Ria and Yuzuha's story:Third birthday【Ultra soul】 セイルーン編〔8〕

 真っ赤な目をしたアセリアに、すれ違う者が視線が絡みつく。
 詮索するもの、いぶかしげなもの、心配げなもの、何か問いたげなもの。
 それらをふり払うようにして、アセリアは居場所を求め、王宮内をさまよった。
 ユレイアのように、心のよりどころにする場所があるわけじゃない。あの仮住まいの部屋にそのまま居続けるのは耐えられず、禁じられた自室のほうに戻るにはユレイアと鉢合わせしそうで、それも心底怖かった。
 赤い目を、それでも隠さず敢然と顔をあげて歩き続けるうちに、アセリアはひとつの場所にたどりついた。
 人気のない方、人気のない方へと進むうちに、自然とたどりついてしまった場所だった。
「大聖堂………」
 回廊と聖堂内を隔てる扉はない。回廊から見える聖堂の印象に、いつもと違う感じを受けたが、感情が飽和状態の彼女はそれを己のせいだと決めつけた。
 ここなら誰もいない。
 聖堂の石床に、靴音が大きく反響した。
 折しも夕暮れ時で、天窓から茜色に染まる空が見えた。まるでその色の硝子をはめこんだ窓のようだった。
 明るい空とは対照的に、聖堂の床に近づけば近づくほど、円筒形の空間は水底のように暗さを増していく。
 アセリアの着ていた服が暗がりのなか、茫と白く浮かびあがった。
 中心に据えられた赤の竜神像の下まで行くと、ユレイアはそこで膝を抱えて座りこんだ。
 父親譲りの薄い蒼の瞳が、暗く沈む。
「違うんです………」
 あんなことを言いたかったわけじゃない。
 傷つけたかったわけじゃない。
 むしろその逆で。
 なのに言った言葉は戻らない。なかったことにはできない。
「どうしよう………」
 ユレイアとケンカして、嫌い合って、王様になれたとして。
 自分は嬉しいか。
 嬉しくない。決まっている。
 だけど我慢はできる。
「ねえ、泣かないで」
 小さい頃は自分のほうが泣き虫で、ユレイアは滅多に泣かなかった。
 それはいまでも変わらない。自分のほうも泣かなくなっただけだ。
 けれど、泣かせてしまった。
 アセリアは己の腕を抱きしめるようにきつく掴んだ。
「やだ……もうやだ………どうしてわたしたちが王にならないといけないの?」
 泣き言を言ってみたところで、答えはもう自分の中にある。
 そう生まれ、それを受け入れて生きてきたからだ。
 ドレスが着られることは自分たちの責任ではないけれど、着ていることを選んだのは事実だから。そしてまた、それを脱ごうとも思わないから。
「どうして母さまは王になるんですか。どうしてそう決めたんですか」
 苦しくて、大変で、つらいことばかりなのに。
 そばに父がいてくれて、我慢はできるけど、嬉しくないはずなのに。
 どうして、そうしようと決めたのか。
 ここに母はおらず、答えも返ってはこなかった。
 アセリアは両腕の間に顔をうずめる。
 陽が落ちるまでは、ここに、こうしていようと思った。



 気がつくと、部屋は既に薄暗くなっていた。
 ただカーテンの隙間からこぼれる光の筋だけが、見事に赤い。
 ここは暗い。
 熱を持った己の瞼をきつく押さえて、ユレイアは窓辺に近寄ると、カーテンを引き開けた。
 強い西日が射しこんで、ユレイアの指も爪も朱燈に染める。
 あの部屋に帰りたくない。
 もうすぐ夕食の時間で、あの同居している部屋まで女官たちが呼びにやってくる。けれど、アセリアに会いたくない。
 誰にも会いたくない。
 どんな顔をさらして、この王宮にいればいい?
 悪いのは全部、自分なのに。
 どうすればアセリアは赦してくれる?
 どうすればこうなる前の自分たちに戻れる?
 アセリアは強くなった。
 小さい頃は、よく泣いて、よく怒って、人見知りが激しくて、いつもティルトや自分の後ろにばかりいたのに。
 いつの間にか、向こうは人見知りをなおしてしまって。あまり泣かなくなって。よく怒るのは変わらなかったけれど、よく笑うのもまた変わらなかった。
 自分だけが何も変わらない。小さい頃のまま、人見知り癖も治らなくて、言いたいこともうまく言えなくて、歌うほうが楽で。
(アセリアと同じ世界を自分も見ている気がしない)
 音が溢れて、いつも自分をおびやかす。
 ただ歌っていられればいいと思う瞬間が、たしかにある。
(私の、この声)
 そうやって、自分のことだけで頭がいっぱいで。
「私が王になるんだ」
 ―――嘘つき。
 なれるわけがない。
 でも、ならなければいけない。
「だって私は王女なのだから」
 ユレイアは窓を大きく開け放った。カーテンが風をはらんでひるがえる。
 西日が赤く部屋を染めるなか、隅に置いてある竪琴に歩み寄った。
 吟遊詩人が持ち歩くようなものではなく、人の背丈ほどもある据え置きのものだ。小さな竪琴は三階の客間に持ちこんだが、動かすことのできないような大きな楽器は全部、この部屋に置かれたままだった。
 この部屋にある楽器はすべて、彼女がねだり、彼女に買い与えられたもの。
 王室費のなかで彼女のための予算から出された代金。
 彼女が王女という責任を果たしている代わりに与えられる捧げもの。
 ユレイアがユレイアであるから与えられているものではない。いまだ十三の子ども一人にそんな価値はない。
 だから、この竪琴に相応しく。
 待遇に見合うだけの王女であらねばならない。
 なのに。
 なのに自分は。
「母上は辛くはなかったのですか………?」
 呟いて、ユレイアは弦にそっと触れた。
 調弦は始終してあるが、日常的に、弾いているときですら弦は緩む。それは微細な狂いで、普通の人は気づかずに演奏するが、ユレイアにはわかってしまう。
 おかれた丸椅子に座り、弦を調節すると、ユレイアは竪琴の全弦を一気に流し弾いた。
 ざんッと音が響く。空気を振るわせて、あたりを洗い浄める。
 再び涙が出そうになって、ユレイアはうつむいた。
 いまは何も考えたくない。逃げだということはわかっているけれど。
 自分には、これしかない。
 結論を出す前に、いまだけ。


(ただ、唱わせてください)


 余韻が消えるのを待ってから―――かまえた。
 どの曲を弾こうとか、何を歌おうとか、そういう考え自体が頭から抜けていた。ただ、声が、音がほしい。あたりを揺らがせるほどの。何も考えなくてすむだけの。
 ありったけの音がほしい。
 結局、自分は唱うことに頼っている。
 音のことを考えるだけで、たやすく悩みは外へ閉めだされる。音を追うだけで、自分はこの場からいなくなる。溢れる泉に頭まで沈んで、出てこられなくなる。
 そんな自分に嫌悪を覚えるけれど、それすらもまた遠く何処かへ消えてしまう。音は波のようだ。押し寄せて巻きこんで浚っていき、後には何も残さず去ってしまう。
 音が溢れる箱のなかに、ただ独り。
 西日だけの射しこむ部屋に、影が長く伸びる。
 いちばん高い音を爪弾いた。
(天………)
 次に最低音。
(………地)
 楽譜はいらない。ただ頭のなかにある自分の音。
 目を伏せて、ユレイアは思考の軌跡を追う。指はすでに意識の外で弦の上をすべりだしている。
 音が鳴る。和音となって重なり響き、韻となる。
 たかいおと、と、ひくいおと。
 てん、と、ち。
 あめつちに振りまかれる、すべての存在。
 螺旋を描く、素光の粒子。粒子の波は色となり、世界の振るえは音となる。
 すべてはあまねく同じもの。
(………波を感じる)
 この奥底で振るえているのは己の音か。鈍く。低く。底を流れる魂の音にも、共に鳴ってくれるものは在る。
 ―――波はとりまき、共鳴りし、私を包む。
 隆起し沈降する波が途絶えた時こそ、存在の終わり。その音が消えた部分を受け持つべく、周囲の音が振り幅を大きく変え小さく変え、変容し、穴を埋めていく。そのなかから、また新たな波が生まれ、色と音を生む。無限の連鎖。
(あらゆるはじまりと終わりが、音のなかにある)
 色となって振りまかれる生。
 音となって鳴く死。
(私はただ………音を聴く。音を綾なす。指で押さえて変調させた音の先など読めはしない)
 ただ世界を知るのみ。
 飛翔する星辰の音。砕け散る水の韻。
 この水面に幾重にも落とされた波紋のような『存在する音』をどうやって奏し唱えばいい?
 遙か遠い昔。
 何も知らされずとも、ただ己が鳴っていること、世界が鳴っていること、そして共鳴し和するすべを、生ある者は本能で識っていた。
(そして、その本能から魔法が生まれる………力在る言葉と……混沌の言語が………)
 はじめはおのおの勝手に把えられていた音は、抽象化し、概念化し、類型となって法則として定められる。
 その課程で研磨され、尖りは削られ、鋭さは落とされて―――それでもなお力在る言葉たち。
 例えば―――六角ヘキサ
 六紡星は三角形と逆三角形で構成されている。その魔法陣には円が加わり、安定した力の流れを促す。
(最初の頂点の音はどれだろう?)
 いくつか弦を弾いて音を確認すると、ユレイアは最初から最低音と最高音を弾き直した。
 最低音。
 最高音。
 二つ同時にはじく。
(三角形………そのいくつかの基音は、火や山や空気を示す混沌の言語カオスワーズにも含まれているもの)
 もはや伏せられた瞼の奥の濃紺は、己の耳とうちにのみ向けられている。
 喉からほとばしる声が、急激に高くなって、また低くなる。弦の音色も上がり、また下がる。
(逆三角形………今度は、水と月と、土………)
 今度は高音から急激に下がり、もとの高さに戻っていく。
 音の六紡星。
(相反するからこそ、均衡をあらわすんだな)
 紡がれる旋律は無限に続くのかと思われるほど途切れない。
 脳裏に思い浮かぶのは、美しい巨大な白亜の六紡星。
(南から、街道。北に抜けて。森。西に丘。南西を流れる運河………)
 存在する、セイルーンという都の『音』。以前から、ずっと考えていたその音律。
 指が幾つもの和音を生み出した。声はうねり、流れ、部屋の中を魚のように回遊して溢れ出す。
 ふと、窓のカーテンが風もないのにかすかに揺れた。
 夢中で音と思考を追っているユレイアは気づかない。
 部屋からこぼれる音の螺旋に耳を澄ませるように、鳥が声を潜めた。
 言葉のない、ただ旋律だけの歌がユレイアの唇から紡がれる。
 無数の音の重複は、無数の意味の重複。
 ちりちりと帯電したように空気がふるえる。
(中心の王宮。神殿。不均衡は六紡星の中心で正される。増幅される魔力、音の密度………不協和音で三位と乙の音、そして転調して………)
 最後は円だ。
 西日は禍々しいほど赤い。



 話しこんでいたリナとゼルガディスが同時に顔をあげた。
 ティルトが天井を見上げ、目を閉じて耳を澄ませる。
「何か鳴ってる。梁とか、床の継ぎ目とか」
「こんな巨大建築物で、家鳴り?」
 怪訝な顔でイルニーフェが眉をひそめた。
 アメリアが椅子から腰を浮かせかける。
 ガウリイが微かに顔をしかめた。
「なんだか………」
「妙な感じがするな」
 魔力がたわめられていくような。



 うつむいていたアセリアは、はっと顔をあげた。
 慌てて周囲を見回してもおかしなところは何もない。
 しかし何かが確実に変だった。
 空気は乾いてさらりとしているのに、まるで雨上がりの濃密な大気のなかで呼吸をしているような。
 密度が―――。
「や、やだ………何なんですか」
 慌てて立ちあがり、よろけ、支えを求めて傍らの赤の竜神像に手を触れた。
 頭のなかで鳴り響く百の警鐘。
 こんなことがあるはずはないのに。
 ここは『セイルーンで最も安定している六紡星の中心部』なのに………!



 セイルーンを眼下にのぞんで、ゼロスは思わず笑った。
「おやおや、これは………」
 どうやら、自分が仕事をしなくてもいいらしい。
 紫闇の瞳を軽く細めて、彼方を見る。
「主賓が来る前に、どうやら始まってしまいそうですねぇ………」
 まあ、手間がはぶけたお礼に、多少の助力ぐらいはしておこうか。
 そのほうが面白くなりそうだ。
 手を加えた方がより面白くなりそうな場合、彼は手間を厭わない。



 ユレイアの指が、最低音の弦に触れた。
(そして、円)
 魔法陣を完成させる円。環。
 無限。完全。全一。そして、すべてを締めくくる枠。
 ユレイアの喉から高音が。竪琴の弦から低音が。互いに逆になって流れ落ちた。高低が伸びきったとき、交差するように二つの音は元の音階に引き戻されて完結する。
(セイルーンだ………)
 あたりを祓い払う音の津波。
 セイルーン、という存在する都市そのものを表すべく、編まれた音。
 最後に、六紡星の頂点の和音が一斉にはじけた。
 ―――決定的に。





「ダメ、ゆあッ! せあがまだ、ソコにいるッッ !! 」





 そして、門が開く。