時の旋律 第10章 暗転

「きゃああああああああああああぁぁっ !!」


 夜明け間近の神界宮殿に響き渡った悲鳴に、リナは叩き起こされた。
 たまたま寝台の端の方に寝ていたため、慌てて起きあがろうとしてそのまま床に墜落する。
「〜〜〜〜〜〜っ!」
 ぶつけた腰を押さえていると、サイドテーブルから寝る前に外したブリーシングのタリスマンが落ちてきて、リナの眉間を直撃した。一個、二個、三個。
 四個目は横に転がってよけたと思ったら、後頭部を直撃した。
「〜〜〜〜〜〜っ! ゼロスの呪い? もしかして持ち主に災厄をもたらすってこれなの?」
 この呪符をまきあげたヴァン神族の名前を呟いて、リナは涙目で立ち上がった。
「何なのよ?」
 自室から回廊に出ると、同じく近くに部屋があるシルフィールと出逢う。
「リナさんも聞きましたか?」
「あれフィリアの声よ。しかもヒステリー寸前の」
 そう言ってリナは顔をしかめた。
 ヒステリーを起こすと、フィリアはヴェルダンディからウルドに、いともあっさり人格が交代してしまうのだ。何が原因で悲鳴をあげたのかは知らないが、現場は今頃ウルドの絶叫でけたたましいのではないだろうか。
 そう思うと駆けつけたくはなかったが、そうもいかない。
「とにかく行きましょ」
 シルフィールにそう言って、リナは足早に歩き出す。シルフィールも追いついてきて、すぐに隣りに並んだ。
 フィリアの声がしたのは、おそらく定めの糸車から紡ぎ出された糸が運命を形作っている〈綾の間〉だろう。
 案の定、そちらに向かう途中でリナとシルフィールは、ガウリイとルークに出逢った。
 アリアやミリーナなどは、神界宮殿から少し離れたところにある〈死者の館ヴァルハラ〉に住まっているので、いまの悲鳴は聞こえてはいないだろう。
 四人揃って〈綾の間〉まで来ると、扉の前のルナが四人をふり返った。
「来たの」
「そりゃ来るわよ、姉ちゃん。あんなでかい悲鳴だされちゃ」
「いったい何が起こったってんだ?」
 ルークの問いに、ルナは首をふる。
「私だっていま来たばかりよ。これから扉を開けるところ」
 極細の銀線が幾重にも絡まり重なり、板状になっている扉の前で、リナは声をはりあげた。
「フィリアーっ! フィリア! どうしたのよ !?」
 返事はない。
 焦れたリナが扉に手をかけたとき、外開きのその扉が動いて蒼白な顔のフィリアが顔を出した。
「みなさん………」
 どうやらかろうじてヴェルダンディのままらしい。
「フィリアさん、いったいどうされたんですか? あんなに大きな悲鳴をあげたりして」
 シルフィールの問いに、フィリアは顔を手でおおった。
「ああもう、わたしほんとにどうしていいか………」
「フィリア?」
「いつものように、見回りに来てみたら………」
「来てみたら?」
 オウム返しにガウリイが繰り返す。
 フィリアは落ち着こうと必死になって、深呼吸を繰り返した。ほとんど呼吸困難を起こしているかのようだ。
 もしここで誰かが風船でもふくらませて割ったなら、パニック再発はまず間違いない。
 やった者には、ルナのお仕置きが待っているだろうが。
 しばらくして、ようやくフィリアが告げた。
「とりあえず、ルナさんだけ入ってください」
「ここで待っててちょうだい」
 ルナはそう言って、フィリアが開けた細い隙間から体を部屋の中へとすべりこませた。
 両開きの扉が閉まるまでの間、部屋の様子がちらりと見える。
 白い白い、霧に包まれたような部屋。
「何だってんだよ?」
 ルークが黒に染めた短髪を、がしがしとかいた。
 しばらく経ってから、ルナが銀線細工の扉を開け、なかに入るように四人をうながした。
 入った四人は立ちすくむ。
 ここは紡がれた糸が、運命の導くままに張り巡らされる場所。
 部屋は無限の広さを保っており、扉と床以外の場所すべてに、白い糸がびっしりと張り巡らされていた。
 無限の奥行きを持ち、その全てに糸が巡っているので、まるで霧の中にいるような錯覚を覚える。
 その糸、一本一本がひとりの人間の運命で、それらは互いに絡まりあい繊細な編み目を空間にひろげていた。
 他の糸に触れた箇所。交差している箇所。複数の糸がよりあっている場所。
 それは全て、誰かと誰かの人生が互いに何らかの接点を持っているということだ。敵同士であったり、友人であったり、兄弟であったり、親子であったり………。
 この〈綾の間〉には、普段はフィリアしか立ち入ることができない。
「姉ちゃん、いったい何が………」
 リナの言葉に、ルナはある一点を指差した。全員の視線がそっちへと向けられる。
「なんだ、ありゃ………」
 ルークが絶句する。
「なんかの繭か? なかにガとか虫とかがいたりする………」
「違いますううううっ!」
 ガウリイの身も蓋もない言葉に、フィリアが思わず声をあげた。
 だが、ガウリイが繭と表現したのも無理はなかった。ルナの指差すそこは糸が絡まりあい、もつれあって、不格好な糸玉を形成していたのだ。
「本当なら、この部屋の糸全てレースのようにきれいに綾なされていなければならないんです」
 フィリアが説明する。
「誰かの運命が狂ってしまったんです。そのため、その人にかかわる全ての存在の運命の糸も、もつれてしまっている………」
「でも、そんなに簡単に狂うもんじゃないんでしょ、運命って。魔族に殺されたとしても、それは糸が切れてしまうだけなんでしょ? そう聞いてるわよ?」
 リナの問いには、ルナが答えた。
 顔に手を当てて、深々と嘆息する。
「原因はわかってるわ。やってくれたわね………」
「ルナさん?」
「フィリア、念のため誰の運命がどう狂ったのか読み解いて。三女神の本来の務めよ」
「わかってます」
 フィリアは部屋の中央に歩み寄った。そこには背の高い台座に置かれた透明なオーブがひとつある。
「フィリア、それ何?」
 好奇心からリナが尋ねると、オーブに手を当てながらフィリアは答えた。
「運命の糸の全ての情報を収めてあるオーブです。これまで生まれて死んでいった人間たちの情報すべてが記録されてるんです。さすがに私も運命の糸全部を一人では管理しきれませんから」
 低い唸りとともにフィリアの手の下でオーブが起動し、めまぐるしく明滅しはじめる。
 しばらくしてから、フィリアはオーブから手を離した。光が放たれ、そこに一人の青年の姿が浮かび上がる。
 黒髪に氷蒼の瞳の、端正な顔の青年。
 ガウリイとルークが目を見張った。読み解いた当のフィリアも思わず両手で口元をおおう。
 無理もない、この三人は彼を見るのは初めてだ。
 ルナはやっぱりと溜め息をついた。リナとシルフィールはただ、絶句するしかなかった。
 ルークが、リナとシルフィールの方に向き直る。
「こいつなのか? ゼルガディスが転生した人間ってのは」
「見りゃわかるでしょ。どこをどう見たら、こいつがゼル以外の誰に見えるってのよ。ゼルそのものでしょーが」
 リナが憮然とした表情で答えた。
 髪の色と肌の質感こそ違えど、その容貌は千年前、リナたちとともに時を過ごした仲間のものに他ならない。
「ゼルが転生したこいつが、この糸玉の原因なのか?」
 ガウリイの問いに、フィリアはうなずいた。
「オーブはそう言っています」
 リナが姉神の後を追うように、深々と溜め息をついた。
「ここまで来れば、もう原因がはっきりしたようなもんね………」
「どういうことだ?」
 相変わらず呑みこみの悪いガウリイに、リナは青年―――シグルドを指差した。
「アメリアよ。あの子がこのシグルドの運命に介入したんだわ」
「他に理由が考えられないわね。人間には変えることが難しい運命でも、死の気配を感じ取るあの子が介入すれば、たやすくそれは変えられる」
 ルナの言葉に、シルフィールが顔をこわばらせた。
「それはつまり、ゼルガディスさんの転生であるこのシグルドさんは、下界で死ぬ定めにあるということなんですか!?」
「そうよ」
 ルナがうなずいた。そして、重い口調で続ける。
「私も、最近スクルドから予言を受けて知ったのよ………。ただ、どうにも介入しようがなかったの。運命に手を加えるのは禁忌だし、彼が死んだら、アメリアが再び英雄化して神界へ連れてくるだろうと思っていたから………。
 ―――そうすれば、すべて丸く収まると思ったのよ」
 ルナは滅多に見せない困った表情で、何度目かの溜め息をついた。
 フィリアがオーブに矢継ぎ早に指示を下しながら、言った。
「早くしないと手遅れになります。現在が歪み、続く未来が崩壊してしまいます」
 全員の視線が、宙に浮かぶ糸玉に集中した。
 不格好なそれは、わずかずつではあるものの大きさを増していた。
 運命が狂ったまま『現在』という時が流れているからだ。
 このままだと時間の経過とともに糸玉は肥大し、歪みは修復不可能なものとなるだろう。
「運命には修復作用が備わっています。ちょっとぐらいのミスなら自力で元に戻ってしまいますけど、でもこれは………」
 フィリアがもつれあった糸に目をやった。
「曲げられた運命は、死という最も巨大で避けられないものです。手遅れにならないうちに彼を定めの通り、死なせないと………」
「冗談じゃないわよ!」
 フィリアの言葉に、間髪を入れずにリナが叫んだ。
「アメリアに何て言うのよ! 死ぬのを黙って見てろって !? たしかに下界での死は本当の終わりの死ではないけど、あの子の前でゼルを死なせるの !? それじゃ、戻る記憶も戻んない!」
「リナ !!」
 ルナが叫ぶ。リナはびくりと身をすくませた。
「………これはアメリアの方が悪いのよ。やってはならないことを、あの子はしてしまった。運命のまま死なせて、神界へ連れてくるのがいちばんいい方法なのよ。わかっているでしょう?」
 感情を消し去った声音でそう言うと、ルナはリナたち五人に、順々に視線を移した。
「………リナ」
「イヤよ………」
 リナは子供のように首をふった。
 だが、ルナの声は止まらない。
「女神リナ・フレイア。貴女に命じます。戦乙女アメリア・ヴァルキリーを、至急神界へ呼び戻しなさい」