時の旋律 第18章 ありがとう

「シグルドさん………!」
 抱きついてくるアメリアをシグルドは呆然と受け止めた。
 展開が目まぐるしすぎて、頭の方が置かれた状況を処理しきれていない。
 わかっているのは、ゼロスがセイルーンから手をひいたということ。まあ、それさえわかっていれば、途中の経過はどうでもいいことなのかもしれないが。
 抱きついてきたのは、まぎれもなく自分に朝食を作ってくれた少女で、顔が埋もれるほどのラベンダーを両腕に抱えて家を訪れたアメリアだった。
「アメリア………」
「はい!」
「怪我は?」
 間の抜けた問いだと自分でも思った。
「シルフィールさんが治してくれました。ゼ……じゃない、シグルドさんも、怪我しているところとかないですよね?」
 濃紺の瞳が、じっと覗きこんでくる。
 慌ててシグルドはうなずいた。
 そこにリナの声が割って入る。
「アメリアー、抱きつくのはかまわないんだけどさ、一応こっちにも注意を払ってくれると嬉しいなあ」
 そこで二人は我に返り、真っ赤になってお互いから離れた。
 シグルドの視線がリナたちに向けられる。
「あんたたちは………?」
「この子の知り合い。あたしはリナ。こっちがガウリイとシルフィールとフィリアよ。下界ではフレイア、トール、エイル、ノルンの方が通りがいいみたいね」
「…………」
 シグルドは思わず眩暈を覚えた。
 どれも聞いたことがある名前だった。セイルーンの神殿では多分、全員がスィーフィード・オーディンと共に祀られているはずだ。
 シグルドはアメリアをふり向いた。
 人の手では為しえない壮麗な細工の羽根兜と鎧に包まれた、その姿。
 アメリアの濃紺の瞳に、怯えのような表情がはしる。
 それが本当はいったい何なのか、シグルドにはわからなかった。
「本当に、戦乙女なんだな………」
 アメリアの唇が何か言いかけようと動いて、結局何も言えずに終わる。
 シグルドの胸の奥でいくつもの想いが渦をまいた。

 ―――どうして、自分の前に現れたのだろう。

 笑顔。
 あの、涙。
 そっと目を伏せて、囁かれた。

『死なないでください』と。

 何故?

 ―――どうして、何度も家に来たりしたのだろう。

 抱きしめた、ぬくもり。
 交わした言葉。
 何かを言わなければと思ったが、うまく言葉にできそうになかった。
 そして、ようやく。
「俺を神界に連れていくのか………?」
 意を決してそう言った瞬間、ごん、と後頭部から鈍い音がしてシグルドは前につんのめった。
 涙目で後ろをふり返ると、リナが立っている。
 手には何やら堅そうなハリセンを持っていた。
 相手が神殿に祀られるほどの女神だということも忘れて、シグルドは怒鳴る。
「………何しやがるっ !? って言うか、どこから出したそんなもんっ」
「生み出したに決まってんでしょ。あたしは女神よ!
 ―――そいで、いまのセリフもっぺん言ったら今度は呪文唱えるわよ」
 地を這うような低いリナの声音に、シグルドは思わずたじろぐ。
「あんた生まれ変わろーが何だろーが、鈍感なのは全然変わんないのね。いままでどこをどうアメリアと過ごしてきたら、そんなふうに言えるのよ? だいたいアメリアが素直にあんたを神界に連れてくることを承諾してれば、こんなクソややこしい事態にはなってないっつーの!」
 まくしたてられた言葉は全然わけがわからなかったが、アメリアが自分を神界に連れていくことを承諾しなかったというくだりだけは、しっかりと聞こえた。
 自分の前で幾度か見せた、泣き出しそうな表情を思い出す。
 死なないでくださいと囁かれた言葉。
 大事な人を傷つけてしまったと泣いた。
「…………!」
 庇われていたことにシグルドは気づいた。
 あの雨も。あの涙も。
 全部、自分のせいで。
 シグルドはアメリアを再びふり返った。
「どうして、承諾しなかった………?」
 さらにリナに張り倒された。
 さすがに今度はキレかけた。
 人が大真面目に尋ねているというのに!
 殺気立った表情でふり返ると、リナもキレていた。
「ああもうっ。イライラするこの朴念仁っ !! ちょっと考えればわかるでしょう !?」
「落ち着けリナっ」
「リナさん、短気はいけません!」
 ガウリイとシルフィールが、暴れ出したリナを取り押さえる。
 フィリアが呆れ返って(ヴェルダンディに戻ったらしい)、リナたち三人を新たに作りだした結界内に取りこんだ。
 いまは邪魔をするべきではないだろう。
 シグルドはアメリアに再び同じ問いを繰り返した。
 戦乙女の少女はそっと目を伏せて、苦く笑った。
「あなたが死ぬところなんか見たくありませんでした。あなたが息をしなくなって、どんどん冷たくなっていくところを黙って看取ることなんて、私にはできません」
「アメリア………?」
 泣きそうな顔で、アメリアは微笑んだ。
「私はアース神族の戦乙女です。これまでに何人も、人が死ぬのを見てきました。そうして肉体が死んで魂だけになった存在を神界へと連れていくのが、私の役目です………」
 でも、とアメリアは続ける。
「本当の死でなくても、死は死なんです。もう、あなたが死ぬのはイヤでした」
「…………」
「それに私、シグルドさんにずっと嘘ついてました。どんな顔で、死んだあなたに会えばいいのか、わからなかった………」

 ―――どうして泣いている。
 ―――言えません………。

「昨日は俺のせいで、泣いていたんだな」
 その言葉に、アメリアが弾かれたように顔をあげてシグルドを見上げた。
「すまな…………」
「謝らないでくださいっ」
 アメリアが突然悲鳴のような声を上げたため、シグルドは思わずのけぞった。
 その頬を紅潮させながら、アメリアがシグルドの袖をとらえる。
「どうしてそういうとこでいっつも謝るんですかっ。これは私が勝手に決めて勝手にやったことなんです! ゼル………シグルドさんが謝ることじゃありません!」
「おい、ちょっと待てアメリア………」
「何ですっ」
 勢いにまかせて噛みつくように言うアメリアに、シグルドはふっと笑った。
 用意していた言葉を唇からすべらせる。
「助けてくれてありがとう」
 濃紺の瞳が、声もなく見開かれた。

 その強さも、弱さも。
 全部。
 心から愛しいと、思えた。

 たとえ、女神でも。