時の旋律 第1章 目覚め
荘厳な神界宮殿の廊下をリナが足早に歩いていた。磨き抜かれた白い大理石の床に、小柄な影が映りこむ。
途中の中庭に面した回廊で、リナは癒しの女神のシルフィール・エイルと、運命の三女神のフィリア・ノルン=ヴェルダンディの二人とすれ違った。
「どうしたんです、リナさん。そんなに急いで」
長い金髪を揺らして、フィリアが声をかけてくる。運命の三女神であるフィリアは、ひとつの体を過去、現在、未来の三つの人格が共有していて、たまたま今は主人格のヴェルダンディ(現在)が表に出ていた。
リナがフィリアをふり返る。
「姉ちゃんが呼んでいるの。遅刻したら殺されるわ。またね」
ほとんど走り出しそうな勢いで、リナは別の回廊へとつながっている門をくぐって姿を消した。栗色の髪と衣のすそが、鮮やかに風にひるがえる。
フィリアとシルフィールは顔を見合わせた。
「ルナさんが?」
「何が起きたんでしょう? 滅多なことでは、わたくしたちを呼んだりしませんのに」
千年前の神界戦争で、アース神族は主神スィーフィード・オーディンを失い、現在ではその力と記憶を受け継いだ女神ルナ・フレイがスィーフィードに代わって主神代行をつとめていた。
すっ飛んでいった女神リナ・フレイアはルナの妹神にあたり、神々の中でも高い神格を誇る女神である。
そのリナは、あれから幾つもの回廊とそれをつなぐ門を通り抜けて、ようやく目的の場所までたどりついていた。
石と鋼と水晶細工で造られた扉が開かれていく。
壮麗な広間の床はなめらかに磨かれた水晶で、足元を見やれば、まるで鏡のように自分自身の姿が見つめかえしてくる。
その水晶の床から、輝く無数の宝石の結晶柱が壁にそってのびていた。天井は、遙か高く遠くにあって、いまさら見あげてその果てを確かめる気も起きない。
ここは神界宮殿でもっとも神聖な〈主神の間〉。
だが、ここにいるべき主神はすでにもうこの世にはない。
部屋の中央に位置するその玉座は空のままで、その脇に赤茶の髪を肩口で切りそろえた、リナによく似た女性が腕を組んで立っていた。
主神スィーフィードがいないいま、アース神族のなかで最も高い神格と力を誇る、女神ルナ・フレイである。
「ちょっと遅刻よ、リナ」
顔をひきつらせながら、リナはひたすら謝った。
「ごごごごごめんなさい、姉ちゃん」
「あんたはあたしの補佐なんだから、もっとしっかりしなくちゃダメでしょう」
壊れた人形のようにリナがガクガクうなずくのを確認してから、ルナは小さく肩をすくめた。
「まあ、いいわ。今回あんたを呼んだのは別の用件があるからよ」
ルナはすっとその表情を厳しくした。
「ヴァン神族に不穏な気配があるわ」
リナの表情も厳しくなる。
恐らく、ルナだけが覗く資格を持っている水鏡に何か映ったのだろう。
千年前に神界戦争が終結して以来、アース神族とヴァン神族の間には、小競り合いはあるものの大きな争いは起きていない。
初戦でアース神族の主神スィーフィード・オーディンが、ヴァン神族の主神シャブラニグドゥ・グルヴェイクを七つに分けて封印してもなお、千年間もえんえん続いたこの神界戦争は、双方ともに痛手が大きすぎて、次の千年間は睨みあいを続けるしかなかったのだ。
「どういうこと? またシャブラニグドゥの欠片が復活するの?」
七つの欠片うち、三つは所在がわかっていた。ひとつは古代の魔道士で、すでにヴァン神族の手中に渡ってしまっている。二つ目はこの間、リナがじきじきに手を下して滅ぼした。
そしてこれはリナとルナだけの秘密なのだが、三つ目はリナ自身で、さらにもうひとつ、知っているのはルナだけなのだが、四つ目は戦神ルーク・チュールだった。
リナの言葉に、ルナは首をふった。
「いまのところ欠片を持つ人間が生まれてきた様子はないわ。ただ、下界で何かしてるのよ。たいしたことなさそうなんだけど、いったい何のつもりかしら」
「話が、よく………わからないんだけど」
「多分ね、また暇つぶしをしてるんじゃないかと思うの。下界で」
ヴァン神族が、たわむれに下界に介入し、混乱をもたらすことはよくあった。
「あまり下界に混乱を招かれても困るのよね。そうさせないために私たちがいるんだし」
「それで、どうすんの?」
軽い口調でルナは答える。
「リナ、アメリアを呼んでちょうだい」
リナの表情が固くなる。小さく首をふって、姉神の命令を断ろうとする。
「姉ちゃん、アメリアはまだダメよ………」
「あの子でなければだめなのよ。そろそろ人の補充も行う必要があるし。魂の英雄化を行えるのは、あの子だけなんだから」
反論を許さぬ口調で、ルナは告げた。
「女神リナ・フレイア。あなたに命じます。戦乙女アメリア・ヴァルキリーを目覚めさせなさい」
目を開けると、無数の紫色の花がアメリアを取りまいていた。
「いい匂い………」
うっとりとそう呟くと、サクリと黒土を踏みしだき、生い茂るラベンダーに包まれながら、アメリアは神界宮殿を目指して歩き出した。
美しき神界アースガルズ。いくつもの浮島が浮かび、その上に建つ無数の建造物に、流れ行く白い雲がからみつき、風に押されて名残惜しげに去っていく。壮麗なる神界宮殿を中心にアース神族が都を築き、その勢力を誇っている楽園。
ゆっくりと歩いて神界宮殿の浮島に続く橋にたどりつくと、そこで小柄な少女がアメリアを待っていた。
栗色の髪、鮮やかな赤い瞳。
胸元と両の手首、そして腰には、神界戦争時にヴァン神族からまきあげたという呪符ブリーシングが輝いている。災厄の魔血玉として名高いタリスマンなのだが、この少女にとっては手頃なオモチャでしかないようで、普段から身につけていた。
少女がにっこりと笑った。
「ひさしぶりね、アメリア」
アメリアは駆けよって、その細い首に抱きついた。
「おひさしぶりです、リナさん! お元気でしたか?」
それを受け止めて、リナは苦笑する。
「あったりまえでしょ。相変わらずね、あんたも。あんま元気すぎるとすぐ疲れるわよ?」
それに言葉を返そうするより早く、別の声がアメリアとリナの頭上から降ってきた。
「そうだぞ、リナみたいになったらどうするんだ?」
「ガウリイさん!」
アメリアが声をあげる。
二人の背後には、雷神ガウリイ・トールが立っていた。戦の腕なら文句なしに神界最強なのだが、いかんせん物忘れがはげしくて、よくリナに叱りとばされている。
「それはどういう意味よ?」
こめかみをひきつらせながらのリナの問いに、ガウリイはのんびりと答えた。
「いや、別に。それよりアメリア、ルナさんが待ってるぞ」
「あ、いけない!」
「あ、私も後から行くから」
「わかりました!」
ぱたぱたとアメリアは走り出した。リナとガウリイをふり返って、手をふる。
「それじゃ、また後で!」
橋を渡り、扉の向こうへと消えるアメリアを見送って、リナはふっとその瞳をかげらせた。
「なんだって、いまごろアメリアを………」
「そりゃ、アメリアが戦乙女のただ一人の生き残りだからだろ?」
「はいはい、それは憶えてたのね。っていうかよくアメリアのこと忘れてなかったわね。千年ぶりだっていうのに。あたしはそっちのほうが驚きよ」
何も考えてなさそうなガウリイの言葉に、リナはいらだちながら適当に返事をする。
たしかに先の神界戦争でアメリア以外の戦乙女は全員が戦死してしまい、アメリア自身も、もう少しで死ぬところだった。
あの凄惨な光景を、千年たったいまでもリナは忘れることができない。
「もう、あんな思いをさせたくないのよ………。できればずっと、眠らせてあげたかったのに………」
うつむいたリナの肩をそっとガウリイが引き寄せた。
「わかってる。ルナさんだって、ちゃんとわかってるはずさ」
「うん………」
リナは小さくうなずいた。
「おひさしぶり、アメリア。元気そうで何よりだわ」
ルナの言葉に、アメリアはうなずいた。
「どうもありがとうございます。ところで、どうして私を呼んだんですか?」
アメリアの後ろで扉が開き、リナが〈主神の間〉に入ってくる。
「それはあたしから言うわ、アメリア」
「リナさん」
姉の元まで歩いていくと、リナはアメリアに向き直った。こうして並ぶと姉妹だけあって、二人はやはりよく似ている。
リナが告げる。
「ヴァン神族が下界で不審な動きをしているの」
「ヴァン神族が………!」
アメリアの瞳に怒りの炎が燃えあがった。
「わかりましたっ、ヴァン神族の悪事を叩きつぶしてくればいいんですね!」
「あんた、相変わらずねえ………」
リナが呆れたように呟いた。
「で、アメリアー? 聞いてるー?」
「―――っはい?」
背後に正義の炎を揺らめかせているアメリアに、リナが困ったように首をかしげた。
「それでね、それもあるんだけど、あんたにはもうひとつ、やってもらいたいことがあるのよ」
「勇敢な人間の魂を英雄化して神界に連れてきてちょうだい。そろそろ補充が必要なの。あなたにしかできないことよ、戦乙女アメリア」
リナの言葉を継いで、ルナが口を開いた。
長命のアース神族は、結婚して子を産むということをあまり行わないので、死んだ人間の魂を神の列に加えなければ神界軍を維持できない。
そして、死んだ人間の魂を選定して神界へ運ぶことのできる採魂(さいこん)能力者は、現在ではアメリアただ一人だけだった。そのため、アメリアが眠っていた間、神界軍の総数は神界戦争で減ったときのまま、増えてはいない。
人間の魂は、運命の三女神であるフィリアの手によって転生を繰り返す。
その輪廻の鎖を一時的に断ち切って、人の魂を神々の列に加え、神界へ迎えることを〈魂の英雄化〉と呼んだ。
神々のなかでも、それを行えるのは戦乙女しかいない。
「はい、わかりました。正義の戦士を集めてくればいいんですねっ」
無邪気なアメリアに、リナの表情がくもる。
そんなリナの様子には気づかず、アメリアはひさしぶりに下界に降りることが嬉しいらしく、そわそわとしていた。
ふわっとその背に、羽根がひろがる。
「じゃ、さっそく行ってきます!」
「だぁっ、ちょっとは落ち着きなさい、アメリア! 話はまだよ!」
リナが慌てて走り寄ってきて、アメリアの背中の羽根をつかんで引きずりおろした。水晶の薄片のような淡い光でできたこの翼は、実際に背中から生えているものではない。つかんで引きずりおろすようなメチャクチャな芸当ができるのは、リナぐらいのものだ。
べちゃっとアメリアが水晶の床に激突する。
「リナさん………痛いですぅ………」
「あんたねぇ、起きぬけでまだ何の装備もしていないでしょっ。向こうに色々あるから一緒に来るの! それからっ、定期的に報告に帰ってくること! それと、下界まではあたしが送ってあげるから。いいわね !?」
「はいいいぃ〜〜〜」
ずりずり引きずられながら、アメリアは返事をした。
それをニコニコと手をふって見送ってから、ルナは苦笑する。
妹神よりもやや色の明るい髪をかきあげながら、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「リナに、怒られるかしらね………」