楔―くさび― 第二章

 切り開かれた森は木々がまばらで、月光がきちんと大地まで届いている。
 幾筋もの月光と、それに照らされて濃い影を作る樹木の間を縫うように、あてもなくリナは歩いていた。
 なんだか地面がふわふわしているようで頼りない。実際に頼りないのは自分自身の感覚なのだろうが、木立の奥の暗がりがまるで異界への入り口のように見えた。
 ちょうど、日溜まりのように月光が集まっているところで、リナは立ち止まった。
 ―――日光だと日溜まりだけど、月の光だと何て言うんだろ?
 とりとめもなくそんなことを考えながら、リナは木立の上まで顔を出した月に背を向けて立った。地面に落ちた黒い影を凝視する。
 まるで、影におかしなところがないか確認するように。

 ガウリイたちもそろそろ気づき始めている。隠すこともできなくなるはずだ。
 だけど、何て言えばいい?
 自分自身よくわかっていないのに。

 リナは小さくかぶりをふった。

 いや、何となく想像はついている。心当たりはひとつしかない。
 だけど、それをどう言えばいい?
 あまりにも途方もなくて、怖くて、言えない。
 言ったところで解決のめどが立つとも思えなかった。
 いっそ、巻きこんでしまう前に迷惑がかかる前に、このままセイルーンで別れて―――

 リナは溜め息をついた。
 自分の気持ちも、考えも、よくわからない。ごちゃごちゃだ。
 いったい自分はどうしたいのだろう。
 自分の望みは何なのだろう。
 自分自身がわからない。
 全てがわからないまま、ただ漠然とした不安だけが大きくなっていく。

 そっとリナは月を見上げた。
 薄い雲が出てきたようだった。月にふわりとおおいかぶさって、満月はぼやけた朧月へと姿を変える。
 それを見ながら、リナはゆっくりと目を閉じて、思い出す。
 たった一度きりの、理性が弾け飛んだ、あの瞬間を。
 世界も、自分自身すらも、たった一人のためならいらないと、心から思えた瞬間を。
 自分はとうの昔に、選んでしまっているのに、いまさら何を迷っているのだろう。
 よみがえる記憶と共に、ゆるりと不安が足下から這いあがってくる。
 あのときの恐怖は、自分でないだれかがいなくなる恐怖。

 そしていまは、自分が自分でなくなる恐怖―――
 ………そばに、いられなくなるかもしれない、という予感―――

 小枝を踏む乾いた音に、リナは静かに目を開いた。




 切り開かれている森は、木々がまばらで、地面につもっているはずの落ち葉もあまり見当たらない。本来なら木々にさえぎられて光の届かないはずの森の中は、街道に近いおかげで伐採されて、月の光がふんだんに木々の間に入りこんでいる。
 木立を少し行くと、リナの姿はすぐに見つかった。
 月の光を浴びるように、ひとり立っている。
 名を呼ぼうとして、ガウリイは声を失った。
 うつむいていたリナが、不意に月に向かって顔をあげたからだ。雲がかかったらしく、急に弱くなった月光をその顔に受けて、そっと目を閉じる。
 その表情があまりに無防備で、声をかけるのを、ためらった。
 リナは嘘をついている。
 昼間の戦闘で、リナは呪文を増幅などしなかった。ただ、いつも通りに呪文を唱えていただけ。
 なのに、いつもの倍以上の威力があった。
 それが何を意味するのかガウリイにはわからなかったが、リナの様子が最近おかしいことに、関係があることだけはわかる。
 まるで何かに怯えるかのように、その真紅の瞳がときどきかげる。
 一人で全部抱えこんで、立ちつくしているリナを見ていると、理不尽な怒りが湧いてくるのがわかった。
 自分はそんなに頼りないんだろうか。
 リナは瞑目したまま動かない。
 このまま消えてしまいそうに思えて、歩み寄ろうとした足下で、小枝が乾いた音をたてた。
 リナが、目を開く。
 すぐにガウリイの姿を見つけると、気まずそうに笑った。
「やだ、いたの?」
 ガウリイは黙って近寄ると、持ってきたリナのマントを頭からかぶせた。
「早く戻らないと、風邪をひくぞ」
 子供扱いするなと怒り出すかと思ったが、マントを引きはがしたリナは、小さくうなずいただけだった。
「ん、わかってる」
 ガウリイが小さく溜め息をついた。
「リナ、ほんとうに変だぞ。どうしたっていうんだ?」
 リナがガウリイのをちらっと見上げて、その真剣な表情に、はぐらかすのをあきらめた。
 ちょっとだけ吐息をもらして、ゆっくりと歩き出す。マントと髪が、夜風にひらひらと揺れた。
「確かにここんとこ調子がおかしいのは自分でわかってる。でも、どうしておかしいのかは、あたしにもわかんないのよ」
 ―――いま言えるのは、ただそれだけ。
「昼間の呪文も関係あるのか?」
 ―――やっぱりガウリイは気づいてたか。でも、どうして? あたしはあんたの何だから気づいたのよ。
「………わかんない」
 ガウリイに背を向けたままリナは答える。
「リナ」
「あんなこと初めてだもの」
 ふり返ってそう言うリナの声は、頼りなかった。
 淡くぼやけた月の光が、リナの瞳に映りこんで、あり得ないような朱金の輝きを宿す。
 それがひどく不安を誘って、ガウリイは思わずリナの腕をつかんで引き寄せていた。
「な、に………?」
 リナがひどく面食らった表情で訊いてくる。その瞳は月の光から外れて、いつもの輝きを見せていた。一瞬前までの自分の不安が先走りすぎていたような気がして、ガウリイは慌ててつかんでいた手を離す。
「いや、何でもない」
「………変なの」
 心持ち赤い顔で、リナがそっぽを向く。
 それを見て、ガウリイは少し笑った。
「何よ」
「いや。調子悪いんなら、もう戻ったほうがいいぞ」
 ちょっと可愛いな、などと思ったのだが、口が裂けても言えない。
 ガウリイの言葉の、言外のニュアンスには気づかずに、リナは首をふった。
「もう少し、ここで考え事してる。先戻ってて」
「何を考えるんだ? 自分にもわかっていないんなら考えるだけ無駄だろう?」
 リナがむっとした表情になる。
「それ以外にも、あたしにだって考え事することはあるわよ」
「たとえば?」
「それは―――」
 ちょっと困ったようにリナが口を開きかけた。

 ―――その表情がこわばる。