Ria and Yuzuha's story:Third birthday【Ultra soul】 セイルーン編〔5〕
イルニーフェが到着したという知らせを聞いて、ユレイアは白墨を持つ手をとめた。
義理の叔母である彼女が来たのなら、とりあえず混沌の言語の音律を楽譜に書き起こす作業は中断だ。
魔道書に栞をはさんで閉じると、混沌の言語と音階記号の書き散らされた石盤はそのままに、ユレイアは立ちあがった。
母親の侍従長として、また親しい姉分として、厳しいながらも双子を可愛がってくれた彼女とは、マラードへの降嫁以来、隔幻話越しでしか会っていない。
曾祖父であるエルドランの国葬と、同時に執り行われた祖父であるフィリオネルの即位の大祭のときにはリーデットと共に来ていたが、短い滞在ですぐに帰ってしまった。
だから今回は長めに滞在すると聞いて、心待ちにしていたのだ。
それはアセリアも同様で、二人してあれこれ話したいこととかを数えあげていたのだが―――それもケンカする前の話だ。
共有の居間のほうから伝わってきたアセリアの気配に、ユレイアは椅子にまた座りなおした。
いまここでアセリアと鉢合わせして、互いに譲らず、二人して競うようにイルニーフェのもとに行ったら、怖い。イルニーフェが怖い。
二人のケンカの原因を知っていながら、にっこり笑って問いただすに決まっている。
(ニーフェ姉上に相談しようとは思っていたのだが………)
継承権の問題を、ユレイアは誰にも相談していなかった。
誰もそのことを話題として彼女に持ち出さなかったせいもあるが、ユレイアなりに、こういうことを相談できるのはイルニーフェしかいないと思っていたのである。
ただし、相談するにしても、こっそり一人で行こうと思っていたのだが。
(………アセリアも、同じコトを考えていそうだな)
そう考えて、ユレイアは沈鬱な表情になった。
ずっと一緒に育ってきた双子の姉妹。
どうしてわかってくれないんだろう。
それとも―――自分がずるいんだろうか。
そんなに王様になりたいんだろうか。
心の底から彼女が玉座を望んでいるのなら、自分が折れたほうがいいんだろうか。
「………アセリアに王様なんて無理だな」
嘆息して、ユレイアはまた音階記号を書きつけ始めた。
部屋には幾つもの宝珠の他に、混沌の言語そのものに関する魔道書が雑然と転がっている。自室では棚にきちんと整頓されていたのだが、借り住まいのこの部屋では持ってきた状態のまま、テーブルの上に平積みで放置されていた。
ユレイアが魔道に興味を持ったのはある意味、必然であり偶然でもあった。
高名な魔道士を母に持つリアやティルトが魔道を学ぶのは当然で、その二人とずっと一緒に遊んでいた双子が魔道を習いたがるのは必然だった。
しかし、ユレイアが周囲の予想を超えるほど、遙かに熱心に魔道を学ぶようになったのは、彼女自身の音楽の才能が原因で、これは偶然だった。
ユレイアには、魔道の師となってくれたリナの唱える呪文が、どうしても歌にしか聞こえなかった。
もちろん混沌の言語と力在る言葉はきちんと教えこまれたし、混沌の言語の意味を考えて呪文を組み立てるように教わってもいたが、それでもやはりその意味を捉えるよりも、響きのほうが気になってしまう。
その呪文の音楽に、一連の法則性があることに気づいたのは、ユレイアからすれば当然だった。よく考えなくとも呪文には決まった形式があって、結びの言葉などは同じだったりするから、どの呪文も似た旋律になったりするのは当たり前だ。
すぐにユレイアはその法則性を理解すると、自分の呪文の組み立ての中に取り入れた。すなわち、この音律は風で、この音程だと土、この長い一連の響きは結びの呪文。だからこういうふうに音を連ねて唱えばこの魔法が発動するはず―――と、まるで文法分解のように呪文の音律を分解し、それで呪文を組み立ててしまったのである。
本来の組み立て方は頭から無視したが、呪文は正しく発動した。
ユレイアの呪文の組み立て方を見て、父親のゼルガディスとリナが感心したように何事かを話し合っていたのが、内心でちょっと自慢だった。混沌の言語の発音と単語の暗記に四苦八苦していたアセリアとティルトからは、さんざん羨ましがられて、恨めしそうな顔をされた。
そして、ユレイアは魔道に―――正確には、呪文そのものに興味を持ったのだ。
なぜ、ただの言葉に因と果を律する力が?
特定の発音で特定の音を発生させたとき、どうして理を曲げて、力が生じるのか?
混沌の言語の研究は、昔から魔道士のあいだで盛んにとりくまれている研究のひとつだが、ユレイアも別の観点からその研究に興味を持った。
混沌の言語に含まれる音そのものが気になっている。もしかして、すべての律それぞれにに対応する音というものがあるのではないだろうか。
そう思いついて以来、ずっとなかば趣味のように魔道の研究をしている。
もしかしてリナに似たのって実はユレイアじゃないですかね、と、母親が苦笑混じりに話していた。
アセリアのほうは理論を修め、すべての呪文を自力できちんと組み立てられる段階まで行くと、それ以上は興味が持てなかったのか、あっさりとやめてしまった。
ティルトもその姉であるリアも、そのもうひとつ上の段階である呪文をアレンジできるところまで達すると、アセリアと同じく学ぶことをやめてしまったので、リナの直弟子はいまのところユレイアひとりしかいない。
いま部屋に無数に転がっている宝珠は音声記録用のそれを、リナに手伝ってもらって改良したもので、手元の盤に呼応して任意に音を再生したり切ったりできるようになっている。
それを使ってユレイアは日々何をやっているのかというと、オーブに力在る言葉を一音ずつ記録し、世に無数にある呪文の音律をひとつひとつ楽譜に記し、そこに発音の仕方を書きこんでいくという、地味なことを黙々とやっているのである。
母親が不安を覚えるのも無理はない。自分でも時々どうかと思うときがある。
しかし、特にすることもなく、気詰まりなときにはちょうどいい。
いまやっている崩霊裂の音律分解さえ終えてしまえば、黒魔法のほうにとりかかれる。
「無限よ、り………」
呟きながら音階を記入していたところで、部屋の扉がノックされた。
「はい」
石盤を放りだし、白墨で汚れた手を行儀悪く服の裾で拭いてから、ユレイアは扉を開け―――そして硬直した。
「せっかくマラードからきた義理の叔母に、そちらから挨拶には来てくれないのかしら?」
「ニーフェ姉上………」
呆然と呟いてから、ユレイアは呼びなおした。
「妃殿下」
イルニーフェは少し呆れた顔をした。
「一応、宮廷儀礼を守るつもりはあるようね。でもいまは無意味だからおやめなさい。あたしは公妃としてあなたに会いに来たわけじゃないのよ。そのことくらい承知しているでしょう?」
ユレイアが頷くと、イルニーフェはあっさり言った。
「で、どうしてあなたは王になりたいの」
前置きもへったくれもない。
ソファに案内してもいない。扉を開けてまだ立ち話の段階である。
「アセリアは?」
イルニーフェの目がすうっと細くなった。
めちゃくちゃ怖い。
ユレイアは内心怯えながらも、イルニーフェの質問には答えずに訊き返した。
「アセリアには、もう会ったんですか?」
「あたしの質問に答えていないわよ。ユレイア=エディ=アルト=セイルーン」
「はい………」
ユレイアは深く息を吸って吐いた。
「………どうして王様は二人ではいけないのか」
イルニーフェは軽く目を見張った。
「覚えていたのね。それで、答えは出たのかしら?」
「王はただ一人だからです。山の足場は上に行くほど小さくて、てっぺんには一人分の土地しか空いてない。狭すぎて、頂点に並び立つことはできない。一緒に立ったつもりでいても、必ずどちらかが下になって、嫌な思いをする―――」
「そうなるのはどうしてかしら?」
長い沈黙の後で、ユレイアは答えた。
「王様に頭を下げる人がたくさんいるからではないからでしょうか。二人いる王様の両方に、公平に頭をさげるのは難しいと思います。最初はきちんとそうやっていても、長い間に偏ってしまう。私たちはそんな思いをしたくないから、二人で王様にはなりたくありません」
イルニーフェは微笑んだ。
「五十点をあげましょう」
「何点満点ですか」
「百点よ。残りはもう一人が答えないとね」
言って、イルニーフェは笑みをおさめた。
「では。どうしてそこまで答えを出して起きながら、あなたたちは今更ケンカなんかしているのかしら? もしかして、そこまで答えが出たから争っているの? もう一度だけ訊くわよ。ユレイア=エディ=アルト=セイルーン。どうしてあなたは王になりたいの」
ユレイアの母親と同じ色の瞳が揺らいだ。迷うように一度そらされる。
それだけでイルニーフェには充分だった。いったい、何がどうなってこんな事態に陥っているのか、直観でわかってしまった。
久方ぶりの怒りが腹の底からわきあがってくる。
娘時代並に腹が立ったが、そこで十三の子どもに怒鳴りつけないだけの分別はできていた。
………相手によっては怒鳴っても良かったのだが、ユレイアやアセリアはどことなく打たれ弱いような印象があって、何となくためらわれるのだ。
「………あとはアセリアね」
ことさら抑えた口調で言われ、何のことかわからずユレイアは困惑したが、イルニーフェはかまわず続けた。
「この分だと、向こうも同じことを考えていそうだわね。………ああ、馬鹿らしいこと」
「ニーフェ姉上?」
呟いたユレイアは、遅まきながら目の前の相手の双眸に冷ややかな憤りが宿っていることに気がついて、声もなく硬直した。
「もうこれ以上、あたしはこの問題に関わらないことにする。相談を持ちかけてもムダよ。これはもう、どうしようもなくあなたたち二人の問題でしかありえない。非常に困ったことにね」
相談するなと告げられて、ユレイアは鼻先で扉を閉められたような気がした。
イルニーフェなら、厳しいながらも相談に乗ってくれて、的確な助言をくれると思っていたのに。
「―――アセリアに対してもこれから同じことを言いに行くわ。さっきの五十点は白紙よ。困ったことに、あなたたちは根本的に、全然わかっていない。もう一度だけ訊くわよ。どうしてあなたたちはドレスを着るの? ドレスが着られるのはあなたたちの責任じゃないけど、ドレスを着ていることを選んだのは間違いなく責任よ、あたしも、あなたも。
そしてもう一問、どうしてあなたたちの母親は王位を継ぐのかしら?」
「え………?」
ユレイアが聞き返す前に、イルニーフェは扉を閉ざしてしまった。
慌てて開き直すと、居間と外の廊下とを繋ぐ扉が閉じるところだった。イルニーフェは出て行ってしまったのだ。
しかたなく、扉を閉じて鍵をかけた。
音階記号の続きを書く気にもなれず、髪をほどいて、そのまま寝台に寝転がる。
羽布団の泉から溢れ出すように広がる髪は、両親と同じ濡れた艶の漆黒。
顔の上まで両手を持ちあげて眺め、ユレイアは子供らしかぬ笑みを浮かべた。
自嘲の混じった、ほろ苦い笑い。
「………ニーフェ姉上には、バレたな。やはり………私がずるいんだろうな」
本心ではないのに、本心のふりをしている。
何か行動しようと思っても、いつも自分は空回り。
しかし、紛れもなく真実そう思っていることには、間違いがない。
―――困ったことに、あなたたちは根本的に、全然わかっていない。
脳裏で反響する言葉に抗う気も起きず、目を閉じる。
持ちあげていた腕がそのまま顔に落とされて、瞼の上に影を作った。
「その通り、わからないことだらけなんです………ニーフェ姉上」
ただひとつ、わかっていることがあるとしたら。
それは、自分が絹の服を着ていられる理由でもなく、母親が玉座を継ぐ理由でもなく―――
ユレイアは少し泣きそうになりながら囁いた。
「声さえあればいいと、時々思ってしまうことなんだ………」
『―――だけど、この決断が間違っているとは思わない』
『―――だけど、この決断が間違っているとは思わない』
「わたしが思いあがっているんでしょうけど………」
中庭の四阿で猫を抱えたまま、アセリアは沈鬱な顔で呟いた。
到着の知らせを訊いて、真っ先に会いに行ったつもりが行き違いになってしまい、イルニーフェに会ったのはついさっきだった。
顔を見るなり開口一番、
「それで、あなたはどうして王になりたいの?」
と、訊かれ、アセリアは半ば反射的に、
「わたしがならなくてどうするんです!」
と、怒鳴り返した。
するとイルニーフェは興味深げに少し表情を動かしたが、すぐに目を細めてアセリアを見た。
「昔のあたしも似たようなことを言ったけれど、どうやら根本的に理由が違うみたいね。ユレイアともまた微妙に違うようだけれど」
先にユレイアのほうがイルニーフェに会ったという事実に、アセリアは少しうろたえた。
「どういうことですか」
「あなたからもユレイアからも、この件に関して相談を受ける気はないということよ。どうしてだなんて訊くのは、そろそろあたしの忍耐に限界がきそうだからやめてちょうだい。そう訊くこと自体がその理由なのよ」
アセリアが黙ると、イルニーフェはいつかの宿題にさらにもう一問付け足してから、その場を去っていった。文句を言う暇もない。
さっきから無意識にずっと撫でている猫は、愛撫に目を細めてとうとう微睡みはじめた。
どうやら、このケンカは誰も仲裁に入ってはくれないらしい。
自分だけであの頑固な石頭を納得させることは、果たして可能なのだろうか。
考えるだけで、どんどん気が重くなっていった。
ふとティルトがいればいいのにと思ったが、同時にいなくてよかったとも思った。
おそらくきっとティルトは誰より的確な助言をくれる。わけがわからなくて腹が立つくらいに正しい言葉。だけど、もしユレイアのほうに味方されたら面白くない。
でも、自分に味方されても面白くない。
当分―――この問題が片づくまで帰ってこなくてもいい。片づいたらさっさと帰ってきてほしいけれど。
「どうしてなんですか」
アセリアは低く呟いた。
どうしてわからないのか。
そんなに王様になりたいんだろうか。
もし、ユレイアが心底そう思っていたとしても、
「折れてあげません」
意地でも譲ってやるもんか。
「ニーフェ姉さまには、きっとわからないんでしょうね」
間違いなく、義理の叔母となった女性のほうが、わかっていることは多いのだろうけれど。
そう考えてアセリアは思い違いに気づいた。
イルニーフェにはわからないのではない。
(そう考えないだけ。思ってもみないことなんです)
だけど自分はそう思うから。
思うから、逆にそれを望む。
どれほど無様な理由だろうと、この決断が間違っているとは思わない。
(わたしには何もない)
何か得意なことがあるわけでも、双子の片割れのように圧倒的な歌声を持っているわけでも、秀でた才があるわけでもない。
楽器を習い始めたのだって、ユレイアが唱うから。
その歌に添う音を奏でてあげたかったから。
実際はむしろその逆で、どんなに即興で弾いても向こうがぴたりとそれに合わせてくれる。
「………ああもうっ!」
考えることに疲れて、アセリアは勢いよく立ち上がった。猫が膝から滑り落ちていく途中で目を覚まし、抗議の声をあげながら逃げていった。
「―――ユレイアなんか大っ嫌いですッ!」
イルニーフェにどれほど怒られようと、自分は退く気はない。
そろそろ我慢の限界は近い。
ならばさっさと直談判をしにいくのが最良の手段だった。