時の旋律 過去篇 第3章 闇

 無数の糸が巡る〈綾の間〉で、フィリアが不意に顔をあげて叫んだ。
「いけない―――! その未来は―――!」

 ダ・メ――― !!

 声にならない叫びが〈綾の間〉の糸をふるわせる。
 銀線細工の扉を押し開けて、スクルドは通信のオーブが置いてある部屋に向かって駆けだした。
 すべては遅すぎるかもしれないが、せめてルナたちに――――



「そろそろ戻ろう。ザングルスたちが心配しているといけない」
 ゼルガディスがそう言って、二人はラベンダーをかきわけ歩き出した。
 空はすっかり暗くなり、闇の中でいくつもの星がまたたいている。
「結界があるとはいえ、油断は禁物だからな。アメリアもあまり一人で出歩かない方がいい」
「そんなに心配しなくても―――」
 こころもち顔を赤くしながら、アメリアが反論しようとしたときだった。
「 !! 」
 二人の表情が同時に変わった。
 具現化させた鎧がまたたく間にアメリアの体をおおっていく。
 羽根兜から鉄靴まで全てが、つややかな銀色。
 ゼルガディスが剣を抜きはなった。
「誰だ!?」

 ざあぁ……あぁ……ぁ……ん

 ラベンダーが風に大きく揺れた。
「そこっ!」
 叫んで、アメリアは採魂の鎌を大きくふり抜いた。地を奔る衝撃波がラベンダーを舞い散らせ、一直線に丘の端へと向かう――――!
 パァン、と乾いた音がして、薄紫の小花が一斉に弾け飛んだ。
 そしてそこから音もなく、白い子供の手が空へと突き出される。
 アメリアの顔が青ざめた。
「誰!?」
 わだかまる闇の中から、少年の声が響き渡った。
「おや、もう僕のことなんか忘れちゃったのかい? 僕はキミたちアース神族のことを、片時も忘れたことなんかなかったのに――――」
 するりと現れ出たのは、黒髪の無邪気そうな少年だった。
 アメリアは絶句する。
「フィブリゾ・ロキ………!」
 その呟きに、ゼルガディスの表情も厳しくなった。
 神界に来てから数年も経てばいいかげん、知ることも増えていく。
 リナたちが神にされる以前、虚偽と欺瞞を司り、アース神族の陣営に何食わぬ顔で加わっていたことがあるという、シャブラニグドゥに仕えるヴァン神族。
「どうして、結界に――――!」
「忘れたの? それとも君たち新・神族は知らないのかな? 僕はアース神族とヴァン神族の混血だよ。この結界、僕にはあまり役に立たないんだよね」
 あっけらかんとそう言うと、フィブリゾは神界宮殿に視線を向けて楽しそうに笑った。
「ホントに誰もいないみたいだ。あの旧・神族のザコが言ったことは正しかったみたいだね。ルナとかいるとちょっとマズかったんだけど、いまなら簡単に制圧できそうだ」
 アメリアとゼルガディスはその言葉に思わず身じろぎした。
「どういうこと!? まさか………」
「そのまさかさ。やっぱり新顔のキミたちにのさばられちゃ、面白くない人の一人や二人はいるよね。よくクーデターから百年も待っていたものだよ」
「そいつはどうした?」
 ゼルガディスの短い問いに、フィブリゾは会心の笑みを浮かべた。
「んー、いまごろゼラスとゼロスに冥界でもてあそばれているんじゃないかな」
 ぎり………とアメリアが採魂の鎌を強く握りしめた。
「あなたという人は………ッ」
 かたわらのゼルガディスが静かな声でアメリアを制した。
「アメリア、合図だ」
 うなずいて、アメリアは夜空に明かりの魔法を放つ。まばゆい光が大きく三度明滅して非常事態の発生を告げる。
 すぐにざわりとした雰囲気が神界宮殿のほうから湧き起こった。
 フィブリゾが首を傾げる。
「人を集める気? まあ、僕としてはいちいち探して叩きつぶす手間がないから助かるけどね。せっかくだから揃うまで待っててあげるよ」
「たいした余裕だな」
 ゼルガディスの言葉に、フィブリゾは退屈そうに言った。
「ルナさえいなければ、後は僕に勝てるやつなんていないもの。だいたい結界を通れるっていう理由だけで、こともあろうに指揮官本人が奇襲役を押しつけられただけなんだから。冗談じゃないよ」
 ルナもリナもガウリイも、負傷を癒すシルフィールさえも、いまは前線に出ていってここにはいない。
 完全にヴァン神族の罠に引っかかったようだった。
 さっきの合図で通信のオーブが発動されて、ルナたちに連絡が行くだろうが、いまから戻って来ても間に合わない。
 ここにいる者だけで何とかしなければ。
「負けられません」
 アメリアが言った。
「私は、リナさんたちが帰ってくる場所を守らなければいけないんです」
 背後から、二人を呼ぶザングルスたちの声が聞こえてきた。
「揃ったみたいだね」
 フィブリゾがゆっくりとした口調で告げた。
「じゃ、始めるよ」



 自らが言うとおり、フィブリゾは強かった。
 たった一人にもかかわらず、アメリアたちは傷を負わされ、なかには立ち上がることさえできない者も出た。
 戦乙女の中でも戦闘能力を持たない者数人が、怪我した者を戦闘から引き離し、治療呪文を唱える。
 いくつもの方向から同時に放たれる魔法や剣戟を避けようとすらせずに、フィブリゾが告げた。
「ああ、そうだ。僕がここに来たら、するべきことが一つだけあったんだ。そろそろ退屈だし、ついでにもう終わりにしようか」
 その言葉の裏に潜む気配に、打ちかかろうとしたゼルガディスは反射的に後ろに飛び退いていた。
 フィブリゾの笑みを含んだ視線が、アメリアやゼルガディスたちとは離れたところで怪我を癒している戦乙女たちに向けられる。
「キミたちがいるおかげで、倒しても倒してもアース神族の数が減らないんだよね。今回、僕がやってきた最大の目的は―――」
 フィブリゾの背後で、闇が大きく蠢いた。
「戦乙女の殲滅さ」

 闇が唸り、ゼルガディスたちに襲いかかった。

 濁った闇に触れたラベンダーがまたたく間に腐り果てて、どす黒く変化する。星明かりさえ消えて、視界が真っ黒に塗りつぶされた。
 逃げることすらできなかった。
 ただ、すぐそばの存在を庇うことしか。
 抱きしめた。
 何を囁いたのかは覚えていない。

 次の瞬間、意識は途切れた。

 圧倒的な質量の闇が、ラベンダーの丘はおろか神界宮殿さえも包みこんで、負をまき散らした。
 そのなかで一人たたずむフィブリゾが両手の間に力を生みだす。
「仕上げだよ」
 衝撃波が、フィブリゾを中心に闇の中へとひろがっていった。その耳に、神界宮殿が崩壊する音が聞こえる。
「終わった終わった。じゃ、帰ろ。つまんない仕事だった」
 現れた時と同じく、わだかまる闇にその姿を溶けこませる。その姿が消えると同時に闇は晴れて、星が再び夜空にまたたきはじめた。
 動く影は一人として見つからず、やがて、ラベンダーの香を血臭と腐臭が圧倒しはじめた。