時の旋律 第12章 涙

 ジジ………と嫌な音をたてて炎が揺らめき、油が残り少ないことをシグルドに知らせる。
 家の外では風が唸り、窓に激しく叩きつける雨の音が聞こえた。
 昼頃から風は強かったのだが、夜には雨が降り出して、まるで嵐のような天気になった。
 こんな天気だから、さすがにアメリアが家を尋ねることもなく、シグルドは自室で明日行われる調停会議の書類に目を通していた。
 首謀者はクリストファではなく、その息子のアルフレッドだった。
 そのことを知ったクリストファがアルフレッドを説得にかかり、それに応じたアルフレッドがゼロスを解雇するという形で、事態は好転に向かっている。
 もうすぐ何の問題もなくなるだろう。
 腰掛けていたベッドから立ち上がり、シグルドは窓の傍に歩み寄った。
 雨と風の具合を確認してから、もう寝ようと思った。
 サイドテーブルのランプの明かりが邪魔で、思うように外が見えない。通りをはさんだ向かいの家は、もうすべての灯火を消して眠りについていた。
 窓ガラスが鏡のように、シグルドの姿を映し出す。
『目の色、キレイですね』
 いつだったかアメリアにそう言われたことを思い出して、シグルドはふと目を細めた。
 自分の容姿に特にこれといったこだわりもないが、彼女がそう言ってくれるのなら、いまの自分でよかったと思えてくる。
 あの夜空が映りこんだような濃紺の瞳を前にすると、不思議と心が穏やかになっていく。
 自分に嘘がつけなくなる。
 この腕のなかから離したくない。
 守りたい。
「………?」
 窓ガラスを前にしたシグルドの表情が、怪訝なものになる。
 次にシグルドは黙って窓から体を離すと、クロゼットの中からありったけのタオルをつかみだした。部屋を出て階段をおりて、居間のドアを開いて、最後に玄関のドアを勢い良く引き開ける。
 弾かれたように顔をあげる少女を見た瞬間、思わず叫んでいた。
「何をやっているんだ !?」
 ずぶぬれのアメリアにタオルを頭からかぶせて、家の中へ入れてドアを閉める。
 乱暴にその黒い髪を拭いてやると、すぐにタオルは水を吸ってしまった。それを放りだして、新しいタオルをかぶせる。
 人形のように突っ立っているその小柄な体は、こわばって冷たい。
「いつからいたんだ?」
 アメリアは小さく首をふって、かすかな声で呟いた。
「いま、来ました………」
「こんな天気のときには来なくていい」
 アメリアが首をふる。
「違うんです………」
 暗がりのなか声がふるえ、泣いていることがわかった。
「どうして泣いている?」
 びくりとその体がふるえた。
「泣いてません」
「無理をするな」
 頬にやったシグルドの指が、あたたかく濡れる。アメリアが狼狽して身じろいだ。
 シグルドは再び尋ねた。
「どうして、泣いている」
「言えません………」
 アメリアが消えそうな声でそう言った。
 シグルドはひとつ溜め息をついて、まだ濡れているその髪をくしゃりと撫でた。
「風邪をひく。中に入れ。火を入れるから、服と体を乾かすといい」
 放り出したタオルを拾い上げて、シグルドは居間へと続くドアを開けた。



 台所の炉に火が入る。
「乾いたら二階に上がってこい。雨もひどいから今日は泊まっていけ」
 そう言って、シグルドは二階に上がっていった。一階にひとり取り残されて、アメリアはぼんやりと揺れる炎を見つめた。
 拭きとりきれなかった滴が、髪からポタリとしたたった。
 冷えた体に、痺れのように炎の熱が伝わってくる。
 濡れた服なんか問題じゃない。いちど神気に戻してから、また服にすれば余分な水などどっかに行ってしまう。濡れた体は拭けばいい。
 ただ、雨に打たれていたかった。
「みっともない………」
 ぽつん、と洩らされた呟き。
 ここに来るなんて、みっともない甘えだ。
 めちゃくちゃに泣いて、濡れて、ここに来て。おまけにその理由は言えないだなんて。
 これではシグルドをバカにしているようなものだ。
 リナの傷ついた表情が、目に灼きついて離れない。
「ひっぱたいちゃった………」
 新しい涙が頬を伝った。
 もう神界には帰れない。
 自分は、自分を愛おしんでくれた人すべてを裏切ったのだから。
 何があっても、シグルドを英雄化して神界へ連れて行くなどイヤだった。アメリア自身にもわからない、心の何かがそうさせた。
 生きていてほしかった。
 体が冷たくなり、その器が朽ちていく様など見たくなかった。
「もう採魂はできない。ミリーナさんが最後ね………」
 自嘲気味にそう呟いて、ふとアメリアは目を見張った。
 ベルとアリアと、ミリーナ。
 目覚めてから採魂したのはこの三人だけだ。
 でも。
 でも、その前は………?
 目覚めたからには眠っていたはず。眠る前、自分はどんな人を英雄化して神界へ迎えたのだろう。
「え………?」
 アメリアは我知らず、両腕で自分の体を抱きしめていた。
 そもそも。

 ―――どうして私は眠っていたの………?

「 !? 」
 記憶の欠落に、気づいたのは唐突だった。
 薪の爆ぜる音が遠ざかり、消える。炎の熱で暖かいはずなのに、どこまでも寒く感じられる、肌。
 いつから眠っていた?
 眠る前に何があった?
 誰がいた?
 何をしていた?
「あう………ッ」
 例の頭痛がアメリアに襲いかかった。ただ割れるようにガンガンと痛い。
 動けない。痛い。
 記憶をたどるのを邪魔するように痛みはひどくなり、耐え難くなる。
「私は、何なの………?」
 ラベンダーの香にからみつく想い。
 ふわりと現れて揺れる、幻の声と光景。
 シグルドの瞳を自分は知っている。
 ぐらりと視界が揺れた。痛みはひどい。ひどすぎて、もはや痛いのか何なのか考えることすらできない。
 踏みとどまろうと、のばされた手は椅子の背をつかみそこねた。椅子が床に転がって音を起てた。その音がさらに頭に響いて痛みを増す。
 椅子と一緒にアメリアも床にうずくまった。
 きつく閉じた瞳から、涙がにじみだした。
「イヤ、よ………。邪魔しないで………ッ」
 自分の記憶をたどらなければ。
 思い出させて。
(私は、誰なの?)
 アメリアの脳裏に、弾けるようにひとつの光景が浮かんだ。


 暴れる自分をガウリイとルークが押さえつける。
 泣くのを無理にこらえた表情で、シルフィールが傷を癒す。自分の体を見てみると、血まみれだった。
 そして、溢れる涙が頬を伝うのを拭いもせずに、呪を唱えるリナの指先がそっと額に触れた。
 意識が遠ざかる。暗くなっていく視界の中で、リナがうなずく。それを受けたフィリアが手をかざし、眠りのルーンが虚空に浮かび上がるのが見えた。
 ただ、記憶に残るのは、涙。


「―――アメリア !?」
 ああ、彼の声がする。
 ずっと待ってた。ずっと焦がれてた。
 やわらかなひくいこえ。やさしいてのひら。
 そのこおりのいろのひとみ。うすくつめたいきれいないろ。
 でも、そのおくはあたたかくて、やさしい。
 なみだのいろって、きっとこんないろだとおもうんです。

 わたし、あなたをずっとまっていたんです…………。