時の旋律 第4章 出逢い

 やわらかな寝具のなかで、アメリアは目を覚ました。
 よく乾いた太陽の匂いのするそれにうっとりを目を閉じそうになって、慌ててぱちぱちとまばたきを繰り返す。
 自分がどうしてこんなところにいるのかがわからない。
 見慣れない天井だった。その古ぼけた天井に、まだ自分が下界にいることを確認する。
 かけられている布団はやわらかく気持ちよかったが、染めもおこなっていない質素な生地でできていた。
 ベッドから身を起こしてみる。部屋は暗い。
 サイドテーブルには白い陶器の水差し。
 客室なのか、使われた形跡のない書き物机と小さな飾り棚が、ベッドとは反対側の壁にあるのが見てとれた。
 部屋は広いが、そうたいした広さでもない。
「えーと………」
 置かれた状況がわからなくて、とりあえず呟いてみる。
 体に異常はないし、服装も変わっていない。ブーツは脱がされていたが、寝ていた以上これは当たり前だった。
「うーん………」
 また呟く。
 窓の外に目をやると、夜空に星がまたたいていた。星明かりの下、いくつかの建物が見えるが、どの窓にも明かりはなく、夜分遅い時刻だということがわかる。
 どうしてこんなところに自分がいるのかわからないが、この家の主人はもう眠っているのではないだろうか。
 ようやっと事の顛末を思い出す。
「そっか………、急に森で頭が痛くなって………」
 あの火傷を負っていた青年はどうなったのだろう。
 もしかして、その人が自分を運んでくれたのだろうか。
「………どうしましょう。お礼を言いたいところですけど、眠ってるでしょうね」
 なら、そのまま出ていく方が得策だ。色々と詮索されては困る。
「うーん」
 アメリアが唸っていると、不意にドアが開いた。弾かれたようにそちらをふり向くと、ランプを片手に、やはり森で助けた青年が立っていた。
「目が覚めたようだな」
 少し低めのやわらかな声。
 優しい、響きの。

 ―――とくん。

 その声に、アメリアの鼓動がはねる。
 懐かしくて、泣き出しそうになる。どうして?
 初めて聞く声のはずなのに。
 急に湧き起こったわけのわからない感情にとまどいながら、慌ててアメリアは口を開いた。
「あの、ここはどこですか?」
「俺の家だ。ついでに言うならセイルーンだ」
 青年は部屋に入ってドアを閉めると、ベッドまでやってきてランプをサイドテーブルに置いた。
「あの……どなたですか?」
「それはこっちのセリフだ。あんたはデーモンか?」
「な………!?」
 あまりの言われように、アメリアは絶句する。
「な、な、なななんてこと言うんですっ。言うにことかいて、この私をデーモンだなんて!」
 アース神族の戦乙女たるこの自分を!
「あまり大声を出すな。今は夜中だ」
 青年は動じた様子もなくアメリアをたしなめる。
「デーモンに追われていたはずなのに、気がついてみればデーモンの姿はなくてあんたが横に倒れてる。おまけに背中を火傷していたはずなのに、いつのまにか治っている。あんたを人間じゃないと思いたくもなるさ」
「だからって、デーモンだなんて………!」
「冗談だ」
「冗談にもほどがありますっ」
「で、一体あんたはだれなんだ」
 真面目な顔で問われて、アメリアは言葉に詰まった。
 何て言えばいいのだろう。
「わ、私があなたを見つけたとき、デーモンなんていませんでした。ただ、あなたがひどい火傷をしていたから、それを治して………、精神力を使いすぎて気絶しちゃったみたいですけど………」
「魔法が使えるのか?」
 かなり苦しい言い訳に、驚いた表情で青年が訊いてくる。
「え、ええ………少しなら」
 実際、下界の魔法はあまり使えない。
「デーモンなんかいなかったというのか?」
「いませんでした」
 まさか倒しましたとは言えない。普通の人間ではデーモンなど相手にできないのだから。
 青年は難しい表情で黙りこんだ。
「まさか、本当に逃げきれたのか………?」
 じっと見つめるアメリアの表情に気がついて、ふっと青年の顔がやわらいだ。
「じゃあ、あんたは俺の恩人だな。怪我を治してくれたんだから」
「え、いえその………」
「名前は何と言う?」
「アメリアです………」
「そうか。アメリア、すまない。助かった」
 顔が真っ赤になるが自分でもわかった。ランプの明かりでごまかされていることを、ただ祈る。
「あ、あの、それでっ、あなたはだれなんですか?」
 青年の瞳が、ランプの明かりを映して不思議な色合いに揺らめいた。その本当の色はいまはまだ、わからない。
 この夜が明けるまでは。
 黒髪の青年はゆっくりと名乗った。
「俺はシグルド。セイルーンの騎士だ」



 翌朝、シグルドが目覚めて自室から廊下に出ると、焼きたてのパンのいい匂いが鼻をくすぐった。
 思わず顔がなごみかけて、違和感に気づく。
 この家には自分しか住んでいない以上、自分が寝ている間に朝食ができるはずがない。もしそんなことがあったなら、それは自分がよほど疲れて幻覚を見たか、まだ夢を見ているかのどちらかだ。
 怪現象(別名ストーカー)という選択肢は、いまのところなかった。
 同僚の騎士キールのように「朝、目が覚めたらテーブルの真ん中にきれいに割られた生卵が置いてあるんだよ………三日続けて。頼むっ、頼むから俺にしばらくお前の夜勤をやらせてくれっ」と言うような目には幸運なことにいまだ遭っていない。
「おはようございます」
 急いで階段を降りてきたシグルドに、黒髪の少女がにっこり笑って挨拶をしてきた。
 昨夜は暗くてよくわからなかったその瞳は月の周りの夜空のような、きれいな濃紺。 
 昨日、森で拾ってきた少女だ。拾ってきたというのも失礼かも知れない。一応、命の恩人なのだから。
 偶然通りかかって、わざわざ倒れていたシグルドの怪我を魔法で癒したあげく、精神力を使い切って当の本人がぶっ倒れたと言うのだから、とんでもないお節介な性分だ。
 何にせよ、そのおかげでとても助かったのは事実である。
「……………………おはよう」
 何となく挨拶を返して、シグルドは我に返る。
「………何をやってるんだ」
「朝御飯です。泊めていただいたお礼に作ってみたんですけど、いけませんでしたか?」
「…………………いや、別に」
 どうぞ、とアメリアにうながされて、シグルドはぎくしゃくとした動きで椅子に座った。
 理由は不明だったが、ものすごく困っていた。
 しばらくして出されたのは、キレイに形の整ったオムレツだった。中を割ってみると、トマトとチーズが入っている。
 割った拍子にふわりと湯気がたちのぼった。
 ひとくち食べて、シグルドは思わず呟いていた。
「………………おいしい………」
「それはよかったです。お料理ひさしぶりだったんで、ちょっと心配だったんですけど」
 嬉しそうにアメリアがそう言った。
 花開くような、笑顔。
 呆気にとられたようにしばらくそれを見つめたあと、我に返ったシグルドは慌てて食べることに専念しだした。
「………ひさしぶりにまともなメシを食った気がする」
 食べ終わってぼそりとシグルドはそう呟いた。食器を下げたアメリアが怪訝な顔をする。
「いままで何を食べてたんです?」
「主に露店で立ち食いをしていた」
「作らないんですか?」
「作れない。あまり作る気もしないな」
「たしかに台所使っている形跡ありませんでしたね」
「茶ぐらいは淹れるがな」
 答えながら、初対面に近い少女にここまで律儀に答えを返している自分自身にシグルドは驚く。
 この少女を気に入り始めている自分に気がついたが、悪い気はしなかった。
 あとかたづけが済んでしまうと、アメリアが決まり悪そうに口を開いた。
「あの………、私もうそろそろ帰ります………。泊めていただいてありがとうございました」
「あ、ああ……そうか………」
 それはそうだ。ここに住んでいるわけではない。成り行きでここに来ることになっただけ。それが過ぎれば、二人はもう何の接点もない他人同士になる。
 何となく、そのことが惜しいような気がした。
 自身の感情にとまどうシグルドが口を開く前に、意を決したようにアメリアが言った。
「あの、それで………、これからも会いに来ても………いいですか………?」
 一瞬、何を言われたのかわからなかった。
 だが、考える前に口が勝手に動く。
「ああ、またな」
 ぱっとアメリアの表情が明るくなった。
「はい、また来ます!」
 嬉しそうに、彼女はそう言った。
 アメリアが去った後、シグルドは思わず顔を押さえて溜め息をついた。
 鏡を見なくても顔が赤いのがわかる。
 ぼそりと呟かれる、途方に暮れた言葉。
「どうしたっていうんだ俺は………」



 セイルーンの王宮で、第一王子のフィリオネルは自らに仕える騎士を出迎えた。
「おお、よく帰ってきた」
「ただいま戻りました」
 膝を折ってそう答えたのは、シグルドだった。
 シグルドがまだ子供だった頃、孤児だった彼が住んでいた街に、たまたまフィリオネルが忍びで訪れた。
 シグルドを見つけたフィリオネルは、何とも無造作に拾いあげて、飢餓と貧困から救い出してくれた。
 そのうえ騎士にまでしてくれた。
 公正で、賢明で正しい人だと、シグルドは思う。
 ………外見はコワイが。
 そのフィリオネルが、声を落としてシグルドに尋ねた。
「して、プライアムのロードは何と?」
 首都セイルーンから北に二日ほど行ったプライアムの街に、シグルドはフィリオネルの密命を受けて出かけていたのだった。
 そして帰りにデーモンに襲われた。理由はわからない。いまの騒動に関係があるのかもわからない。
 シグルドは立ち上がると、フィリオネルにしか聞こえないような声で簡潔に答えた。
「そのような者は知らぬ、と」
「やはりそうか」
 フィリオネルは真剣な顔でうなずいた。シグルドはつけ足した。
「そこのロード・ザイエン。麻薬密売に手を貸していたようなので、ついでに成敗してきました」
「嘆かわしいのう」
 フィリオネルは深々と溜め息をついた。
「そんな輩が領主にまでなっているとは、やはりワシたちが国のことなど放っておいて、くだらぬ兄弟喧嘩をしているせいなのだろう」
 フィリオネルは以前にも起きた継承問題で妻を毒により失っていて、子供もいない。
 そのときの首謀者である第三王子が処断されたいま、彼がいなくなれば王位継承権は自動的に第二王子クリストファのものになり、フィリオネルに子供もいない以上、王家の血統そのものもクリストファのものとなるだろう。
「間違いは正せばいいんです」
 短く、だがはっきりとシグルドはそう言った。
 この人には返しきれない恩がある。今のこの人の苦境を助けることが、少しでもそれに報いることになればいいと、そう願っていた。
「まだ間に合います」
 シグルドの言葉に、フィリオネルはうなずいた。
「おぬしの言うとおりだ。おぬしがせっかく有益な情報を得てきてくれたのだ」
 フィリオネルは苦々しげな表情になった。
「しかし、プライアムのロードが紹介したのではないのなら、あやつはいったいどうやってクリスに取り入ったのだ」
 それは、クリストファ付きの宮廷魔道士でゼロスという青年だった。
 シグルドも一度だけ顔を合わせたことがあるが、怪しいという形容詞がこれほどぴったりくる人物はいないだろうと、つくづくそう思った。
 そのゼロスが来てからだった。王宮でフィリオネル暗殺の動きが出始めたのは。
 これを怪しいと言わずして何と言おう。
 本人もそれを自覚しているのか、王宮の敷地内のクリストファの屋敷に入りびたったままで、めったに表に出てこない。
「俺がいない間、何かありましたか」
「いや、だいじない。たいしたことは起きていない。クロフェルも変わりないぞ」
「それは何よりです。本来ならば、始終あなたの傍にいなければならないのに………」
「何を言っておる。おぬしはちゃんと城の外に家を持っているのだ。それにお主の代わりに夜勤を務めてくれる者もおる。無理などしなくともよい」
 シグルドの背中をバン、と叩いて、フィリオネルはにやりと笑った。
「それはさておき。おぬし、そろそろいい年だが、結婚を約束した娘などはおらんのか?」
 苦笑して首をふろうとしたシグルドの脳裏に、今朝、朝食を作ってくれた少女の顔がぽんっと思い浮かんだ。
 どうしていまここで彼女を思い浮かべたのかがわからず、思い浮かべてしまったこと自体に狼狽して赤面したシグルドを見て、フィリオネルはバンバンとさらに背中を叩いた。痛い。
「そうかそうか。ならなおさらこの事態を解決しないとならんな。ぜひ仲人をさせてもらいたいものだ」
「違います !!」
 シグルドは叫んだが、顔が赤く、あまり説得力がなかった。



 アメリアはそっと目を閉じて、その色彩をまぶたの裏によみがえらせた。
 シグルドの目の色は、淡い淡い水色だった。氷が、氷の上に落とす影の色。わずかに緑を帯びた薄い蒼色。
 氷の蒼の色。
 初めて、朝の光のなかでその色を見たとき、どうしてだか安堵のあまり泣きそうになった。
 理由は、わからない。