時の旋律 第9章 再開

 空からセイルーンに直接降り立ったアメリアは、どこかの建物の影で神気を解こうと、姿を消したまま歩き出した。
 街では薄闇があたりをおおい、あちこちで灯をともす人々の姿が見られた。もうすぐ最後の残光も消え去り、濃密な夜の大気でセイルーンはおおわれるだろう。
 アメリアが細い路地裏で神気を解いたときだった。
 路地からわずかに見える大通りの光景の中を、フッと人影が横切った。
 慌てて、アメリアは路地を飛び出す。
「シグルドさん!」
 驚いた表情で、シグルドがふり返る。
 離れていた間、忘れようとしても片時も忘れることができなかった人。
 その氷蒼の瞳。
 とくん、と胸が高鳴った。
 ダメだ。
 アメリアはそう思った。
 この瞳からは逃れられない。離れられない。
 気持ちを整理なんかできない。
 この瞳の前では、女神になんかなれない。
「シグルドさん!」
「アメリア………」
 呆然と呟くシグルドに駆け寄ろうとして、アメリアは立ちすくんだ。
 ふわりと漂ってきた、熟れて腐る寸前の果実のような、甘く華やかな香り。
 風に散らされることなく立ちのぼり、アメリアにだけ伝わるその芳香は。

 ―――死の予兆。

 立ちすくむアメリアに、少し気まずそうな表情でシグルドが近づいてくる。むせ返るような甘い甘い匂いが、さらに強くなった。
「その………ひさしぶりだな」
「はい………」
 うなずきながらも、アメリアはシグルドから視線をそらすことができなかった。
 戦乙女には、死を感知する能力が授けられている。そうして死んだ魂を見つけ、神界へといざなう―――
 それが自分。
 自分がどこにいるのかわからなかった。何をしゃべっているのかわからなかった。
 声が、言葉が、世界が、全てが遠い。
 死ぬ? だれが死ぬというのだろう。
 シグルドが?
 ようやくそこまで思考がたどりついて、アメリアはまばたきをした。
 目の前で、ばつが悪そうに笑っているシグルドが、死ぬ?
 そう、死ぬのだ。この甘い香りは死の香り。戦乙女にだけ告げられる死の前兆。
 突きつけられる現実が、徐々にアメリアの心に浸透していった。
 自分自身にアメリアは問いかける。
(死んだら、どうするの………?)

 ―――決まってるじゃない。採魂するのよ。そして神界へ連れていく。シグルドさんは強いもの。ぜひ連れていくべきよ。

(私が………?)

 ―――他にだれがいるというの。私以外に採魂できる存在はこの世界にいないのに。

(この人が死んで魂になるまで、黙って傍で見ているの? 冷たくなって息をしなくなる、その瞬間まで?)

 ―――そうよ。人の生死にかかわる権限なんかだれにもない。定めの糸車が狂ってしまうから。

 アメリアの暗い心が囁きかけた。
(英雄化してしまえばシグルドさんとずっと一緒にいられる。神だの人間だの、気にしなくてもよくなる。神界で、ずっと一緒に………)
 アメリアはかぶりをふった。
(ダメ………! 神界に連れにきた私を、きっとシグルドさんは許してくれない。騙されたって怒るわ。ずっと嘘をついていたんだもの………!)
 闇の中立ちつくすシグルドの前に現れる、羽根兜の自分など想像したくもなかった。いったいどんな顔で現れればいい?
 激しく動揺するアメリアの脳裏を、フィリア・スクルドの言葉がよぎった。

 ―――戦乙女であることを、忘れないで………。

 あれはこういうことだったのか。
 思わず、両手で耳を塞いでいた。フィリアの言葉が聞こえないように。
(イヤよ !!)
 全身全霊で、そう思った。
(シグルドさんが死ぬところなんか、絶対見たくない! 採魂なんか、したくない !!)
 アメリアは知らないうちにうつむいていた顔をあげた。
 いつの間にか薄闇すらなくなり、あたりは暗く、灯火だけが明るく通りを照らしている。
「アメリア? どうした、具合でも………」
 困ったような表情のシグルドに、アメリアは首をふる。
 吐息ような声で、シグルドに囁いた。
「今日からまた、お家へ行ってもいいですか?」
 きっと泣きそうな顔をしているんだろうと、自分でも思った。
 けれど、決意だけは揺らがなかった。
(この人は、死なせない)


 その、翌日のことだった。
 王宮へ向かう途中のシグルドに、黒い刃が狙いをつける寸前、いるはずのない少女の声がした。
「シグルドさん、後ろ――― !!」


 夜、アメリアの頬にかかる黒髪をすくいあげながら、シグルドが囁いた。
「お前の声が教えてくれたような気がしたんだ。どうしてだろうな」
 アメリアは黙って目を伏せた。
 シグルドの腕が、そっとアメリアを抱き寄せた。
「死なないで、ください………」
 とぎれがちなアメリアの声が、そう告げた。