楔―くさび― 第五章
三人の前には、ひときわ巨大な岩塊が横たわっていた。落石の衝撃で縦横にヒビの入ったそれの大部分が、ライティングを受けて黒く光っている。太陽の光のもとだと赤く染まって見えるのだろう。
だが、それだけだった。
鮮やかな血の跡だけを残して、いるべきはずの姿がない。
「リナさんは !? 」
「俺たちが来たとき、すでに血の跡だけだった」
ゼルガディスが屈んで、血だまりに指をひたす。
「まだ、そう時間はたっていない。流されたばかりの血だ」
ガウリイが歯を食いしばってあたりを見回す。今にも駆け出しそうな衝動を必死で押さえている。
立ち上がったゼルガディスが、アメリアにもっと強い明かりを生み出すように言う。
「おかしいと思わないか、アメリア、ガウリイ」
「何がです?」
強い明かりに照らし出された、血だまりを指差して、ゼルが続ける。
「仮にこれをリナの出血だとすると、その肝心のリナがいない」
「移動したんだろ?」
「血の跡も残さずにどうやってだ?」
アメリアとガウリイは息を呑んで、血だまりの周囲に目を走らせる。たしかに血の跡は、ひたひたと一ヶ所にあるのみで、他にしたたっていたり、こすれて乱れていたりするところはない。血のついた足跡もない。
「第一、これだけ失血していれば、貧血で動くことすらできないはずだ」
命にかかわる、とはさすがに口に出せなかった。出さずとも、アメリアもガウリイも直感的にそれはわかっているだろう。
「じゃ、じゃあ、どうしてリナさんはいないんですか?」
まるで懇願するような口調で尋ねるアメリアに、ゼルガディスは首をふる。
「そこまではわからん。だが、俺たちの知り合いにも一人いるだろう。何の痕跡も残さずに、あちこち出現できるやつが」
ゼルガディスがそこまで言ったところで、ガウリイが不意に小石を拾って鋭く指で弾いた。
ぱんっ!
小石が何もない空中で、粉々に弾け飛ぶ。
「やれやれ、気づかれてしまいましたか。こちらに移動してきた直後に気づくなんて、やっぱりガウリイさんは勘が鋭いですねぇ」
ここで顔を合わせるつもりはなかったんですけどね、とゼロスは内心で舌を巻いた。
「ゼロスさん!」
アメリアが声をあげる。
「ゼロス、リナはどこだ」
虚空に浮かぶゼロスに、ガウリイが押し殺した声で尋ねる。
「おや、何のことです?」
「しらばっくれるな。お前が動かさないかぎり、あそこからリナが動けるはずがない」
ゼルガディスはそう言うと、腰から剣を抜きはなった。
「おやおや、乱暴な人ですねぇ。残念ですけど、あなたがたと事を構える気はいまのところありません。そんなことをするとリナさんを怒らせてしまいますからね」
「やっぱりあなたが、リナさんをどうにかしたのねッ」
「失敬な。治療できるところまで移動させただけですよ。さすがにあのまま放っておくと死んでしまうところでしたからね」
アメリアの糾弾にも、ゼロスは笑って答える。
「じゃあ、治療がすんだなら、さっさとリナをこっちに寄こせ」
ゼルガディスの言葉に、ゼロスはあっさりと首をふった。
「それはできません」
「どうして !? あなたやっぱりリナさんに何かするつもりなのねっ」
「リナさんが、あなたたちには会いたくないとおっしゃったからです」
三人の動きが凍りつくのを見て、ゼロスはくつくつと喉で笑った。正しくは、勝手にゼロスがそう推測しただけなのだが、あながち間違ってもいないだろう。
「考えてもごらんなさい。いくら死にかけているとはいえ、僕が治療することをリナさんが快く承諾すると思いますか? あとで何を言われるかわからないのに」
「お前が自分でそれを言うな」
ゼルガディスの憮然とした突っこみをさらりと受け流して、ゼロスは続ける。
「リナさんが、僕の治療を受ける気になったのはただひとつ。あなたがたに会いたくないからです」
「そんなわけがあるか!」
ガウリイが怒鳴る。
「何だって会いたくないなんて、リナさんが言う必要があるんですか!?」
「そんなことまで僕は知りませんよ。リナさんは教えてくれませんでしたから。ただ、そうおっしゃるので、ご希望に添うようにしたわけです」
「それで、リナのご希望に添うことは、お前が受けた命令にどんなプラス要素があるというんだ?」
ゼルガディスが静かな口調でゼロスを問いつめる。ゼロスは会心の笑みを浮かべた。
「これだから、リナさんの周りの人間は僕のお気に入りなんです。リナさんを含めてね」
「で?」
「どうせ、それは秘密なんですよ。ゼルガディスさん」
むくれた口調でアメリアがそう言うと、ゼロスはいささか表情をひきつらせた。
「た、確かに僕は獣王さまのご命令で動いていますけど、リナさんを助けたのは、ほんの親切心からです」
ゼルガディスがげんなりした顔で言った。
「魔族の口から、親切心などという言葉を聞くとは思わなかったぞ。貴重な経験だが、二度はいらん」
「きっと裏があるに決まってます!」
ゼロスはそれを聞きながら、ふわりと遠ざかった。ガウリイが剣を抜き放つ。するりと半身が空間に滑りこんだ。
「待て!」
「そろそろリナさんの意識が戻るので失礼しますよ。会いたいのなら、会いに来ればいいでしょう?」
ガウリイが投げた剣がゼロスを貫く寸前、ゼロスの姿はかき消えた。
遠くまで飛んでいってしまった剣を拾って戻ってくる間、ガウリイは終止無言だった。
普通の剣である以上、たとえ当たったところで何のダメージも与えられないことはわかっているが、それでも、投げずにはいられなかった。
ゼロスが空間を渡った先は、巨大な地底湖だった。
この鍾乳洞の洞窟の最深部。時の彩なす白い鍾乳石と、暗い湖面が闇の中で美しいコントラストを見せている。
ゼロスが降り立ったのは、地底湖のなかに浮かぶ、岸に近い小さな島の上だった。
やわらかな明かりが、横たわる影を照らし出す。
血の気のない頬。やわらかな栗色の髪は、いまは色素が抜け落ちて、美しい白銀に変わっている。魔力が無制限に放出されたためだろう。
普段は強い光を放つ、鮮やかな真紅の瞳はぼんやりとして、その焦点があっていない。
「リナさん」
ゼロスの呼びかけに反応して視線が動くが、ゼロスの姿をきちんと、とらえきれてはいないようだった。
「………なんだって……あんたがここにいるわけ………?」
「ひどい言いぐさですね。いわば僕はリナさんの命の恩人ですよ?」
リナは顔をしかめた。
「なら、もっときちんと治しなさいよ………。頭痛がひどいわよ………」
「おや、それは失礼しました」
ゼロスの指がリナの額に触れる。リナの表情が穏やかになる。
「起きあがれませんよ。なくした血は、体が作りだすしかないですからね」
リナがわずかに体に力をこめたのを見て取ってゼロスがそう言うと、リナはそれ笑い飛ばした。
「だからといって、しばらくあんたの為すがままってのは、冗談じゃないわよ。何されるかわかったもんじゃないわ」
「実にリナさんらしいお言葉です」
リナのかたわらに座りこんだゼロスが、錫杖を抱えたまま笑った。
「ですが、いまは何もしませんよ。どうせなら貴女の体調が元に戻ってからのほうがいいですからね」
リナは目を閉じて嘆息した。
「ま、あんたがそう言うんならそうでしょうよ。ホントのことは言わないけど、嘘もつかないしね」
「いやぁ、それほどでも」
「ガウリイたちは?」
「おや、会いたくないのではなかったのですか?」
「………いつ、そんなこと言ったのよ?」
「いや、そんなご様子でしたから」
リナは沈黙してしまう。
「別に、何もしていませんよ。三人ともお元気でした。ところで、リナさん。もうしばらく眠っていただけませんか?」
「………何よ、それは」
「いや別に、ただ街のほうに移動しようと思うんです。すぐに貴女の体調が回復するわけではないですから」
「だったらそうすればいいじゃない」
「いいんですか?」
リナが瞳を開いた。今度ははっきりとゼロスの姿をとらえる。
「だから、何が?」
「動けないでしょう? 抱きかかえますよ?」
「……………」
真っ赤になったリナの口がぱくぱくと何か言いかけて、結局閉じた。
「抱きかかえて宿屋に入って、そこのご主人にあらぬこと無いこと言ってて恥ずかしくなるようなこといろいろと」
「あんたねえええぇぇっ !! 」
そのまま放っておくと憤死しそうなリナの顔を眺めて、ゼロスはにっこり笑った。
「いいんですか?」
「…………………………………絶対寝てる」
ぼそりとリナがそう言った。
「おや、そうですか。残念ですね」
「…………」
「では、おやすみなさい」
ゼロスの指が額に触れるのを見て、リナは何事か毒づいたが、すぐにその瞳は閉じられる。
ゼロスには、鍾乳洞を出るべきか否か相談していたガウリイたちが、結局こっちのほうへ向かってきていることがわかっていた。
「ガウリイさんたちが来る前に移動しましょうかね」
そう囁きかけると、リナの表情がわずかに歪んだような気がした。
またしてもガウリイたちに残されるのは、気配と、明かりのみ。