時の旋律 第15章 崩壊

 シグルドは剣をかまえて、正面に立つゼロスを睨みつけた。
 にこやかな笑顔でたたずむゼロスの周囲には、彼に向かっていって打ち倒された衛兵たちの死体が累々と横たわっている。
 今この場に満ちている破壊の空気は、突然だった。
 もうけられた和解の話し合いの場に、何もない空間からゼロスが出現したかと思うと、不可視の力を使って衛兵達を薙ぎ払ったのだ。
 それは本当にわずかな時間の出来事。
 少し離れたところには、呆然とした表情のクリストファとアルフレッドが立っている。
 シグルドの背後にはフィリオネルがいるはずだ。
「困るんですよ。こんな調停の場なんかもうけられては」
 ゼロスが軽い口調で言った。
 まるで、子供にお遣いを頼んで違うものを買ってこられた母親のような、かならずしも本気で困ってはいない表情だった。
 その薄い紫の瞳がアルフレッドをとらえる。
「あなたもあなたです。クリストファさんの説得に簡単に応じて、僕を解雇なさろうとするなんて、あまり誉められたものではないですねぇ」
「僕は、自分の過ちに気がついただけだっ」
「ぜひ間違ったままでいてほしかったですよ」
 ゼロスは小さく肩をすくめた。
「貴様、何が狙いだ !?」
 フィリオネルの叫びに、ゼロスは困ったように頭をかいた。手に持った錫杖がとんとんと、石の床を叩く。
「いや、最近あなたたち人間の世は平和で、ちっとも死者がこっちにこないもんですから、うちの女王さまの機嫌が悪いんですよ。それで僕が、ミッドガルドに混乱を引き起こすよう命令されたわけなんですが………」
 フィリオネル以下、部屋にいる全員の表情が引きつった。
「おぬし、冥府の女王ゼラスの手の者か………」
 ゼロスはにこやかに笑った。
「それでとりあえず、大国セイルーンで争いを引き起こせば、近隣諸国にも飛び火するだろうと思いまして」
「ふざけるな !!」
 シグルドの怒号に、ゼロスが薄く微笑んだ。
「なるべくスマートに力技なしでと思っていたんですが、もう無理のようですね。ま、この場にいるあなた方全員を殺せば、同じ結果にはなるでしょう」
 シグルドは唇を噛んだ。
 自分が仕える王子は、逃げろと言われて逃げるような人物ではない。逃げたところでこのゼロスが追いかけていくだろう。現れたときと同じように、空間を渡って。
 ゼロスは人間ではない。
 剣を構えるシグルドを、ゼロスは無造作に錫杖で指した。
「とりあえず、部外者のあなたからいきましょうか。邪魔ですし。どうやって以前放ったデーモンから逃れたのかは知りませんけれど、今度はそうはいきませんよ」
 ゼロスがそう言って、手にした錫杖をふるった。
 白い輝きが生まれ、解き放たれる。
「シグルド!」
 フィリオネルが叫ぶ。シグルドはゼロスに向かって床を蹴った。
 剣の鋼が、向かい来る光を受けてきらめいた。
 眼前に迫る、白くまばゆい死の力。
 シグルドは不思議と落ち着いた心で、その光をきれいだなと思った。
 剣の柄を逆手に持ちかえる。
 力に灼かれる前にそれを投げつけようとシグルドが渾身の力をこめたときだった。
 剣が手から解き放たれる、寸前。

 ―――いるはずのない少女の叫び。

 時が凍りついたかのようだった。
 あたたかい光と無数のその破片が、部屋を満たした。
 舞い散る羽根のように、シグルドは思えた。
 ゼロスの放った力とシグルドとの間の、何もない空間にひとつの影が滲み出る。
 その背中の光を連ねたような翼が、部屋一杯にひろがった。
 シグルドの視界をつややかな漆黒と鮮やかな濃紺がよぎった。それが何なのか確かめる間もなく、次の瞬間。
 ゼロスが放った白い光にその翼と背を灼かれて、少女が背をのけぞらせた。黒髪が宙を泳ぎ、華奢な腕がシグルドを抱きしめる。
 そして翼はなくなり、光も消える。
 残されるのは一人の少女。
 抱きしめていた腕がほどけて、落ちる。とっさに抱きとめたシグルドの唇から、囁きがこぼれた。
 声もなく。
 唇の動きだけで呼ばれる、腕の中の少女の名前。



 衝撃は一瞬だけだった。
 灼けつくような痛みに死を覚える。
 立ちこめる甘い死の香りのなか、呆然と見開かれるその瞳と真っ向からぶつかった。
 海と夜空の両方を思わせる深く澄んだ濃紺と、熱を奥に秘めた冷めた氷蒼。
 驚愕がその瞳のなかに宿っているのは、どちらも同じ。
 死なせない、傍にいたいと、強く願ったその人の、瞳が宿す魂の色が見えた―――瞬間。
 アメリアの奥で、何かが瓦解した。


  ―――闇のなか、濁る――色彩―――
  ―――血が――柘榴のように―――
  融けて流れる――ふりかかる――あたたかい
  ―――耳元に残る声
  届かない―――唸る風にさらわれて―――
  ―――お願いだから、目を………開けて………


「 !! 」 
 頭の奥。
 隠されていた壁が暴かれ、亀裂がはしる。
 またたく間にそれは崩壊し、すべては怒濤となってアメリアの意識に押し寄せた。
 溢れ出るそれに翻弄されながら、アメリアは目の前の氷蒼の瞳を凝視した。

 ―――………誰?

 膨大な情報はなかなか答えにたどりつかない。
 それでも、宿る魂が答えをくれた。
(見つけた!)
 探しあてた、たどりついた、離さない、抱きしめる――――

「ゼルガディスさん………!」

 その名を、その存在を思い出した途端、崩れて溢れ出した記憶が瞬時に組みあがった。
 薄いベールを剥ぐように、思い出していく風景がある。
 千年前―――

 それは、一面のラベンダー。