Ria and Yuzuha's story:Third birthday【Ultra soul】 収束編〔15〕

 何度飛びこんでみても、精神世界面アストラルサイドはわけのわからない世界だった。
 たえず揺らめき、きらめき、光に満ちているかと思えば真底の闇のように暗い。ユズハの思考の経緯に添って、ゆるやかに色も形状も在る空間さえも変わっていく。正確に言えば、その捉え方が変わっていく。精神世界面の本質は何も変わらない。
 つまりは、ひどく相対的なのだ。
 理解してしまえば順応も早く、空間を渡っている途中で自分以外の存在に気づいたユズハは多少流されつつも、うまくその場にとどまることができた。
 精神世界を介して空間を渡る以上、途中で立ち止まってしまえば、水中に揺らめく水草のような、ひとつの精神生命体に過ぎない。
 ゆるゆるとまつわりつく周囲が圧迫感を増した。ねばりつくように重くなり、のしかかる。
 距離を置きながら、ユズハはこちらに意識を向けている存在と相対した。
 さっきからずっとこの思念は笑っている。笑っているくせに、その意図が読めない。精神世界面に渦巻く力の流れから、完璧に自己を遮断して輪郭をはっきりと保っているのだ。下手をすると爆笑しているのではないか。
 さっさと無視して物質界との境界に向かおうとすると、じわりと圧迫を加えられた。周囲の流れがさらに言うことを聞かなくなり、ユズハを押さえにかかる。
(これはこれは………ずいぶんたくさん食べられましたねぇ)
 笑みを含んだ思念が黒い泡のように弾ける。
 そこでようやく、相手が以前に出会った魔族だと気づいた。この魔族が先刻空間を渡るのに四苦八苦していた自分を助けたことなど、きれいさっぱり脳裏から抜け落ちていた。
 相手に対して何の感情も持ち得なかった。ただ淡々と意識と意識を向き合わせる。
 結界を修復しに行かねばならないのだ。邪魔以外の何ものでもない。
(マゼンダさんは確実に越えますねぇ………)
 一人で何だかぶつぶつと言っているようなので、わずらわしくなって退けとばかりに睨みつけると(といってもそういう思念を発しただけなのだが)、さらに魔族は笑った。
(消しておいたほうが後々面倒がなくていいんですが………気が変わりました)
 周囲からの圧力が速やかに退いていく。これ幸いとばかりにユズハは『境界』までの最短距離を移動した。
 遠のいていく相手から微かな思念が届いたが、さっぱり意味がわからなかった。
(お待ちしてますよ。彼女と一緒にこちら側にいらっしゃる日を)
 そして別の『境界』から、魔族も物質界へと姿を消した。魔族の行く先など興味はない。近くではないことが気配でわかった。
 空間が開け、それに合わせて五感を構築する。
 ユズハは結界内に実体化した。



 Ria and Yuzuha's story :Third birthday

        【Ultra soul】




 闇のなか、ぽつりとゼフィアが呟いた。
「お互い、似たもの同士ですね」
 先ほどまで二人を包んでいた沈黙が、その呟きにひっそりとその場を明け渡して去っていく。
 窓際に立っていたリアは、部屋のなかをふり返った。
「どういうこと?」
 気怠げに彼女は頭をふった。さらさらと髪の鳴る音がする。
 ゼフィアは指で目を押さえた。
 無意識に目をこらしてしまった。見えはしないかと。
 光を求めて。
「足を踏まれていても、相手の足をどけることで他の誰かに迷惑がかかるぐらいなら、そのまま我慢する手合いでしょう?」
 何度目かの溜息が闇のなかにとけた。
「そうかもね」
「ときどき、あなたが剣士かどうか疑わしくなりますね」
 ゼフィアの言葉に、窓際に立つリアはほろ苦く笑った。
 皓々と外は明るい。月の光が落とす影は青黒く夜のなかにわだかまる。
「もっと、怒ってもいいのよ」
 相手は静かにかぶりをふった。まとめられていない銀髪が微かな音をたてて揺れる。暗がりのなかで、わずかな光をとらえて輝く。
「あたしは―――」
 口のなかが、ひどく乾いていた。
「あなたをないがしろにしたのよ」
「いいえ」
 穏やかにゼフィアは微笑した。
「あなたはここにいます」
「だからよ」
 リアの声はかすれていた。
 自分が大事だと思う誰かに迷惑がかかるぐらいなら、そのまま我慢する手合いだと、ゼフィアは言った。
 それはつまり、何とも思っていない相手になら平気で迷惑がかけられると言っているも同然で、リアがいまここにいるのはそれを実行したからだった。指摘したゼフィアがそれに気づいていないはずがない。
 うつむいたリアの視界を自分の髪がカーテンのように遮った。
 どうしてうまくやれないんだろう。
 どうしてうまく生きていくことができないんだろう。
 ゼフィアが近づいてくる足音がした。
 顔をあげると、正確にその気配をとらえて彼は立ち止まり、当惑しているリアの手をとった。
 気怠さとやるせなさが絡み合って、背筋をはいあがり、痺れとなって彼が触れる指先に溜まっていく。指先から銀の粉が散るような気さえするほどに、それは奇妙に熱を持つ。
「あなたはここにいいます」
 ゼフィアは目を伏せ、同じ言葉を繰り返した。
 彼女が無意識に当てこんだ先が自分であったことのほうが、嬉しい。
 しかしそれを口にすることはない。自分だけが知っていればいいことだった。
「私はそれだけでいいんです」
「よく、わからないわ………」
 リアはかぶりをふった。
「私は怒ってなどいないということはわかりましたか」
「それはわかったわ」
 やがて、リアはひとつ嘆息して、ゼフィアを見た。
「あなたにもわかっているわよね。お互い似たもの同士なら、忠告しても自分の首を絞めるだけだって」
「―――ええ」
 ゼフィアは微かに苦笑した。
「何も言いませんよ。ただ、来てください。私でよければ助けます」
 二人は黙りこんだ。
 互いに互いのことをひどく嘘つきだと思ったが、その理由まではわからなかった。何も言い表せそうになかったし、かといって黙っているのも、ひどく気詰まりで居心地が悪かった。
「………明日、ちゃんと迎えに来るわ。ユズハと一緒に」
 そっとリアはささやいて、窓枠に手をかけた。魔法を使って翔んで帰るつもりだった。王宮には潜りこむことになるが、しかたがない。連れ出すようにユズハに命じた自分が悪いのだ。まさか疲労の果てに王宮に潜入する羽目になるとは思わなかったが、最悪、見つかっても何とか取りなしてもらえるだろう。もう何もかもが面倒くさくて、ひどく投げやりな気分だった。
「クーン」
 名前を呼ばれて、リアはふり返った。
 耳元で鼓動が鳴っていたが、それはいつも彼女を脅かしに来るそれではなく、髪から指先までが心臓になったかのように、熱を帯びてざわめく音だった。そのくせ、ひどく冷めてもいた。
 首を傾げかけて、それが相手には見えないのだと気づいて、慌てて声に出して返事をした。
「なに?」
 半年以上、共に旅をしてきたいまになって、やらかすとは思わなかった失敗だった。
 口を開くことをためらっていたゼフィアは、やがて唐突に尋ねた。
「月の光は、明るいですか」
 リアは窓の外を見た。
 暗く沈む影が濡れたような青い光に縁取られて光り、二階の窓から見あげる空はまるで水面のようだ。ここは、水底。
「ええ、とても明るいわ。でも、それが?」
「いいえ」
 静かに首を横にふって、ゼフィアはそれ以上何も言うことなく、触れていたリアの手をそっと放した。
 これで、たしかなものは消えてしまう。
「おやすみなさい」
 だから、リアは殊更そう口に出して、呪文を唱えながら窓枠を蹴った。巻きおこった風に、残されたゼフィアの髪がひととき舞いあがり、すぐにまた落ち着く。
 無言で彼は窓を閉めると、その冷たい硝子に頭を預けた。
 忘れようと思ったものは。無視し続けてきたものは。
 押しとどめられず、結局、自分は。
 突然の光の中、目が覚める。
 真夜中に―――



 椅子にもたれ、獣王はひとつ溜息をついた。
 群狼の島は物質界にありながら、あまりに長い間、結界の要として使用されて来たせいで、獣王の気がもっとも安定する場所となっている。
 神封じの結界は解けているため、もはやこの地にいる必要はないのだが、獣王は物質界に具現化した場合はここにいるのを常としていた。理由は単純で、物質界でここがいちばん居心地がいいのである。
 足を組み、頬杖をついている獣王の視線は足下に散らばったカードに注がれていた。
 裏も表ももはや関係なく、ばらばらに床に散った一組のカード。人間たちが娯楽につかうそれは、あまりにもこの群狼の島という場所が意味するものにそぐわない。
 不意にカードが音もなく溶け消えた。
 次の瞬間には獣王の指先に一枚のカードが出現する。自身が創りだしたそれに、ちらりと目をやり、嘆息混じりに彼女は正面に控えているただ一人の配下に向かって呟いた。
「お前がもってくる報告はいつもろくなものがない」
「ひどいですねぇ。今回は誉められてもいいと思うんですが」
「時期が問題だ。これが千年後だったなら、お前が嫌がるぐらい誉めてやる」
 素っ気ない口調でそういった獣王が急激にその存在感を増した。精神世界面アストラルサイド側の本体と、物質界に具現しているその比率を逆転させたのだ。身内に聞かれたくない話をするにはこのほうが具合がいい。
 応えてゼロスもそれに倣う。
「予測のうちとはいえ、あまりにもひどい偏りようだ」
「放っておきますか」
「個人的にはそうしたい。あと千年待ちたいところだが、そういうわけにもいかんだろう」
 獣王がスイと目を細めた。
「ただし問題は、この波が我らの手に負えるものかということだ………」
 配下の神官は答えることなく、深く頭を垂れた。
 やがて、再び溜息が落とされる。
「やむを得ん。これが均衡を取り戻すための偏りなら、波をかぶるしかあるまいよ」
 彼女は部下に向かってカードを指で弾いた。
 描かれているのは、カードにのなかには無いはずの三枚目の愚者だった。すぐに金色の炎をあげて塵と化す。
 一拍を置いて、獣王は命令を発した。
「他の二人には伏せておけ」
 部下の表情に微妙な色がたゆたった。どちらかといえば、おもしろがっているような顔だった。こちら側で密談を始めた時点でわかっていたことではあったが、改めて口に出されるとつついてみたくなるというものだ。
「答えないと滅ぼす―――と言われたらどうしましょう。言っちゃってもいいですか?」
「滅ぼされてしまえ、馬鹿者」
「薄情な上司ですねぇ」
 獣王は鼻でわらった。
「上司を売るような部下などいらん。以前の魔竜王ガーヴの時のように体半分削られて泣きついなどきてみろ、叩きだしてやるからそのつもりでいるがいい」
「肝に銘じておきましょう。ああ、お役所仕事って哀しいですねぇ………」
「フン」
 一笑し、獣王は性格の悪い己の部下を睥睨した。
「楽しい、の間違いだろう。笑いながら何を言う」
 言い放ったその唇から、スッと笑みが消えた。
 次の瞬間、恐ろしいまでの威圧感と共に命令が下された。
「慎重を期せ。覇王のような失敗をして私を怒らせるな。時間はどれほどかかろうとかまわない」
「は―――」
「気づかれるなよ。―――敵にも、味方にも。リナ=インバースの娘自身にも」
 ゼロスの唇がゆるゆるとつりあがる。
「仰せのままに―――」
「では行け」
 黒衣の神官はその姿を消した。
 獣王はさきほど己が生み、消したカードを思いだし、微かに眉をひそめた。
 世界は一組のカードと同じだ。世界の枠組みを一組ととらえてしまえば、その中でうごめくものは、皆等しく一枚のカードと見ることができる。―――人間たちは、ときどき自覚がないままに思いもよらない物を考えつくものだ。
 一組のカードに突然、見たこともない絵札や規定以上の数字が現れることはない。もしそれが現れたとしたら、それはここではない別の世界からもたらされたものだ。
 定められた因果律カードがあるからこそ、世界だ。
 そして、そのカードの並びには、過去のカードの並びが絶えず影響を及ぼし続ける。
 混ぜられたカードのなかで偶然、数字が続いた後に絵札が続くのは、必然。それが枚数の決められたカードのなかでの均衡だからだ。偏れば、もう一方も偏る。均衡をとるために。
「―――だが、遊戯者からするとたまったものではないのさ」
 皮肉に笑い、獣王はその姿を闇に溶けこませて消えた。