時の旋律 第5章 抱擁
それからアメリアはしょっちゅうシグルドの家に遊びに来た。
遊びに来るとは言っても、シグルド自身がフィリオネル王子の王位継承問題で忙しくて留守がちなので、夜シグルドがいるころやってきて翌朝の朝食を作り、他愛ない話をして帰っていく、ただそれだけだ。
堅物で有名なシグルドの家に女が通っているという話はたちまちのうちに同僚の話題に上り、さんざん詮索をされたが、それ以外はおおむね平和に時間は流れていた。
朝食を作る必要などないとシグルドは一度言ってみたのだが、アメリアは頑として聞き入れなかった。どうやら、最初の朝食のときに露店で立ち食いをしていると言ったのが、まずかったらしい。
そうしているうちにシグルドは夜になるとアメリアが来るのを待ち遠しく思うようになった。
そのことに気がついたときシグルドは一人で赤面してしまい、たまたますれ違った王宮の女官に変な顔をされて、さらに赤面した。
だが、悪い気はしなかった。
「シグルドさーん!」
快活なアメリアの声がして、間をおかず居間のドアが開いたとき、シグルドはちょうど剣の手入れをしていた。
自室でやればいいのだが、アメリアが来るのがわかっていたので、わざわざ一階まで降りてきたのである。
居間と玄関とを結ぶドアが開いた途端、すがすがしい花の芳香が居間全体にひろがった。驚いて剣をから視線を外してアメリアを見ると、腕一杯に淡い紫の花を抱えている。
小麦の穂のように、小さな花がいくつも連なって房になっている、可憐な花。
「ラベンダーか………」
やや唖然としたシグルドがそう呟くと、花の影に埋もれてしまいそうなアメリアが不安げな声で尋ねた。
「嫌いですか?」
シグルドは黙って首をふる。
アメリアはホッとした表情で、居間を通り抜けて台所の方へと消えていった。
しばらくして、どこから探しだしてきたのか大きな花瓶にめいっぱいラベンダーを生けて、居間へと戻ってくる。
むせかるほどのラベンダーの香りが居間中に満ちあふれた。
「夕方、花売りのお姉さんが売れ残って困っていたんです」
「それで全部買ってきたのか?」
シグルドが呆れてそう言うと、アメリアはためらいなくうなずいた。
思わずシグルドは苦笑する。
「剣のお手入れですか?」
「ああ」
「じゃあ私、その間に明日の朝御飯を作りますね」
アメリアがそう言って台所へ向かおうとすると、その手をシグルドがつかんで引きとめた。
とまどった顔でアメリアはつかまれた手を見下ろす。
どうしたというんだろう。
「今日は、作らなくていい」
「でも」
「いいから、ここにいてくれ」
アメリアは困りはてて、訊いた。
「どうしてです?」
「朝飯を作ってもらっていると、お前と話している時間が少なくなる」
真顔でシグルドがそう言った。
大真面目に。
アメリアの顔が、一気に赤くゆであがる。
しかし、どうして赤くなるのかシグルドにはわかっていないようだった。自分が何を言ったのか自覚していない。
すごい鈍感だわこの人、とアメリアは心の中で呟いた。
「あ………じゃ、います………」
消えそうな声でアメリアはそう呟くと、シグルドとはテーブルを挟んで向かいがわの椅子に座った。
剣の手入れを続けながら、シグルドが尋ねた。
「いつも夜遅くまで出歩いていて、いいのか?」
「いいんです。私一人で住んでいるんです」
そう答えてアメリアは、テーブルの上のラベンダーに手を伸ばした。
何となく、この花を買ってきた理由を聞いてもらいたかったのだ。
「この花、好きなのか嫌いなのかわからない花なんです」
シグルドが顔をあげてアメリアを見る。
ランプの明かりのなか、淡い紫の花はやさしく揺らめく影をテーブルに落とす。
「嫌いってわけじゃないんです。ただ、この花を見てると………この香りをかいでいると、無性に胸が切なくなることがあるんです。すごく胸が痛くなって、でもどうしてなのか全然わからなくて………。だから、好きなのかどうかわからないんです。大事な花なのは間違いないんですけれど………」
アメリアの指先が触れて房のなかの花粒がひとつ、テーブルにこぼれ落ちる。
あまりに取りとめのない自分の言葉に苦笑して、アメリアはシグルドを見た。
しかし、シグルドは怖いほど真剣な表情でアメリアを見ている。
その視線の強さに、少したじろぐ。
「シグルドさん………?」
アメリアの声にシグルドはハッとしたようだった。すっと視線を手元の剣に戻す。
やわらかな声がそっと呟いた。
「俺もだ………」
「え………?」
「俺も、この花を見ているとそう思うときがある。どうしてかはわからない。でも、この匂いに、自分が何かを忘れているような気になる」
シグルドの瞳が、アメリアを真っ直ぐにとらえた。
鼓動がはねあがる。
たとえ橙色の灯の明かりにかき消されようとも、アメリアはその瞳の氷蒼色を見失ったりなどしない。
そんなことはできない。
時が止まったような静寂が落ちた。凍りついた空間の中で、ただランプの炎とそれに照らし出される影だけが、揺らめく。
シグルドの瞳も、炎にあわせて揺らめいた。
―――どくん。
また、鼓動がはねあがる。
―――その目を、私は、知っている。
満ちる力と無限に交錯する想いが、アメリアに襲いかかった。
映像が、声が、弾ける。
(私は、リナさんたちが帰ってくる場所を守らなければならないんです)
鮮やか舞う血煙。焦げつく大気。灼けた空。
(お前といて、ようやく俺は自分が生きていてよかったと思えるようになったんだ………)
やさしいてのひら。
(あなたが好きです)
ふれるくちびる。
(私です! 私が………ッ !!)
斬りつける刃。握りしめた破片。
(いらない! 私なんかいらない!)
(アメリア!)
血が止まらない。止めたくもない。
ああ、悲鳴が。
「………リア! アメリア!」
シグルドの声に、アメリアはハッと我に返った。
揺らめく炎に照らされて、気遣わしげな表情のシグルドがいる。
「シグルドさん………」
呆然とアメリアは呟いた。
いまの声は。いまの映像は。
幻?
いったい何だというのだろう。
自分は夢をみたのだろうか。
眉をひそめながらシグルドが椅子から立ち上がって、アメリアのかたわらまでやってきた。
「どうした? 疲れているのか?」
「いいえ………」
ぼんやりとした答えしか返せなかった。
シグルドが床に膝をついて、アメリアの顔を覗きこんできた。
「今日はもう帰れ」
「イヤです!」
叫んた自分の声の調子に、アメリア自身が驚いた。
わけもなく涙が溢れる。
さっきの幻の映像と声の残滓に囚われていた。鮮血と刃のイメージがアメリアを縛りつけて放さない。
「イヤです………。そんなこと、言わないでください………」
ただどうしようもなく、不安で、怖かった。
涙を止めることができずにいると、シグルドが抱きしめてくれた。
ぬくもりと抱きしめてくる腕が、たとえようもなく嬉しかった。
声を殺して泣くアメリアを、シグルドは思わず抱きしめていた。
ただどうしようもなく、愛しくて、切なくて。
ふるえる小さな肩からラベンダーの香が淡く立ちのぼって、消えた。