛立ちまぎれの拳がオリハルコンの砂の上に叩きつけられた。
 最悪の状態は過ぎ去ったものの、いつまでたっても呼吸が平常に戻らない。吸っても吸ってもまだ足りないような気がする。息が苦しい。
 指先が冷たくなってきた。爪の間に入りこんだオリハルコンの粒のせいで痛みがあるはずなのだが、その感覚もどこか遠い。
 目の前に星が散りはじめ、意識が遠のく前兆にさすがに焦りを覚えたが、むしろそのことに奇妙な安堵も覚えたときだった。
「くーん」
 頭上から声が落ちてきた。感覚のない手のひらに小さな手が滑りこみ、きゅっと握った。
 反射的にその手を握り返し、意識だけで微かにリアは笑った。
 この自分の振るえに、共振などしなくていい。
 やがて世界が振り切れるときにも、この小さな手のひらの持ち主だけはそのままでいてほしい。
 ねえ、ユズハ。
 あたしの歪みなんか、あんたは知らなくていいのよ。
 ユズハが両手でリアの手を握りなおした。
 空間を渡ろうとしているのだと察して、リアはその手をつかんでささやいた。
「………だめ」
「くーん?」
「お願い………連れて…ないで」
 こんな姿を見られたくなかった。
 何の不安もないように、いつも笑っていたかった。
 あなたたちが愛してくれるリアという存在はこんなにも幸せなのだと。だから心配しないでと。
 この胸の奥の闇と飢えに気づかれないように。絶えず、笑みを。
 どんどん呼吸が速く、止まらなくなってきた。このまま息をしていても、していなくても死んでしまいそうで、リアは思わず喉に手をあてる。
 ユズハは運ぶなと言われて明らかに逡巡していたが、やがて問うた。
「なら、ドコに行けばイイ?」
「――――」
 どうしてそこが思い浮かんだのか、後からいくら考えてもわからなかった。
 ただ、どうしてもこんな姿は身内には見せられなかった。見られるぐらいならこの結界のなかに置き去りにされたほうがましだった。それだけで頭のなかがいっぱいだった。
「……たしを、置いて………それから、結界……直し―――」
 声を出すのに息が邪魔だった。呼吸を止めれば逆に声が出てくるのではないかと思いたくなるほど、ささやいたそばから喘鳴にかきけされていく。
 焦れたのか、最後まで言わせることなくユズハが空間に引っ張りこんだ。文句を言いたいところだが、意識を保つだけで精一杯だった。
 界を渡る。
 一瞬でありながら、眩暈がするほど長いその感覚。
 銀の髪と、銀の瞳。
 まきこまないと、誓った。
 あたしは泣けなくなったのかしら?
 思考がとりとめもなく闇のなかに千切れていく。
 泣きたいくらいに怖くて愛しいものは、何だろう。



 窓際の椅子に座っていたゼフィアは夜の音に微かに吐息をついた。既にその顔に布はない。
 窓の外の風景は天頂にある月の光でおぼろに照らされ、それとは逆に部屋は暗かった。
 さすがセイルーンの王都だけあって、いままで訪れたどんな街よりも賑やかだった。閑静なこのあたりにまで、微かではあるが喧噪が届いてくる。
 おそらくこのあたりは王都の中心部に近い地区だろう。セイルーンもご多分に漏れず、周辺部に行くほど下町となり雑然としてくるが、このあたりは空気も澄んで、おそろしく静かだ。道幅等を広くとり、空間にゆとりを持たせているため、音が跳ね返ってくる対象物が少ないのだ。
 この宿の人間も物腰が丁寧で、落ち着いた話し方をしていた。何より、いまゼフィアがいる窓際の窓は指で叩くと硬く冷たい反応が返ってくる。硝子だ。
 セイルーンに入ったリアが真っ直ぐここに向かったということは、少なくともこの宿の存在を知っていたということだろう。いったい一泊いくらするのか怖くて聞けない。
 ここがどこかも説明する暇もなく飛び出していったリアの様子を思い出して、ゼフィアは思わずこめかみに指をやった。
 何も言わなかったが、その気配だけでわかる。焦燥と鮮やかな怒りをまとって、時間を失えば失うほど取り返しがつかないのだと全身で叫んでいた。
 セイルーンへの旅路を急いだその原因が、いままさに事を起こしているのだと。
 止める理由などどこにもなかった。けれど案じる思いはあった。
 サイラーグを発って以来、またいつだったか、その途中の宿で夜中に倒れて以来、急流を流れ落ちていく水のように、どんどんとその気配が危ういものになっている。
 彼女自身、それに気づいていながらも素知らぬふりを装っているようで、ゼフィアは案じながらも指摘することができずにいた。
 彼の名前を呼ぶ声が、脳裏に鮮やかによみがえる。それとともに、見えるはずのない金髪がまぶたの裏をよぎるような気がした。―――別に聞いてもいないのに、喜々として彼女の容貌を解説してくれたアーウィスのせいだろう。
 見たいものはどんどん増える。
 そして見て、触れたいものも。
「信じてもいいのですか―――」
 わずかな明かりにも痛む目を覆い、ゼフィアは独りささやいた。
 親友と彼女に背中を押されるようにして、この白魔術都市へとやってきた。そのことを。
 セイルーン。白魔術都市と称される、治療魔法がもっとも発達している街。一度、目が見えているときに、遠目にしながらも立ち寄ることを避けた街。
 この街で治らないと宣告されることが怖かった。
 臆病なのはもはや自分の性だった。見たいものがあることのほうが怖い。期待するとそれが外れたときの痛みが大きい。
 手遅れかもしれなかったが、それでもまだ見たいものなどないと嘯いていたかった。―――見て、触れたいものがあると、はっきりと自覚したからこそ。
 傾いていく心をどうやって押しとどめればいい。
 どこまで自身に嘘をついたまま生きていけるだろうか。
 初夏の夜気は少し冷気を帯びながら、軽やかに渡っていく。これから奔放な夏が始まるのだと告げ知らせながら。
 さすがに深夜ともなると涼しさが肌寒さに変わり、ゼフィアは椅子から立ちあがると手探りで窓を閉めて掛け金をかけた。いいかげん寝なければ。
 気配が部屋に出現したのはそのときだった。
 まったく何の物音も前兆もなかった。突然そこに現れた何かのせいで、いままでその場にあった空気が押されて動き、室内にゼフィア以外の存在が新たに出現したことを告げたのだ。
 視線の定まらない双眸が気配の主をたどってさまよった。
「クーン?」
 ゼフィアの耳は、闖入者が身じろいだ気配をとらえた。靴音や衣擦れや呼吸の音に混じって、ユズハの声がする。
「ぜあ」
「ユズハ?」
 声のする方に一歩近づいたときだった。
「任せタ」
 問い返す暇もない。いきなり何かを押しつけられた。温もりと重さからそれがリアだとわかったが、状況がわかったからとて事情が判明するわけでもない。
「ちょっと待ってください、ユズハ。どういう―――」
「やるコト、あるから。後デ」
 にべもなくそう応えると、再び何の脈絡もなしにその気配は部屋から忽然と消えていた。足音や扉の開閉の音などいっさいしていない。
 唖然としながらも、とりあえず名を呼んでみた。
「ユズハ?」
 応えはない。煙のように消えたのだと納得するしかなかった。前々から何をしてもおかしくないとは思っていたが、これは極めつきだ。
 不意にリアが体の均衡を崩してよろめいた。
 そのままくずおれるように座りこんだため、引きずられるように彼も床に膝をつく。
「クーン?」
 呼ぶと、息を吸いこみ損ねたように相手の喉がなった。指が食いこむほどの力で強く腕をつかまれる。
「クーン、どうし―――」
 問いただそうとしたゼフィアの言葉は途切れた。
 つかまれたところから伝わってくるふるえが尋常ではない。指が硬直したままおこりのようにわなないている。
 呼吸が速すぎる。全身がふるえて上手く吐くことも吸うこともできずにいるにもかかわらず、無理に息をしようと喘いでいた。笛のように喉が鳴る。呼吸のし過ぎだ。
 荷物の中にある幾つかの薬草のことが思い浮かんだが、その使用は思いとどまった。調合している暇などないうえに、この手を離して行くことなどできない―――。
 相手の状態を確認すると、ゼフィアはその肩を引き寄せて抱きこんだ。そのまま手で鼻と口を塞ぐ。
 呼吸を遮られる恐怖に相手がびくりと身を竦ませた。
「落ち着いてください。指の間には隙間があります。ゆっくり息をして」
 なだめるようにゼフィアは指示を出す。
「自分の吐いた息を吸いなおすように呼吸をしてください」
 微かに相手が頷いた。
 やがて、ゆっくりとではあったが過度の呼吸は治まっていった。ふるえも徐々に小さくなっていき、痛いほどにつかまれていた腕からそっと指が離れていった。
 離れたその冷たい指がゼフィアの手にかかり、顔からのけていく。
 ふ、と吐息が指先にかかった。熱と、うるみ。
 この目、が。
 もし見えたとしてら。
 見て、触れたいものが―――。
 時間が音もなく降る雪のようだった。
 やがて、ゼフィアはそのことに気づいた。
 確かめようと持ちあげた指先が相手の髪にからまる。狼狽した相手が身を離そうとしたが、彼は強引に先ほどまで触れていたその頬を探しあてた。
 その濡れた感触に、自分の手が遠ざけられた理由を知る。思わず溜息がもれた。
 気づかれたこと悟ったリアは、笑おうとしてそれが無意味だと悟った。
 闇のなか、視線がからんでいるのかなど、知るすべもない。知りたくもない。
 暗くて暗くて、何も見えない。
 窓の外では月ばかり明るい。
 リアは小さく首をふった。何を言おうとしても、ごめんなさいしかにしかならないことがわかっていた。言いたくなかったし、ゼフィアもそれに気づいて、聞きたくないと思った。暗くて暗くて、何も見えない。共に―――。
 結局、互いの唇を塞ぐことを選んだ。