時の旋律 第2章 下界

 リナの後について、アメリアはひさしぶりの神界宮殿を歩いていた。石と宝石と美しい草花で埋めつくされている宮殿は、陽の光を受けてまぶしくきらきらと輝いている。
 リナに連れられたアメリアを、シルフィールとフィリアが出迎えた。
 黒髪をさらりと揺らして、シルフィールが微笑む。
「おひさしぶりです、アメリアさん」
「はい、シルフィールさんも!」
 フィリアがシルフィールを押しのけて、がしっとアメリアの手をとった。
「ヴァン神族を叩きのめしに行くんですよねっ !? がんばってください! あんな生ゴミ神族に負けてはなりませんわっ」
「………………ウルドさんの方ですね」
 三人のなかで最もテンションが高い(別名ヒステリックともいう)のがウルド(過去)で、最もまっとうで常識的でお茶好きなのがヴェルダンディ(現在)、最もテンションが低くて骨董品――特に壺が――好きなのがスクルド(未来)だ。
 このテンションの高さは、どう考えてもウルドだった。
 フィリアの手をリナがふりほどく。
「はいはい、アメリアには用事があるのよ。またねフィリア、シルフィール」
 そう言って、リナは強引にアメリアの手をとって回廊の先へと歩いていってしまう。
「あうううう、またです〜〜」
 アメリアは引きずられながらも、二人に向かってどうにかお辞儀をすることができた。
「何なんですか、リナさんは!」
「やはり、アメリアさんを起こすのが嫌だったのかもしれませんね」
 シルフィールのその言葉に、憤慨していたフィリアの表情もくもった。
 神界戦争の終結間際のあの出来事は、だれもが知っていて、だれもが口には出さないことだ。
 フィリアは溜め息をついて、その言葉に賛成した。
「そうですね、私もアメリアさんがまた目覚めるとは思いませんでしたから………」
 二人はリナとアメリアが消えた先を、そっと見つめた。



 リナがアメリアを連れていった先は、白い小さな部屋だった。窓はなく、四方の壁は微妙に色調の違う白い石が交互に積み重なってできている。床も同じように白の石モザイクだった。
 部屋の中央には、これもまた純白の石材で造られた大きな水盤があり、くり抜かれたその内側には水がたたえられ、小さな泉となっている。
 鏡のように波ひとつない、なめらかなその水面を覗きこんでみても、どういうわけか底は見えない。
「ほら、さっさと入った入った」
「そう急かさないでくださいよう」
 そう言いながらも、リナが何をするかわかっているアメリアはおとなしく泉の中央に立つ。
 底が見えない泉にもかかわらず、水はアメリアの足首までしか届かない。
 この泉の水は、水であって水でない存在だ。
 泉の中央に立つアメリアをリナが見上げた。
「とりあえず、あんたの武具をあんたに返すからね」
「はい」
 アメリアはうなずいた。
 リナが目を伏せて、呪文を唱え始める。
「そは泉。すべらかなりし流れの元素なれど、我らが定めた神気の姿。いまこそ元素の形を解き、在るべき姿を取り戻さん………」
 リナの詠唱が進むにつれて、鏡のようになめらかだった水面に波紋が起きはじめた。
 波紋はさざ波となり、徐々に激しく高く水飛沫が跳ねあがる。濡れた衣のすそが足に張りついて、肌の色を透かせた。
「そに刻まれし過去を元に、流れが形をとることを我は許す。形の主は採魂者たる戦乙女。速やかにアメリア・ヴァルキリーの意に従わんことを!」
 水が水面から躍りあがり、渦をまいてアメリアを包みこんだ。
 光をはじく水流が羽根兜の形をとり、鎧となり、篭手となり、鉄靴となってアメリアの体にまといついていく。
 最後に大きな弧を描く、美しい細工の大鎌がアメリアの手の中に現れた。
 水滴が泉に一滴だけ落ちて波紋を描き、すぐに消える。
 リナが大きく息をついた。
「はい、これで全部よね。あんたが体術のほうを得意にしてるのは知ってるけど、一応、大鎌は採魂の象徴だし、持っときなさいよ?」
 リナの言葉を裏付けるように、アメリアの鎧は胸だけをおおう簡素なもので、軽さを重視していることがわかる。
「わかってると思うけど、神気で創られているものだから、あんたの意志で自由になるからね」
「わかってますよ」
 アメリアはそう言うと、さっそく大鎌を神気に戻した。大鎌は溶けるように手の中から消えていく。
 それからアメリアは不思議そうに自分の出で立ちをながめて、言った。
「リナさん………私の鎧って、こんな色でしたっけ?」
 肘から先をおおう篭手も、膝から下を包む鉄靴も、羽根飾りのついた兜も、すべて艶を消した金色だった。
 リナの目元がぴくりと動いた。
「………そうよ。前からこんな色だったじゃない」
「そうでしたね。忘れっぽくていけませんね」
 リナの言葉のわずかなためらいにも気づくことなく、アメリアは武具を全て神気に戻し、元の服装に戻った。
 白い上下に白いマントのその姿にリナの表情がなごむ。
「その服装と見てると、あんただな〜って思うわ」
「えへへへ、そうですか?」
「そうよ」
 言いながら、リナの姿は淡い光に包まれた。女神の衣から黒いショルダーガードとマントを身につけた魔道士の姿へと変わる。
「神界戦争のときみたいですね」
 アメリアの言葉にリナは苦笑する。この魔道士の格好は戦装束でもあったが、下界へ降りるときの服装でもあった。
 アメリアをともなって、リナは部屋の外に出る。
 庭先まで歩いていくと、リナはアメリアをふり返った。
「アメリア、英雄化する魂だけど、そう数は考えないで。確かに人手は足んないけど、それほど深刻な問題でもないから。目立つとヴァン神族を刺激することになるしね。それからヴァン神族の動きだけれど、探るのはいいけど、あまりムチャしないで」
 言いながら、リナがふわりと宙に浮く。アメリアもそれにならって羽根をひろげた。リナほど神格が高くないアメリアは、飛翔の象徴である羽根を出現させずに神界の空を舞うことはできない。
 中庭からこちらを見上げているシルフィールとガウリイに、アメリアは手をふった。フィリアはどこに行ったのか姿が見えなかった。
 強い移送の力が二人を包みこんだ。
 リナが告げた。
「じゃあ、行こっか。下界ミッドガルドへ」



 リナとアメリアが出現した場所は、どこかの街を見下ろす空の高みだった。丸い大きな森があり、その周りを囲むように家々が立ち並んでいる。
 昇ったばかりの太陽の光が、大地を染めあげ、街に森の影をつくっていく。
 光の薄片を羽毛のように散らして、アメリアの背から翼が消えた。神界の空では翼を必要とするが、下界の大気の中でならアメリアでも翼を使うことなく空を舞うことができる。
 荒々しい風が、アメリアの黒髪とリナの栗色の髪を乱した。
 下界ミッドガルドは混沌とした世界で、すべてが穏やかに調和を見せる神界アースガルズとは何もかもが違う。
 呆然とアメリアは呟いた。
「ここが下界………」
「そうよ。寝ている間に忘れちゃった?」
「かもしれません」
 リナのからかいの言葉に笑って返すと、リナも笑った。
「現在の下界の情報をアメリアに与えるわ」
 そう言ったリナの指が、アメリアの額に触れた。膨大な情報がアメリアの頭に流れこんでくる。
 ゼフィーリア。エルメキア。カルマート。セイルーン………。
 北にはカタート山脈。シャブラニグドゥに仕える五人の腹心の一人、冥府の女王ゼラス・ヘルがいるという氷の国ニヴルヘイムへの門がある。
 滅びの砂漠と呼ばれる大陸の東には、神界、下界すべての界を支えている世界樹ユグドラシル。
 指を離すと、リナはその手で風に流される髪を軽くおさえた。下界の朝日を浴びてその髪は、溶けるような赤みがかった蜜色に染まる。
「それじゃ、あたしは帰るから」
「はい、ありがとうございました」
 礼を言うアメリアに、リナの真紅の瞳が愛おしげにそっと細められる。
「アメリア………」
 その手がアメリアの頬に触れた。
「あんま無理するんじゃないわよ。気楽にやんなさい。戦乙女アメリア・ヴァルキリー」
 正式な神格の名で呼ばれて、アメリアは目を見張ってうなずいた。
 軽く言われる口調の中に、隠しようもない気遣いが溢れているのがわかる。
「はい、わかってます」
「ん、それじゃね。適当に英雄化したら、そいつ連れてちゃんと報告に戻ってくんのよ」
 立ちのぼる陽炎のような揺らめきを空間に残して、リナの姿は消えた。
 アメリアは眼下に広がる街を見下ろした。
 リナからもらった情報によると、サイラーグと呼ばれる大きな街だ。人間たちが神聖樹と呼ぶ大きな古木の周囲に街が広がって栄えている。さっきアメリアが森だと思ったのは、一本の木だったようだ。
 アメリアはそこに行くことにした。
 街の近くの森に降り立ち、街に入る前に自分におかしいところがないかよく確認する。
 羽根は生えてない。戦装束でもない。大鎌も持っていない。無意識に神気で全身をおおって人の目には見えないようにもしていない。
「よしっ」
 元気良くうなずいて、アメリアは街の門をくぐった。



「わあ………」
 大通りに足を踏み入れたアメリアは思わず歓声をあげていた。
 まだ朝も早いというのに、立ち並ぶ露店には物が溢れ、元気な呼び声が飛び交っている。
 アメリアは下界が好きだった。
 朝の、これから混み始める通りのにぎわい。ちょっと意識を澄ませれば、あちこちから人の生きる力が感じ取れる。
 活気に溢れた、生きていく意志。
 今日をすごすこと、明日が来ることを強く願う、人の心。
 生きる意味と死ぬ意味を知る前に、命尽きてしまう弱い存在だというのに、いや、だからこそ彼らの発する活力は、アース神族よりも力強い。
 アメリアは人間のそんなところが好きだった。
 きょろきょろと物珍しげに露店を見てまわっていると、焼き菓子を売っていた中年の女性に声をかけられた。
「この街は初めてかい?」
 アメリアがうなずくと、その女性は豪快に笑った。
「いいところだろう? しかしあんたみたいなちっこいお嬢ちゃんが一人で旅をしているのかい? 連れは?」
「あ、ええと………別々に街を見てまわろうと言うことで………」
「そうかいそうかい。でも気をつけるんだよ。いくら治安がいい方だと言っても、どこにでもバカはいるもんだからねぇ」
 素直にうなずきかけて、アメリアは慌てて口をはさんだ。
「治安がいいほうって、どこか悪いところがあるんですか?」
 アメリアは、下界でヴァン神族が不穏な動きをしているという情報も、それを探るために自分が遣わされたということも、もちろん忘れてはいなかった。
「そりゃ上には上が、下には下があるもんさ。でもお嬢ちゃん、これからどっか行くんだったら、セイルーンはやめときな」
「セイルーンですか?」
 中年の女性は嫌そうに顔をしかめた。
「あそこは何やら王位継承でごたごたしていてね、治安も今ひとつだって噂だよ。連れがいるんだったら、その人にもやめるように言うんだね」
 行ってみる必要がありそうだった。
 英雄の魂を集めながら、そのうちセイルーンに向かおうとアメリアは思う。
「わかりました。ご丁寧にありがとうございます。焼き菓子をひとつくれますか」
 中年の女性は笑った。
「おや律儀だねぇ、あんたも。こんなことに礼をする必要はないんだよ」
「いえ、朝御飯がまだなので」
「そうかい、なら喜んで売らせてもらうよ。銅貨三枚だよ。一枚おまけしとこうね」
 売り上げの入っている箱のなかの硬貨をすばやく観察して、アメリアは神気を使って銅貨を三枚創りだす。
 素材も刻印も箱の中の銅貨とまったく同じものだから、アメリアが神気に戻るよう念じないかぎり、これは本物として流通していくだろう。
 銅貨三枚を女性に手渡し、アメリアは焼き菓子の入った袋を受け取った。
 そのまま通りを歩きながら、かじる。
「はう〜、おいしいですぅ」
 干しぶどうとクルミの香ばしい味が口いっぱいに広がって、文句なしにおいしかった。
 アース神族とて食事はするのである。ただし、食事の必要がないことも事実だった。
 食事の形で栄養を摂取する必要がないので、アメリアやリナが食事をとるのはただ純粋に楽しむためだ。
 そして、神気を源として物質を創造することのできるアース神族は、料理もする必要がない。だがシルフィールやルナ、リナなどはよく自ら料理をした。
 その気持ちはよくわかる。自分で創りだしたデザートや肉料理などは、食べてもあまりおいしいとは思えない。
 途中の露店でミルクも買って、アメリアはおいしく焼き菓子をいただいた。
 食べ終わってしまうと、アメリアは人気のない路地へと入った。
 人の姿がないのを確認してから神気をまとい、人間の目に姿が見えないようにする。そうして、ふわりと宙を舞って、神聖樹フラグーンの枝のひとつへと飛びあがった。
 街の一区画がすっぽり収まってしまうほどの大きな古木だ。下界の人々が、神聖樹と呼んでいるのも納得できる。
 涼しい朝の風が吹きすぎて、梢をざあっと揺らしていく。
「平和で、いい街………」
 そう呟いたアメリアの表情がフッとくもる。
 アメリアには死の気配を感じ取る能力が授けられていた。普段からも、漠然とした予感のようなものを感じたりするのだが、死が間近に迫っている人間のそばに行くと、それは香りとなってアメリアにその人の死を知らせてくる。
 そうして死んだ魂を見つけ、神界へといざなうのだ。
 だが、このあたりでは英雄化を行うに値する死者の魂を見つけることができそうになかった。
 皮肉なことに、平和だから。
 戦乙女であることが少しイヤになるのはこういうときだった。
 平和なことは良いことなのに、自分の仕事は平和なときにはやりづらいことなのだ。
 吹き抜ける風に髪を遊ばせ、アメリアは呟いた。
「セイルーンへ行ってみようかな………」
 さっきの女性がや止めておけと言った国。
 リナがくれた情報によると、大神スィーフィードを祀る大国で、王都は白魔術都市と呼ばれているらしい。もし、そんな国でヴァン神族が何やら画策しているとしたら、これほどアース神族をバカにした行為はないだろう。
 そんなことは許せなかった。
 もしそうでなくとも、アメリアにはヴァン神族を許すことができない。

 (そうよ)
 (だって、あんな………)

 ―――あんな?
 アメリアはまばたきをした。
 何かの言葉が自分の中にわきおこって消えたような気がする。何なのだろう。
 だが、それは一度きりで、思い出すことはもはや不可能だった。