時の旋律 過去篇 第2章 ラベンダー
強い風に押されて、無数の雲がたくさんの浮島の間を流れ、過ぎ去っていく。
その中には神界宮殿の華やかな尖塔にからみついて、散り散りになっていく雲もあった。
アメリアを取り囲むラベンダーが風にあわせて、ザワ………と音をたてて揺らめいた。そのたびに清々しい芳香があたりに立ちのぼる。
常春の神界アースガルズでは、花は季節に関係なく、たえず咲き誇り、散ってゆく。
この一面にラベンダーが咲き乱れる丘は、神界宮殿からそう遠くない場所にある浮島のひとつだった。
神界宮殿を中心とした群島はひとまずここで終わっていて、アメリアの目の前には、流れゆく雲と遙か遠くにある浮島の影しか存在しない。
吹きすぎていく風に、ラベンダーと共に服の裾をはためかせながら、アメリアは黙ってたたずんでいた。
ゼルガディスが神界に来てから、数年ほど月日は流れていた。
回廊ですれ違おうとしたフィリアを、ゼルガディスは呼び止めた。
「アメリアを見なかったか?」
「アメリアさん、ですか?」
運命の女神は軽く眉をひそめた。
「自室では? それか鍛錬場。でなければ他の戦乙女の方々とお茶」
「どれもダメだったが………」
「あら、そうですか。珍しいですね」
流れるような金髪をさらりと揺らしながら、フィリアは首を傾げた。
ゼルガディスは無意識のうちに顔をしかめていた。
現在、リナやルナなどの主立った神々は激化した戦闘の最前線に出かけてしまい、天界宮殿にはフィリアや戦乙女たち、ゼルガディスなどの英雄化された魂など、合わせてもわずか二十人ほどしかいない。
あまり不用意に出歩かれては困るのだ。
首を傾げたフィリアがぽん、と手を打った。
「ああ、群島のはずれの丘には行きました?」
「いや、どこなんだそこは」
ゼルガディスはそんな場所があることさえ知らなかった。
「神界宮殿を出て、西に向かってひとつ浮島を渡ったところにある、ラベンダーがいっぱい咲いている場所です。アメリアさんは時々あそこにいることがありますから、行ってみたらどうです?」
「わかった。ありがとう」
ゼルガディスは軽く手をあげて礼を言った。
もうすぐ、陽が落ちようとしていた。
ざああぁぁ……ぁ……ぁ………ん
ラベンダーが揺れる葉擦れの音が、その丘全体を支配していた。
はるか遠くに見える浮島を黒い染みのように浮かび上がらせている夕陽が、濃い橙色の帳であたりをおおっている。
葉に落ちる濃い影と、朱に染まった穂のような花。
それらの強いコントラストのなか、朱金の陽光を受けて、蜜色のつやを帯びて輝く漆黒の髪。
思わず足を止めてしまうほど、印象的な光景だった。
声をかけてはいけないような錯覚にとらわれて立ちつくすゼルガディスの気配に気づいて、アメリアがふり返った。
少し小首を傾げて微笑む。
「………ゼルガディスさん?」
これから神界に訪れる夜の、銀砂をぶちまけたような星空を思わせる、深い紺の瞳。
その瞳に捕らわれて、動けなくなるのがわかった。
「どうしたんです?」
足首はおろか腰あたりまでラベンダーに埋めながら、アメリアが近づいてくる。
「いや………、姿が見えなかったから、どこに行ったのかと思って………」
「探してくれたんですか? すいません」
ゼルガディスのすぐ傍まで来ると、アメリアはゼルガディスに背を向けて、一面のラベンダーとその向こうに見える薔薇色の空に目をやった。
ざああぁぁ……ぁ……ぁ……ん
ラベンダーが風に一斉に揺れる。
熔け落ちる寸前の、美しい陽光の破片。
「………キレイだと思いませんか?」
「ああ」
素直にゼルガディスはうなずいた。
「ここ、好きな場所なんです」
「何をしていたんだ?」
ゼルガディスをふり返って、アメリアは笑った。
「リナさんたちが全員無事で帰ってくるように、お祈りしていたんです」
「お祈り? 何にだ?」
ゼルガディスはアメリアの隣りまでやってくると、一緒に空を見上げた。
日が沈むのは早く、もうすでに半分以上を隠していた。このすべてが空に包まれた神界で、太陽と月が一体どうやって巡っているのか、ゼルガディスは知らない。
アメリアが蜜色にふちどられた黒髪を揺らして、首をかしげた。
「何にでしょうね。神様は私たち自身ですもんね。運命かな………?」
「フィリアにか?」
「フィリアさんは番人であって、運命そのものではないですよ。フィリアさんにだって、先のことはわからないんですから」
「それは初耳だ」
「そうなんです。スクルドのフィリアさんって、よっぽどの事がないと滅多に表に出てこないんですよ。おまけに、何をしたのかウルドやヴェルダンディのフィリアさんにはわからないそうなんです」
ゼルガディスは苦笑した。
「過去と現在に、未来のことはわからない、か―――本当にそのものだな。俺も祈っておくか」
アメリアがゼルガディスを見上げた。
ふっ………と太陽が完全にその姿をどこかに隠した。
「何を、何に祈るんですか?」
ゼルガディスの指がアメリアの頬に触れて、優しく髪を払いのけた。
「リナたちの無事と、ここで留守番している俺たちの無事を、お前に―――――」
アメリアの頬にカッと朱が散った。
陽は沈み、空は刻々とその色彩を違え、暗い青の世界のなかを風が吹き過ぎる。青く沈みゆく世界のなかで、風に揺れるゼルガディスの銀色の髪がほの白い光をまとう。
消えそうな声で、アメリアは問う。
「どうして、私に………?」
薄い闇の中、ゼルガディスはわずかに苦笑した。
「お前以外に思いつかないな。祈る相手は」
頬にあてられた手のひらは、穏やかなぬくもりを伝えてくる。
アメリアはそっと目を伏せた。
ラベンダーが風に揺れて音をたてる。
「ありがとう………」
その音の中、ゼルガディスが、辛うじて聞き取れるくらいの声で囁いた。
伏せていた目をあげると、唇がもう一度同じ言葉を繰り返した。
「お前といて、ようやく俺は自分が生きていてよかったと思えるようになったんだ………」
驚いたアメリアの表情が、すぐに泣き出しそうな顔に変わる。
「採魂してもらって、よかったと思っている」
やさしいてのひら。
涙がひとしずくだけ頬を伝い落ちて、ゼルガディスの指を濡らした。
アメリアは目を閉じた。
風に揺れる葉擦れの音も、立ちこめる香りも。夜の大気も。
吹きつける風も。
みんなみんな邪魔で、なくしてしまいたい。
自分とこの人の間に、何もなければいいのに。
この触れているてのひらを伝って、ひとつに融けてしまえればいいのに。
溢れ出す想いに突き動かされて、アメリアはそっと囁いた。
「あなたが好きです………」
風に散って、すぐに消えてしまったその呟き。
返事はすぐに返ってきた。
ふれるくちびるで。