時の旋律 第16章 千年後―現在―
「手順は覚えたわね?」
ルナの確認に、リナはうなずいた。その横ではすでにフィリアとガウリイが、リナを待っている。ルナの傍らには、見送りのシルフィールもいた。
「だいじょうぶ。ありがとう、姉ちゃん」
リナが満面の笑顔でそう言った。
青ざめた顔のフィリア(多分ウルドだろう)が何やら文句を言いたげにルナを見ているが、ルナはあっさりとそれを無視した。
「じゃ、行ってらっしゃい」
その言葉にうなずきかけて、リナはぐらりとよろめいた。
水晶の床に倒れこもうとするリナの体を、ガウリイの腕が抱きとめる。
「リナ !?」
支えてくれるその腕を強くつかんで、リナが叫んだ。
「封印が解けた………! アメリアが記憶を取り戻したわ!」
封印の施行者であるリナには、その状態が手に取るようにわかる。
ルナが水鏡を喚び出した。ルナにしかわからないように、その映像にはフィルターがかかっている。
ルナの表情が厳しくなった。
「まずいわ………。シルフィールも連れて、早くお行きなさい」
「姉ちゃん !?」
「いいからさっさと行くっ!」
「はいいいいいっ !!」
リナがシルフィールの手をひっつかむ。
陽炎のような揺らめきを残して、リナたちの姿は消えた。
虚空をひと撫でして、水鏡を消し去ると、ルナはひとり〈主神の間〉で首を傾げた。
「まあどうにか間に合うでしょ………。間に合わなかったら………ゼロスは滅殺かしら。とりあえず」
アメリアの体がシグルドに抱きとめられた瞬間、再び全ての時間が流れ出した。
「アメリア、どうして………?」
呆然と呟くシグルドの言葉にかぶさるように、ゼロスの声がした。
「おや、これはこれは。戦乙女のアメリアさんじゃありませんか。だいぶ長い間お見かけしませんでしたけど、お元気でしたか?
―――というか生きていたんですねえ。てっきり千年前に他の方々と一緒に死んでしまったと思っていたんですが」
「戦乙女だと………?」
シグルドも戦乙女のことは知っている。死者の魂を神界へ誘うという女神。
この腕の中の存在が………?
「そうですよ。彼女は僕たちヴァン神族の宿敵、アース神族の戦乙女。おおかた僕がセイルーンで何かやってることに気づいて、現れたんじゃないでしょうかね」
シグルドの腕の中で、アメリアが何か言おうとして、喘いだ。
ぎゅっとその手が、シグルドの服の袖をにぎりしめる。
「アメリア………」
アメリアは痛みに顔を歪めながらも微笑んだ。
「………ごめんなさい。ずっと嘘ついてて」
「…………」
「戦乙女だなんて、言えなかったんです。………いいえ、言いたくなかったんです」
アメリアは、ふらつきながらも自分の力で立ち上がった。抱きしめてくれていたシグルドの腕から離れる。
「鎧の具現化も忘れていたなんて、私ってかなり間抜けですね………」
自嘲気味にそう呟くと、灼けた背中にかまうことなく、アメリアは鎧を体にまとわせた。
姿の変わるアメリアに、シグルドが息を呑む。
その、氷蒼の瞳。
封印が解けて、戻ってきた記憶のなかと全く変わらない、その色。
間違いなく目の前にいるのはゼルガディス。
髪の色が変わっても、肌の色が変わっても、見失ったりなんかしない。できない。
また逢えた。
生きている。
鼓動を感じた。その温もりも、すべて。
泣きたいほど嬉しかった。
千年前、彼の死を受け入れたくなくて心を壊れるままに放置した。そうでなくとも、あの死のヴィジョンは、世界の全てを拒むには充分な凄惨さだった。
あの、明けてゆく美しい空の下。
菫色の空と大気は、泣きたいほどに透明に澄んで美しかった。
目覚めていく世界に取り囲まれて、ただ独りだけ。
血と腐臭。濁った黒と澱んだ赤。
自分の知らない間に冷たくなってしまった体。
何の予告もなく訪れた死。
千年過ぎたいまでも、体にふるえがはしる。
記憶を封印して眠らせてくれたリナたちの優しさと胸の痛みに、泣きそうになる。
どんなに辛い選択だっただろう。
どれほど自分は愛されているのだろう。
シグルドを後ろに庇って、アメリアはゼロスを睨みつけた。
「下界に混乱をもたらすことは、許しません………! セイルーンから手をおひきなさい!」
「あなたに命令されるいわれは、この僕にはありませんよ。アメリアさんも、僕がハイそうですかと言うとは思っていないんでしょう? ましてその傷で何ができます?」
アメリアは激しく首をふった。
たしかにゼロスは強い。リナでも勝てるかどうかわからない。ましてや、自分ではどうにもならない。
だけど、ここで退けるわけがなかった。
守りたいものが、あるのだ。
「もう誰も殺させません!」
「どうしてです?」
ゼロスは明らかにアメリアとの会話を楽しんでいるようだった。
「死んだ方が、戦乙女たるあなたにとっても都合がいいでしょう? 貴女は死者の魂を神界へと誘う女神なのですから」
アメリアの体がびくりとふるえた。背を向けているシグルドの、その表情が気になった。
だが、同時に見たくないと思った。
もし、裏切られたという目をしていたら、傷ついた光を浮かべていたら。
どうしていいかわからない。
「………………いやです」
吐息のように、アメリアが囁いた。
「私はもう、誰の魂も採魂したくありません。死んでいくのも見たくありません」
「戦乙女とは言いがたいお言葉ですね」
「本心です。それに、ふざけないで。あなたが冥府へと連れていってしまうのに、どうやって神界にいざなうというんです」
「バレましたか」
ゼロスの視線がアメリアの背後へと注がれ、フッとその目が笑った。
アメリアの心に戦慄がはしる。
「ま、いいでしょう」
ゼロスがあっさりとそう言った。
「冥府に逝く者に、戦乙女が一人追加されたからといって何か困るわけでもありません。むしろ、うちの女王さまは喜ぶでしょうねぇ。アメリアさんのことをずいぶん気に入ってるようですから」
「な………!?」
アメリアが絶句する。
「おや、知らなかったんですか?」
「し、知るわけないじゃないですか!」
思わずアメリアは叫んでいた。
ゼロスがくすりと笑みを浮かべる。淡い紫のその瞳は、アメリアやシグルドたちとは異質の冷たい光を宿していた。
アメリアは思わず息を呑む。
そして、何かが壁に叩きつけられる鈍い音とシグルドのうめきに、慌てて後ろをふり返った。
「ゼ―――じゃないああもう何でもいいですっ。シグルドさん !?」
ふり返ったその瞬間に、不可視の圧力によってアメリアの体も壁に向かって叩きつけられる。
「かはっ!」
衝撃に息がつまった。
背中の火傷に激痛がはしる。強打した頭が軽い脳震盪をおこして、視界が一定しない。
採魂の大鎌を呼び出そうとして神界宮殿に捨ててきたことに気がつく。
咳きこんで、壁に手をつきながらアメリアは立ち上がった。
「………はるか、なる……無限の……彼方、より………」
「何の呪文を唱えようとしているのか、まるわかりですよ」
嘲るゼロスの声がして、アメリアは再び壁に叩きつけられた。
左肩が砕ける鈍い音が聞こえた。
痛みと衝撃に気が遠くなる。
不意にその視界が暗くかげった。
くずおれるアメリアとの間に割って入ったシグルドに、ゼロスが軽く眉を動かす。
「何のつもりです?」
「………見ての通りだ。こいつが殺されるのを黙って見ているほど悪趣味でもないし、次に殺されるのを黙って待っているような性分でもないんでね」
「無駄だってことがわからないほど、あなた頭が悪いわけではないでしょう?」
「だからといっておとなしく順番待ちをするほど、あきらめがいいわけではないな」
床に投げ出されたアメリアの手が、ぴくりと動いた。
「………ダメです……、どいてくだ……さい………」
シグルドは後ろをふり返らなかった。
ゼロスが錫杖で床を叩いた。
「なら、お二人一緒と言うことでどうです?」
衝撃が奔った。今度は、上から下に。
のしかかってくる重圧に、高く澄んだ音とともにシグルドの剣が砕け散った。膝が崩れ落ち、立っていられなくなる。
新たに加えられる負荷に、折れた肩に激痛がはしる。
アメリアの喉から苦痛の悲鳴が漏れた。
「やめろ!」
それまでただ傍観するしかなかったフィリオネルが叫んだ。その声を受けて、アルフレッドが剣を抜いてゼロスに斬りかかる。
「邪魔ですよ」
冷たくゼロスがそう言ってアルフレッドを殺すために力を放つ。
だが、その攻撃は当たる直前に不可視の盾によって弾かれた。
「何です !?」
ゼロスが慌てて錫杖をかまえなおすと、不意に声が流れた。
静かで落ち着いた女性の声音。だが、とんでもなく早い口調で言葉を紡いでいく。
「遙かなる無限の彼方より、我呼び覚ます精霊の咆哮。蒼き炎のその力、召喚するは癒しの光の女主人。願いはかない、巡りはそろう。この場にすべての力は満ちたり。いざや来たらん久遠の光!」
ゼロスが対処するひまもなく、空間に声が響き渡った。
「ラ・ティルト !!」
蒼い光の柱が、ゼロスを包みこんで立ちのぼる。
「 !? 」
ゼロスが苦痛の声をあげた。
横薙ぎに払った錫杖が、蒼い光の柱を打ち壊す。
複数の気配が空間を割って、ゼロスの前に現れた。
凛とした声が、いたずらっぽく告げた。
「そろそろ、うちのアメリアとゼルをいじめるの、やめてもらえる?」