楔―くさび― 第三章
ガウリイの問いをはぐらかして答えようとして、リナは息を呑んだ。
ガウリイが見えない。視界が消失していた。
いや、違った。周囲全てが、様々に彩られた〈力〉で表現されていた。
目の前にいるはずのガウリイさえも、青く穏やかな光の塊。
経験がないわけではない。ガウリイたちには黙っていたが、最近こんなことが頻繁に起きるようになっていた。
隣りに眠るアメリアが、〈気〉の塊に。コップにたたえられた水が、水の精霊力に。揺らめく炎が、火の精霊力に。
通常の視界に混じって、力が視えるようになっていた。
けれど、普段のものとは桁が違う―――!
視界全てが、精神世界面からのものになっている。
それは言ってしまえば、魔族の視点。
指先にちりちりとふるえが走った。
「おい、リナ?」
怪訝そうなガウリイの声。
―――ドクン。
異変を察したガウリイが、リナを引き寄せようと手を伸ばす。その手を押しのけようと、リナは身をよじった。
髪が夜風にひるがえる。金と栗色。
ガウリイの手が、リナの腕をとらえた。
―――ド、クン………!
リナは目を見張った。びくりと体がふるえる。
「リナ !?」
「ガウリイ、離れ………ッ」
忠告は最後まで言うことができなかった。
瞬時にふくれあがった衝撃波がガウリイを吹き飛ばした。
音はなかった。というよりも、あまりの轟音に、ガウリイの耳が音として認識しなかっただけなのかもしれない。
受け身もなにも取る暇もなく、後ろに生えていた何本かの木にしたたかに打ちつけられる。
それは、意識を失っていたのだとしても否定する気になれないほどの、密度が濃く、脈絡のない瞬間だった。
視界が暗くなり、息が止まる。意識を保っていられることが奇跡に近い。
リナを中心に放射状に土砂が吹きあがり、大地に亀裂がはしった。
木々が巻きこまれ、次々となぎ倒されて、わきおこる地割れに呑みこまれていく。
痛みすらない激しい衝撃のなかで、ガウリイはただ一人の名前を呼んでいた。
守る、と誓った少女の名前を。
「リナ―――!」
衝撃波はなおもガウリイに襲いかかる。
リナが何に怯えていたのかを、ガウリイははっきりと悟った。
それは、自分自身でも制御しきれない、肥大した魔力。
「リナ―――!」
名を呼ぶ声を、リナは混濁した意識の中で聞いた。
(………だれ……?)
すでに視界も意識もヴェールがかかったように白く、遠い。
わずかに、頭の奥でちりちりと痛みともつかない警告がなりひびく。
すでに映るはずのない網膜に、わずかだが、それでもはっきりと焼きついたものがあった。
光の泡……違う。鮮やかな陽光……煙る空気を透かしてようやく見える光の筋のような……きれいな、髪……―――青い、瞳。
(………ガウリイ?)
粘質の液体の中でもがいているような意識の奥が、ずきんと痛んだ。
(………傷つけたく、ない……)
自分のせいでガウリイが苦しむのは、もういい。
自分の傍にいるかぎり、ガウリイはどんどん傷ついていく。
大事なものを無くしてしまう。光の剣だって。
全てに巻きこんでしまう。
その優しさにすがってしまう。
(傷つけたくない!)
亀裂の奔る、乾いた音をリナは聞いたと思った。
「リナ―――!!」
足下が崩れ、開いた奈落に呑みこまれる。
意識を失う瞬間、リナは自分が笑ったような気がした。
泣いていたような気も、した。
好奇心と心配でやきもきしていたアメリアは、ガウリイとリナが消えた木立の方から、奇妙な感覚を拾いあげた。
まるで、水がわきだす瞬間のような―――
「え………!?」
アメリアがゼルガディスの腕の中に抱えこまれるのとほぼ同時に、破裂するような轟音が、夜の静寂をうちやぶった。
すぐに衝撃が二人を襲う。
「きゃああぁっ!」
「黙っていろ、舌を噛む!」
防御の呪文を唱える余裕もなく、二人はただ嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。時間がひどく遅く感じられる(別の意味でもアメリアの心臓はばくばくしていたのだが)。
ようやく、はじまりと同じように唐突に力の奔流が止まり、あたりは微かな鳴動を残して静まり返った。
それからしばらく間があって、ゼルガディスがアメリアの上から退き、かすれた声でたずねる。
「だいじょうぶか、アメリア?」
うなずきながら身を起こして、アメリアは息を呑んだ。
「ゼルガディスさん、背中………ッ」
「気にするな」
「む、むちゃ言わないでください! いま、治しますから!」
言いながらも、アメリアは声がふるえてくるのを止められなかった。
ゼルガディスの背中には、大きな傷ができていた。先のゼルガディスの動きから、骨や腱に異常がないことはわかるが、それすらも奇跡に思える。
岩の肌を持つゼルガディスでさえこんな傷を負うほどだ、彼が自分をかばってくれなかったら、いまごろどうなっていたかわからない。
泣きそうになるのをムリヤリこらえて、アメリアは復活を唱えだした。
……ぴたん…………ぴたん……
したたり落ちる水音だけが規則正しく響くなか、濡れた黒い岩肌が、濃い闇をあたりに作りだす。
激しい力によって森の中央に生じた陥没は、そのまま地下水脈が流れる鍾乳洞へとつながっていた。鍾乳洞のうえに陥没ができて、外とつながったと言った方が正しいのかもしれない。
ごつごつした岩の上に横たわったまま、リナはぼんやりと虚空を見つめていた。
少しでも体を動かすと、激痛がはしる。心臓の鼓動、血の流れにあわせて、頭ががんがんと痛んだ。
背中にあたっている尖った岩肌の感触も、肌をなでる生温い湿った空気も、そのどちらもはっきりとわかっているのにどうしてだろう、どちらもひどく遠い。
何か、液体につかっているような濡れた肌の感触もしたが、もう自分のことではないような気がした。
視界は暗い。外気の匂いがしない。
体が、ひどく熱い。
不意に、かたわらにだれかが降り立った気配がした。
視界が暗いため、その姿はよくわからない。だが、だれかはわかった。
「何の用………ゼロス」
空気に溶けそうな囁きだった。
「なかなか良い格好ですね」
ゼロスの皮肉に笑おうとして、リナは咳きこんだ。しゃがみこんだゼロスがじっと観察しているのがわかって、不愉快だった。
「見物し終わったなら………さっさと………どっか行きなさいよ………」
くつくつと喉を鳴らして笑ったゼロスの指が頬に触れて、何かをぬぐいとっていった。
おそらく、血を。
「治してさしあげましょうか?」
「いい」
「そう即答しなくても………」
「いいったら……いい………」
ゼロスがこんなことを言い出すなんて、絶対にろくなことがない。
「でも、このままだと動けませんよ。だれかが治してくれるまでは。それどころか放っておくと死にますよ、貴女」
「…………」
「それとも―――」
ゼロスの声が笑みを含んだ。
「だれかが来るのを、待っているんですか?」
ずきん、と胸が痛む。
また、傷つけてしまった。
また、巻きこんでしまった。
会う資格なんか、自分にはない。
心中を呼んだかのように、ゼロスが囁いた。
「僕なら、だれかが来る前に、治してあげられますよ………?」
ゼロスの声がひどく聞き取りにくかった。開けても見えない目を、リナは閉じる。
「で……何を……狙ってる、わけ………?」
「いやですねぇ、ただの親切心ですよ」
ゼロスの見ているなか、リナの表情がなんとも言えないものになる。不味いモノを食べて、吐き出すなと言われた子供のような表情だ。
ふ、と吐息が湿った空気を揺らした。
失血のために意識が薄れてきたリナは、苦笑したようだった。
「あんたの……親切心、なんて……ぞっとしない……わね………」
眠るように意識を失ったリナを抱きあげて、ゼロスは遙か上を見上げた。
もうすぐ彼女の仲間たちが、彼女を助けに降りてくることだろう。
「都合良く意識をなくしてくれて、助かりますよ」
空間を渡る前に、ゼロスは手早くリナの怪我を癒す。いまのリナの状態では、空間を渡ると本当に死んでしまいかねない。
ゼロスは愉快そうに笑った。
本当に、この人間の少女を見ていると、飽きるということを知らない。
「親切心というよりは、同病相哀れむというやつですよ………。なんたって、いまの貴女は、僕たちのほうに近いんですから」
ふわりとゼロスの姿は闇に溶け消える。
二人の消えたそこには、ただ、血の匂いの残滓。