時の旋律 第3章 遭遇

 アメリアは空を見上げると、とん、とフラグーンの枝を蹴った。
 人が見ることもかなわぬような、空の高みをすべるように翔んでいく。
 耳元で風が唸り、眼下の風景がみるみるうちに後方へと流れていった。いくつもの山や河、街や森が地平線から現れ、すぐに後ろへと消えていく。
 そうして、サイラーグのあるライゼール帝国から、ラルティーグ王国を通過してセイルーン王国に入り、もう少しで王都セイルーンへたどりつこうかというときだった。
 アメリアは空中で急停止した。
 六芒星が描かれた美しい都市は、もう視界一杯にひろがっている。
 だが、アメリアはセイルーンに降りようとはせず、空中で静止したまま感覚を研ぎ澄ませた。
 網のようにひろげた感知の手に、すぐに手応えが伝わってくる。
 怒り。悲しみ。恐怖―――
 それら負の感情が混じりあい、鬱々うつうつとした肺がただれそうなほどの気配へと変化する。
 瘴気―――
「魔族がいますね………」
 ヴァン神族のなかでも冥府の女王ゼラス・ヘルの庇護を強く受けた、魔族と呼ばれる異形。
 生あるもの全てに害をなす、この魂を汚す魔物を狩ることも、戦乙女の使命のひとつだった。
 鎧がアメリアの体に音もなく具現化する。
 アメリアは高度を下げ、瘴気の源へと向かった。
 緑色の塊だった森がどんどん大きく鮮明になり、枝の一本一本、葉と葉の重なりまでがはっきりしてくると瘴気の源も、見えた。
 死んだ獣などに負が宿り、異形と化したもの。
「レッサーデーモン!」
 三匹ほどが、何かを追いかけているようだった。枝葉の向こうからチラチラとかいま見えるそれは―――
「人?」
 呟いて、アメリアはその人間とレッサーデーモンの間に降り立った。
「おやめなさい!」
 ぴしっと指をレッサーデーモンに突きつける。
 本当は高いところに登りたかったのだが、それをするとデーモンが自分を無視して、せっかく助けた人間を追いかけていきそうだったので、やめる。
 レッサーデーモンたちが首を傾げたような気がしたのは………きっと気のせいだろう。
「冥府で人の腐肉を喰らうだけでも大罪なのに、このうえ何の罪もない人まで狙おうというの!? そんなことはヴァン神族が許しても、この私が許しません!」
 戦乙女に、人の生死にかかわる権限はない。
 人間だけでなく、この世のものすべての生き死には定めの糸車によって紡がれ、何人たりともそれを侵すことなどできない。運命の三女神であるフィリアでさえも。
 彼女は番人であり、糸車が正しくまわるよう取りはからっているだけ。彼女だけが運命に干渉することを許されているが、よほどのことがない限り、そんなことはありえない。
 だから輪廻を一時的にせよ断ち切る戦乙女は、迎える魂を得るためにわざわざ殺したりなどしない。定めに従って死んでしまった魂のなかから、望む者だけを神界へと連れていく。
 戦乙女は常に傍観者。英雄の死を看取る者。
 しかし、ヴァン神族が生み出す魔族は別だった。
 魔族は負の生命力で生きている輪廻の理から外れたものたちだ。彼らに殺されるということは、定めの糸車に狂いが生じて、正しい死後の転生が行われないということ。
 魔族による死は、正しい死ではない。
 ゆえに、魔族に襲われている場合のみ戦乙女は人を助ける。
 指を突きつけられたレッサーデーモンたちが、アメリアに向かって咆哮をあげた。
 アメリアはそれにかまわず間合いを詰め、呪文の詠唱に入る。
「我。汝、天が行うの裁きの代行者たれば、ゆえに与えん焼滅の光! ヴィスファランク!」
 篭手が白く輝き、大地を蹴って、アメリアは拳をふるった。
 下級のレッサーデーモンである。あっさりと決着がつき、アメリアは魔族が塵と化していくのを見届けながら、鎧を神気へと戻した。人にとっては驚異でも、アース神族たるアメリアにしてみれば、敵ではない。
「正義はつねに勝つんです!」
 ガッツポーズを決めて、アメリアは後ろをふり向いた。
 きょろきょろとあたりを見回して、それほど遠くない木の根元に目的の人物を発見する。うつぶせに倒れたまま、ぴくりとも動かない。
 慌てて駆けよってみると、肩から背中かけてに大きな火傷を負っているのがわかった。レッサーデーモンが吐く炎の矢を受けたのだろう。
 顔にかかる黒髪が邪魔でその表情はわからないが、青年のようだった。
 傷に手をかざし、アメリアは目を伏せる。
「我、乞い願うエイルのその御手みて。真白き癒しのその御技みわざ。願わくば我が前に横たわりしこの者に、いまひとたびの力を与えんことを………リカバリィ」
 アメリアの右手に淡い光がともり、火傷が徐々に癒えていく。
 姿勢を変えても支障がないほどに傷を癒すと、他に怪我しているところはないか確かめようと、アメリアは青年の肩に手をかけて仰向けにした。
 黒髪に隠れていたその顔が、光にさらされる。
 怪我のためにその顔色は青白いが、端正な顔立ちをしていた。
 意識無く目を閉じているから、瞳の色はわからない。
「………え………ッ !?」
 アメリアは意識せず声をあげていた。
 胸が詰まるような、切なさ。
 まるで呪縛のような強い既視感に捕らわれて、身動きがとれなくなる。
 知っている、と感覚すべてがざわめいた。
 自分に宿るすべての記憶が、知っていると騒いだ。
 この青年を知っている、と。
 アメリアは知らずかぶりをふった。
(そんなわけない。下界に来たのはホントにひさしぶりなんだから)
 理性がそれを否定する。だが、すぐにまた別の感覚が湧きおこった。
 その隠された瞳の色を自分は知っている、と。
(そんなわけない。だって、この人の目なんか見たことないじゃない)
 遠い、アメリアの知らない記憶がアメリア自身を浸食していく。
 もうひとりの自分が囁いた。

 ―――青色よ。それも薄い氷のような、きれいな氷蒼色の目なのよ。

(違うってば、知らないってば)

 ―――違わない。知っている。

 風が吹いて、二人の頭上で森の木々が激しく葉を揺らした。森のざわめきにアメリアと青年、二人だけが取り残される。

 ―――前とは髪の色が違う………。

(違わない。初対面だもの。だれと違うっていうの?)

 ―――ほら、前にもこんなことがあったわ。

(何が………あったの………?)
 心のなかの囁きに、ついにアメリアが身をゆだねようとするとした途端、割れるように頭が痛み出した。
「あう………っ」
 耐えがたい痛みに、アメリアは思わず両手で頭を抱えこんだ。
(そう………だ……あれは……、氷色の目をした……人は………)
 何かを手にしたと思った瞬間、少女の鋭い叫びが頭の中に響き渡った。

 ―――思イ出サナイデ !!

「 !! 」
 頭を殴られたような衝撃がはしって、ぐらりとアメリアの体が傾ぐ。
 まわる視界に見えたのは、暮れゆこうとする空だった。