時の旋律 第6章 神界
神界宮殿で、リナはぶつぶつ文句を言いながら、埃をかぶった魔道書をひっくり返していた。隣りではリナよりは控えめに、しかししっかり埃を立てながら、シルフィールが同じ事をしている。
舞う埃が、小さく空けられた天窓からの光をくっきりと際立たせていて、シルフィールはそれに溜め息をついた。
「まあ、リナさん。光の筋が見えてきれいですよ」
「………あ、ん、た、ね〜〜〜! それはあたしたちが、さんっざん埃をたてているからでしょっ」
リナは、憤然と手に持っていた本を放り投げた。さらなる埃がわきあがり、思わず咳きこむ。
とうとうリナはヒステリーを起こして叫んだ。
「読めもしない本の整理なんかできるかっつーの !!」
どの本も神聖文字で書かれていて、リナとシルフィールには読むことができない。
神聖文字の知識は主神スィーフィードだけのもので、そのスィーフィードがいない現在、この文字を読めるのはスィーフィードから知識を受け継いだ、リナの姉神のルナだけだった。
よって、この書庫は事実上ルナだけの書庫になっていて、整理を命じられたリナはかなりいじけていた。
姉神の命令に逆らえるわけはないのだが、姉神しか利用しない(というかできない)書庫ぐらい自分で片づけろというものだ。
もちろんこんな本心など、口が裂けても言わないが。
「やめやめ! えっと違う……やめじゃない、やめないけど休憩するっ。ひとまず休憩!」
そう叫んだリナは、書庫を出ようとした。そのとき。
破砕音が響いた。
水晶が砕け散るような音をリナは全身で聞いたと思った。
それは、下界でアメリアに声と映像が襲いかかった、その瞬間。
「 !! 」
体をこわばらせるリナに、シルフィールが気づいて怪訝な顔をする。
「リナさん?」
リナは蒼白な顔でこくん、と喉をならすと、書庫のドアを突き飛ばすように押し開けた。
足早に出ていくリナを、慌ててシルフィールが追いかける。
「リナさん !? どうしたんですっ」
なかば駆け出しながらリナは応えた。
「アメリアの封印のセキュリティがはずれたわ! どういうことなのかこっちが知りたいわよっ」
シルフィールが息を呑む。
「そんなまさか………。あれはリナさんが特別に施した封印でしょう?」
「でもはずれたわ。いったいどうなってるのよ! アメリアを送ってからまだひと月しか経っていないのに!」
シルフィールはリナがある方向へ向かっていることに気がついて、ますます慌てた。
「リナさん、だめです。水鏡はルナさんしか覗くことを許されていません!」
「じゃ、あんたは来ないでシルフィール。怒られるのは覚悟のうえよ!」
言い捨てて、リナは走り出す。
一瞬、シルフィールは棒立ちになったが、すぐにリナの後を追って走り出した。
神界宮殿のなかでも奥の方にある青緑柱石で造られた扉を押し開けて、リナは無造作に水鏡の泉へと歩み寄った。
水鏡は二次元的な泉で、真上から見てみると波ひとつない水面が存在するのに、真横から見ると空中に『線』が一本横たわっているようにしか見えない。
そのありえない水の底が映すのは、見る者の望む、はるか遠い下界の景色。
後ろから駆けてくる足音に、リナはふり返る。
「シルフィール。あんたまで怒られることないのよ?」
「いえ、いいんです」
黒髪の癒しの女神は、きっぱりとそう言って首をふった。
「わたくしも、アメリアさんを放っておけません」
リナは呆れたように微笑んだ。
「じゃ早くこっち来て。作動させるわ」
リナの指先が、水鏡にひたされた。
神界宮殿の一室。
闘技舞台の上で、ガウリイとルナが剣の手合わせをしていた。
その舞台を降りたところではフィリアがとルークが適当な石段に腰掛けて、二人の練習を見物している。
本当はルークがガウリイと手合わせをしていたのだが、そこにルナが自分もやりたいと、〈闘技の間〉に顔を出したため、ルークがルナと交代したのだった。
舞台の上では、ルナが劣勢においこまれている。
総合的な力なら圧倒的にルナの方がガウリイよりも強いのだが、純粋に剣の技量となるとガウリイの方が上だった。
ルナの打ちこみをガウリイが弾き、体勢の崩れたところに剣を繰り出そうとする。
そのとき、バンッと音をたてて闘技場の扉が開かれた。ガウリイの剣がすんでのところで止まる。
四人が一斉に扉の方をふりむいた。
そこには、こわばった表情のリナと、その後ろでどうしていいかわからないといった表情のシルフィールが立っていた。
ガウリイやルーク、フィリアが事の次第を尋ねる前に、ルナの視線をとらえたリナが叫ぶ。
「姉ちゃん、どういうことよ !?」
「何が?」
落ち着き払った表情でルナはリナに答える。リナの口調には余裕がない。
「アメリアのことよ。封印のセキュリティがはずれたわ、もう! 送り出してまだひと月ぐらいしか経ってないのに!」
その言葉にルナ以外の三人が目を見張った。
ルナが何も答えないのを見て、リナはさらに言いつのる。
「それにあのシグルドとかいう人間よ! 姉ちゃんは、そいつがゼルの転生だって知ってて、アメリアをわざと下界に行かせたの !?」
その場の空気が凍りついた。
「んな、バカな………」
ルークが呆然と呟く。リナは激しく首をふった。
「そいつと会ったから、解けるはずのない封印が揺らいでいるのよ!」
ルナの目元がぴくりと動いた。
「リナ。あんた、水鏡を覗いたわね」
「わたくしも覗きました」
シルフィールがリナの隣りに進み出る。
「でも、ルナさん。どうしてゼルガディスさんが人間に転生していることを教えてくださらなかったんですか。彼が転生しないと知ってたからこそ、私たちはアメリアさんの記憶を封じることにしたはずです」
ルナは剣を鞘に収めて、闘技台から降りた。
「転生は、ほとんど望み薄だったのよ。ダメもとでやってみただけ。千年前の、あのときに」
「姉ちゃんが?」
怖いほどに静かなリナの声に、ルナはうなずく。
「そうよ。フィリアに協力してもらって。やっと今頃、成功したみたいだけど」
全員の視線がフィリアに集中して、運命の女神は慌てて首をふった。
「し、知りませんよ、私!」
「そりゃそうよ。やったのスクルド(未来)だもの」
さらっとルナが言った。ルナ以外の全員の顔が驚愕にひきつる。
運命の三女神のうちフィリア・スクルド(未来)だけは、その司る時の流れの性質上、滅多に表に出てこない。
そして、フィリア・ウルド(過去)とフィリア・ヴェルダンディ(現在)は、互いの記憶を共有できるが、スクルドだけは独立した記憶を保っており、スクルドが何かやっても、それが何なのか他の二人にはわからない。
おまけに、何か特別な、よほど重要なことがないかぎり、自ら表に出てこようとはしない眠ったレアな人格なので、リナもシルフィールも数えるほどしかスクルドに会ったことはなかった。
「スクルドが………」
フィリアが呆然と呟いた。
「だからアメリアを下界に行かせたの?」
鋭いルナの視線に射抜かれて、リナは思わず息を呑む。
「いつまでも眠らせておくわけにはいかないでしょう? たしかに彼が転生せず、存在しない間はそうするしかなかったけれど、転生してちゃんと存在している以上その必要はないわ」
静かにルナは続ける。
「わかってるんでしょう? 千年前の私たちの選択が、ただの逃げと甘えだったことに。私たちにとってもあの子にとっても、いまの状態は良くないわ。
あの子はあんたが思っているほど弱くない。彼がいる以上はね。だから、きちんと乗り越えられるはずよ」
「………じゃ、封印……解く………?」
リナが、頼りなげな口調で尋ねた。
さっきまでの怒りの影はもうない。
「解かなくていいんじゃない?」
ルナはあっさりそう言った。
「きっと自分で取り戻すでしょう。でなきゃ、たいして価値のあることじゃなかったってことよ。あんたもあの子が可愛いんならほっておきなさい」
かなり極悪なセリフをさらりと吐いて、ルナはリナとシルフィールのかたわらを通り過ぎた。
剣を片手にすたすたと扉の前まで行くと、ふり返ってにっこり笑う。
「とりあえず、二人とも覗き見の罰として書庫の整理あと七つ追加決定ね」
この世の終わりのような表情をするリナとシルフィールにひらひらと手をふって、ルナは扉の向こうへと消えていった。