時の旋律 第19章 時の旋律

「話はすんだ?」
 声にふりむくと、イタズラっぽい表情でリナが二人を見ていた。
「リナさん。どうして、助けに来てくれたんですか。リナさん以外に他のみなさんも。フィリアさんまで」
 シグルドを庇うように、アメリアは両手を広げた。
「言っておきますけど、シグルドさんを神界に連れていくのはダメですよ」
「わかってるわよ。あんたそんなにあたしが信用できないの?」
 リナがちょっと拗ねたような表情でアメリアを見た。
「ねえ、ゼル。じゃないシグルドか、いまは」
 呼ばれたシグルドが顔をしかめる。
「さっきから何なんだ。人を別の名前で呼んで」
「驚くだろうけどさらっと聞き流しなさい。あんたの前世はあたしたちとワケ有りでね。よく知ってんのよ。そのときの名前がゼルガディス」
 微妙に表情が揺らいだシグルドを見て、リナがクスッと笑った。
 シグルドの近くまで来ると、アメリアから遠ざけて、その耳元で囁く。
「いま変なこと考えたでしょ」
 リナをすごい勢いでふり返ったシグルドを軽く手をふってあしらうと、リナは再びその耳を引き寄せた。
「確かにそれも事実よ。だけどね、だからって変な勘違い起こすんじゃないの。アメリアはあんたを愛してるわ。あんたの前世をじゃなくて、あんたの存在そのものをね。魂の存在は前世だろうと現世だろうと永遠に変わらないのよ。そこんとこ忘れないで」
 シグルドの表情を見て、リナはさらに意地悪く笑った。
「だってあんたと逢ったとき、アメリアは、あたしに記憶を封印されていてあんたの前世のことなんか覚えていなかったんだもの。それでも、あんたを選んだのよ」
 シグルドから一歩離れて、リナはさっきとはうって変わって穏やかな微笑みを見せた。
 そして一言、大きな声で、
「でなきゃ、戦乙女やめるなんて言わないわよ!」
「リナさん !?」
 真っ赤になったアメリアが叫ぶ。
「いったい何を吹きこんでるんですかッ」
「内緒。
 だから改めて――――シグルド!」
 リナの表情がスッと変わる。真面目な、それでいてどこか確信めいた表情に。
 その真紅の瞳には、あたたかな光。
「あんたは、この子と一緒にいたい?」
 唐突な質問に真っ赤になったアメリアがリナに食ってかかろうとするが、シルフィールがやんわりとそれを止める。
「これからすることへの、大事な確認ですから」
「え………?」
 アメリアは思わず声を漏らした。
 透き通った沈黙が、しずかに空間に降り積もる。
「ああ………」
 吐息のように静かな声がした。
 氷蒼の瞳に宿る、澄んだ光。
 迷いのない口調。
「こいつじゃなきゃダメだ」
「だよね………」
 リナが心から嬉しそうに笑った。
 その栗色の髪が軽やかに宙を舞って、その瞳が今度はアメリアに向けられる。
「戦乙女アメリア・ヴァルキリー」
 喜びに少し泣き出しそうな声が、アメリアを呼んだ。
「リナさん………?」
「アメリア・ヴァルキリー」
「は、い………」
「今更だけど、もっかい訊くわ」
 リナの白い指が、アメリアの頬に触れた。
 そんな二人を、ガウリイたちが、シグルドが見守っている。
 アメリアはそっと息を吐いて、目を伏せた。
「なら、訊かれる前にもっかい答えます」
 リナたちが何をしようとしているのかは、わからない。
 ただ、わかることは。
「世界も未来も、何にだってかえることなんかできません」
 自分とシグルドのために降りてきてくれたということ。
 不安と、それよりも期待と希望で胸が爆発しそうに苦しい。
 アメリアはシグルドを見た。
 何よりも誰よりも、一緒にいたい人。
 羽根飾りのついた兜を脱ぎ捨てる。
 乾いた音をたてた後、溶けるように消え去るそれは戦乙女の象徴。
「要りません」
 アメリアの頬を涙が伝う。
「あなたと共にいられるのなら、ヴァルキリーなんかやめます」
 リナの腕に息が詰まるほど強く抱きしめられる。
「よく言ったわ。それが、信託を実行する合図よ」
 それが何なのかと問うより前に、リナがアメリアから離れてフィリアのところへと戻っていった。
「ウルド?」
「いま、代わりました」
「すべての条件は整ったわ。始めて。今更ぐだぐだ言わないでよ?」
「わかっています。少しは私も信用して下さい。ここまで来たら精一杯やるだけです」
 珍しく落ち着いた表情でフィリア・ウルドがオーブを取り出した。
 その顔から表情が抜け落ちていく。
 オーブを凝視したままで、フィリアは事務的な声を紡ぎだした。
 フィリアの意識はいまここにはない。
 遠く離れた神界宮殿の〈綾の間〉のなかにある。
『定めの糸巻きより、アメリア=エヴ=エデンルージェ及び、ガウリイ=ガブリエフの糸の解凍を開始します』
 アメリアが目を見張った。
 千年以上も聞くことのなかった、人間であった頃の名前だ。
 いったい何が始まるというのか。
「リナさん?」
「アメリア。姉ちゃんから、運命を書き換えるよう命令が出たわ。あたしはそのための力の信託を受けてる。伝言よ。こっちのことはほっといて、いーから幸せになんなさい、だって」
「どういうことですか!?」
 リナがアメリアに向かって、軽く片目を閉じた。
「いくら禁忌だろうと、その気になれば運命だって都合良く変更するってことよ。要はシグルドが死ぬ運命じゃなけりゃいいんだから」
 そこまで言うとリナはクスクスと笑いだした。
「それにねえ、あの糸玉あるでしょう? あんたがシグルドの運命を狂わせてできたやつ。バカでっかくなっちゃってさあ、治す方法がこれしかないのよ。都合がいいことに」
「嬉しそうに言わないでくださいいいいっ!」
 思わず正気に戻ったフィリアが叫ぶ。
「いいからさっさと作業を続ける!」
「ああ、私のカワイイ糸たちが………あやとりするのが唯一の楽しみだったのに……」
「………あんた、余りの糸でンなことしてたんか………」
 ヴェルダンディやスクルドと違い、どうも趣味を持っていないと思ったら。
 リナが汗ジトと共にフィリアを睨んだ。
「余りの、糸………?」
 アメリアの洩らした呟きに、そっちをふり返ったリナは苦笑する。
「あたしもついさっき説明されて知ったばっかりなんだけどね。運命の糸のなかには、四本だけ余分な糸があるのよ。それはね、転生できるのにしないで神界にとどまってる、あんたとミリーナとガウリイとルークの糸」
『解凍終了しました。続いてガウリイ=ガブリエフの糸への上書きを開始します』
 作業に戻ったフィリアの声が、先ほどとはうってかわって静かに響き渡った。
 その手の中のオーブが目まぐるしく明滅する。
「もちろん、神族や魔族に殺されたあたしやシルフィールなんかの糸はないけどさ、あんたやガウリイやルークは真っ当な死に方してるから、いまから人間に転生することだってできる。ミリーナは来たばっかりだから転生なんて当分しないだろうけどね」
『上書き終了。ガウリイ=ガブリエフからシグルド=ルーディングへの変更、無事成功しました』
「ガウリイさん !?」
 アメリアは思わず声をあげる。
 リナのかたわらのガウリイが笑った。
「オレの糸は余り物さ。自由に使ってくれよ」
 アメリアが何か言う前に、フィリアが口を開いた。
『これより過去の糸の修正に入ります。リナさん、いいですか』
「オッケー。しっかり食い止めとくから、さっさとやってちょうだい」
 リナがフィリアと背中合わせに立って、その両手を軽く広げる。
 フィリアがオーブから手を離した。宙に浮いているオーブはそのままに、フィリアの両手が何もない空中へと伸ばされる。
 すぐにその手が何かを手繰るように動いた。
 そのまま指は細やかに動き続ける。
 遙か遠く神界の〈綾の間〉にあるはずの定めの糸と、その糸車へと。
 フィリアの指が動き始めた瞬間、リナの髪が風に煽られたように舞い上がった。
 見えない重圧がかかっているのだと、すぐに理解する。
「リナさん。ホントにどういうことなんですか !?」
「セイルーンの王位継承者に拾われたのは、シグルドの他にもう一人いたのよ。シグルドは殺されたけれど、その人はまだ生きている。そういうふうに過去を変える。シグルドの糸を抜き取って、シグルドの情報を書き込んだガウリイのとすり替える。シグルドは拾われたもう一人になればいい。そうすれば死なない」
 アメリアは大きく目を見張って、次いで激しく首をふった。
「ガウリイさんの未来はどうなるんですか !? そんなのダメです!」
 自分のために何かしてくれるのは嬉しい。
 嬉しいが、そんなのは絶対にダメだ。
 フィリアを止めようとするアメリアの頭に、ガウリイの大きな手がぽんと置かれた。
「いいんだよ」
「ガウリイさん!」
 非難をこめて見上げたその先で、アメリアはガウリイの青い瞳とぶつかった。
「いいんだ。下界にオレの幸せはないから」
 そう答える。その青い瞳の先には、栗色の髪の少女の姿。
 ガウリイの言葉の答えを、アメリアは手にする。
「リナさんは………転生できないから………です、か………?」
 その力が神族の目にとまったリナは、姉と共に定めの糸を断ち切られた。
 女神として在り続けることしか、彼女が存在していくすべはない。
 ガウリイの目が優しく笑った。
「ま、そんなもんだ。いらないものなんだから遠慮なく使え。お前さんも幸せになるべきなんだ」
「ば…………」
 アメリアが子供のように顔を歪めた。
「バカッ。みなさんバカです! 嬉しいけど、すごく嬉しいですけどっ。何だってそこまで……ッ!」
「バカねえ」
 リナがあっさりとアメリアをけなした。
 過去を改変しているフィリアへと向かう、運命の糸の自動的な修復作用と抵抗を防いでいるわりには、わりと平気な顔だった。
 何せ、かなり絶対的な力を有するこれを防ぐためだけに、わざわざルナがかなり力を借し与えたのだ。
 栗色の髪を遊ばせたまま、リナが力強く言い切った。
「あたし結構幸せなの。多分シルフィールとかフィリアとか姉ちゃんとか、神界にいる他のやつらもね。特にルークはあんたのおかげで今かなり幸せでしょーよ。だから、あんただけ不幸なのはヤじゃないの。あんた、もう少し自分にうぬぼれてもバチはあたらないわよ。その倍以上は愛されてるから、確実に」
「…………!」
 もう涙で前が見えなかった。
 泣き崩れる寸前に、シグルドが引き寄せて抱きしめてくれたのがわかる。
 温かい胸。焦がれて、求め続けた鼓動。
 ずっと、共に在りたい。
 フィリアの静かな声。
『シグルド=ルーディングの紡ぐ運命にガウリイ=ガブリエフの糸の挿入、終了しました。続いてガウリイ=ガブリエフの名称から、シグルド=ルーディングへと糸の最終変更を行います』
「ねえ、シグルド」
 ふと、リナがシグルドを呼んだ。
「………なんだ」
「ごめんね。先に謝っとくわ。変更の都合上、シグルド=ルーディングの存在は宮廷争いに巻き込まれて死んだことにしないといけないから、どうしてもあんたの名前を変えなきゃいけないのよ。シグルドと一緒に拾われた、もう一人として」
 リナが何を言いたいのかすぐにわかった。
 また、ここからは見えないその表情がイタズラっぽく笑っていることも。
 アメリアを抱きしめたまま、シグルドは憮然として言った。
「どうせ変える名前は決まってるんだろう?」
「ご名答。いいじゃない、変な名前を最初っから考えるよりは。ま、これぐらいはあたしのワガママ聞いてよ。だいじょうぶ、名前以外何も変えないわ………ううん、名前以外、千年前とあんたは何も変わってない」
 フィリアの声がそれを告げる。
『シグルド=ルーディングの糸、ゼルガディス=グレイワーズへの名称変更開始………終了しました。新たな運命を紡ぎ始めます』
「アメリア。最後のプレゼントをあげる。あんたからは千年前にたくさんの大事なものをもらったわ。これはお礼よ」
 リナが背中合わせに立つフィリアをちらりと肩越しにふり返った。
 フィリアの右手が大きく動く。
 まるで、脇に置いてあった新しい糸を手に取ったかのように。
『ゼルガディス=グレイワーズの糸、すべて紡ぎを終了しました。続いてアメリア=エヴ=エデンルージェの転生を行います。接続先の糸はフィリオネル=エル=ディ=セイルーン………終了しました。アメリア=ウィル=テスラ=セイルーンに名称変更。紡ぎ始めます―――』
 思わずアメリアは叫んでいた。
「リナさん、やりすぎです! 私どうお返ししていいかわからないじゃないですか!」
「お礼だって言ってんじゃないの。お礼にさらにお返ししてどうすんのよ !? いいから黙って受け取んなさい。自分で提案しといてなんだけど、王女と騎士よ? 最強の組み合わせだと思わない?」
 オーブがひときわ強く明滅した。
『過去の変更全て終了しました。続いて現在の調整に入ります。
 ―――ああ、やっと終わりましたあっ! それじゃ後はヴェルダンディにまかせますからね!』
 いままで、まばたきひとつせず虚空を手繰っていたフィリアが、ゆるりと目を伏せてすぐに上げた。
『わかりました。ミスが無いか走査スキャンします………だいじょうぶです。他の糸との調整を開始します』
 凄まじい勢いでフィリアの手が動き出す。
 シルフィールがそっとアメリアの傍に歩み寄った。
「ヴェルダンディのフィリアさんの調整が終われば、この現在は崩れ、新たな過去から全てが再構成されます。アメリアさん………どうか幸せになってくださいね」
「シルフィールさん………」
 アメリアは首をふった。
「私、どうしよう。こんなにまでしてもらって………忘れたくないです。リナさんたちのこと、忘れたくない!」
「転生に記憶は持っていけません。まして、これから無かったことになるもうひとつの現在の記憶なんか持っていてはいけません」
「わかってます。わかってますけど………!」
 アメリアの迷いを断ち切るように、凛としたフィリアの声が響いた。
『調整完了しました。異常ありません。スクルドに後はまかせます。アメリアさん、どうかお元気で………』
 リナがフィリアの背中から離れた。
 完全に変更が済んでしまった以上、運命の修復作用は働かない。
 リナの白い手のひらがアメリアの頬をなぜ、シグルドの背中を叩いて遠ざかっていく。
 リナの元に、ガウリイとシルフィールが集まった。
 フィリアの手が、再びオーブを包みこんだ。
『………はい、まかされました。シミュレーションを開始します………………終了。異常なし。ウルドが珍しく静かでしたね。まあ、あのテンションで仕事されても困りますけど』
 フィリアがアメリアとシグルドをふり返って、微笑んだ。
虹の橋ビフレストではごめんなさい。これは私たち三人からの言葉です―――幸福な未来があらんことを。運命が紡ぐ糸のままに、時の旋律が奏でられんことを』
 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、周りの世界が白く融け始めた。
 リナたちの姿がすぐに霞んで見えなくなる。
 もっと目に灼きつけていたいのに。
 届けられるのは、リナの声だけ。
「じゃ、あたしたちは巻きこまれる前に帰るわ。
 ………さよなら、アメリア」
「リナさん………みんな !!」
 シグルドの腕の中からアメリアは身を乗り出した。
 リナの栗色の髪も、強い真紅の瞳も。
 ガウリイの優しく笑う青い目も。シルフィールの穏やかな笑顔も。
 フィリアが淹れてくれたお茶の味も。
 ルークもルナもアリアもベルもミリーナもみんな。
 ラベンダーの丘の記憶も。千年前の仲間の顔も。
 戦乙女の光の翼も。想いも。
 いままで抱きしめてきた記憶すべてを。
 アメリアは手放した。
「ありがとう。大好きです……… !!」

 たったひとつの恋と、引きかえに。




『逢ってから私、好きだって言いました?』
『まだ聞いてない』
『じゃあ、千年前に言いっぱなしのまんまなんですね』
『らしいな。覚えちゃいないが』
『もうすぐ私も忘れます』




『でもその前に、千年前のゼルガディスさんと目の前のシグルドさんと、そしてこれからも永遠に変わらないあなたに、言います』




『―――あなたが、好きです』