楔―くさび― 第六章
リナが目を覚ますと、古ぼけた木の天井がまず視界に入った。
「………?」
どうして自分がこんな見知らぬところにいるのかがわからず、眉をひそめてベッドから起きあがる。
「ここ、どこ………?」
「プラメアの村です」
声とともに黒衣の神官が部屋に現れる。
「ゼロス!」
記憶がよみがえってきて、リナは顔をしかめた。ゼロスに助けられたというのは、あまりいい気持ちではない。
「なんだってプラメアなのよ。あと二つ三つ街越えればゼフィーリアじゃないの」
「いや、こっちが近かったものですから」
「嘘つき」
一言でそう切り捨てると、リナはベッドを降りて立ち上がった。まだ足下がふらつくが動けないほどではない。窓のところまで歩いていって、鎧戸を押し開ける。
きらめく星空が視界に入った。中天にかかる少し欠けた月に首をかしげる。
「あれから何日たってるの?」
「二日です」
軽くリナは目を見開いた。
「二日も寝てたの? 呑気ね、あたしも」
自嘲気味に吐息で笑うと、リナは部屋を出ていきかけて、ドアのところでゼロスをふり返った。
「助けたついでに下でご飯おごってくんない? おなかすいちゃったし、あたし荷物なんか持ってないから文無しなのよね」
ゼロスの呆気にとられた表情を見ながら、リナはつけ足した。
真紅の瞳が挑戦的に光を帯びる。
「あんたの話もついでに聞いてあげる。あたしに用があるんでしょ?」
ゆっくりと。
ゼロスの顔に笑みが浮かんだ。
「さすがです、と言いたいところですが、まあ、あれだけ暴走すれば気づきますか」
リナの後に続いて階下に向かうゼロスにはリナの表情はわからない。
「いまはまだ普通にお腹が減るのよ。多分これからもね。あんたの思うとおりにはいかないわ」
「そうでしょうか」
リナがくるりとふり返った。
「その話は、ご飯を食べながらにしてちょうだいね」
「はいはい。おごらせて頂きますよ」
シチューしかないというので、そのシチューのお代わりを連発しているリナの真向かいで、ホットミルクを飲みながら、ゼロスは話を切りだした。
一階の食堂には夜も遅いせいもあって、リナとゼロスしかいない。宿屋の主人は厨房のほうに行ったままだ。
これから始まるリナとの会話を楽しみにしている自分がいることをゼロスは自覚する。
「じゃ、単刀直入に。リナさん、魔族になりません?」
「絶対ヤダ」
よく煮込んであるニンジンをスプーンで割りながらリナが即答する。
「ま、あんたのことだからそんな命令受けてて、あたしを助けたんだろうけど。お断りね、そんなこと」
「もうすでにあんなことになっているのにですか?」
リナの表情が剣呑なものになる。ゼロスはかまわず先を続けた。
「あれでは、魔族になるのもそう遠い未来ではありませんよ?」
ゼロスの言葉に、不意にニヤリとリナが笑った。
ゼロスは思いっきり面食らう。
なぜ、ここで笑う?
リナは唇の端をあげたままゼロスを見つめた。
「ふぅん、じゃあどうして、このまま放っておけば魔族になりそうなあたしのところに、あんたはのこのこ姿を現したのかしら? あんたがあたしの背中押さなきゃ魔族になんないから来たんでしょ?」
「…………」
笑みが浮かぶのを止められなかった。
この人間の少女と会話をするときは、主である獣王やそれに並ぶ力を持つ存在と話をしているときと、まったく同じ感覚がする。何の力も持たぬ人間なのに。
頭の回転の速い相手と言葉を交わすのは楽しい。丁々発止のやり取りの、その緊張感が癖になるのだ。
手こずりそうな予感は見事に当たり、それを喜ぶ自分がいる。仕事のしがいがありそうだと。
「やっぱりただの人間じゃないですねぇ。その通りですよ。どうやって背中を押すのか具体的なことは教えてあげませんけどね」
「ええ〜っ、ちょっとぐらい、いいじゃない」
ゼロスは苦笑した。
「〈楔〉が邪魔だとだけ言っておきますよ。でも、それだけです」
最後のシチューをスプーンですくい取って口に運んでしまうと、リナは面白くなさそうに鼻をならした。
「あ、そ。じゃ、別のこと聞くからいいもん」
「何をお聞きになりたいので?」
「あたしが魔族化している理由」
自分の変化をはっきりとそう言い切れるのは、この人間の持つの強さなのだろう。
「知らないんですか?」
「なんとなく予想はつくけどね。あんたと答え合わせでもしようかなあ、と思って。ついでに精神世界面についてお勉強もしたいし。こんくらいは教えてくれたって、あんたの仕事には差し障りないでしょう?」
早くも栗色に戻りかけている髪を背中に流して、リナは目で笑う。ゼロスには、その背後の肥大して歪んだ魔力が視えた。
「いいでしょう」
譲歩している自分に気がついて、ゼロスは苦笑した。
「現在のリナさんは、世界への存在の仕方が魔族に近くなっています。具体的には、僕たち魔族が精神世界面から貴女に攻撃ができるほどに、リナさんの魔力は肥大しています。
―――御安心を。人間ごときにしませんよ、そんなこと。魔力の肥大の源は、ずばり貴女の肉体です」
リナの目元がぴくりと動いた。
「肉体が魔力に変換されているんです。だから、肥大している魔力と言うのは、最大キャパシティが大きくなったわけではなく、もとは貴女のカラダの一部であるものが上乗せされているというわけです。そろそろ肉体の存在感が稀薄になってきているでしょう?」
肉体を動かしているという意識があまりないはずだ。そのため、五感によって自己の存在を確認する人間であるリナは、自分自身をも稀薄に感じているだろう。
まるでこの世界に融けていってしまいそうな感覚を。
魔族である自分には慣れ親しんだ感覚だが、リナはそうもいかないだろう。
「あたしは現状を聞いてるんじゃないの。それくらい自分でわかっているわよ。理由を知りたいの」
「あの御方との接触でしょうね、おそらく」
うやうやしくゼロスの口からすべり出た言葉に、リナは顔をしかめた。
「貴女は一度そのカラダにあの御方を降ろしています。何か名残のようなものがあったとしても全然不思議じゃありません。それが第一の理由」
「二つ目は?」
「多分、あの御方のミスじゃないかと」
ずるっとリナの肘がテーブルから滑った。
「ミ、ミスううううううっっ !? 」
「はい」
ゼロスが涼しい顔でうなずいた。
「貴女は、あの御方を召還したときに、精神が一度、始源の混沌に還元されているでしょう?」
「そんなの知らない。憶えているわけないでしょ」
憮然とした表情でリナがそう告げる。
「ともかくあの御方はそうおっしゃいました。まあ気まぐれで再構成してくれましたから、いまリナさんが僕の目の前にいるわけですが。その再構成が完璧じゃなかったんでしょうねぇ」
「あたしがこんな大変な目にあってるのが全部あのパツキン大魔王のミスのせいなわけっ !? 」
「パ、パツキンって………?」
ゼロスが絶句していると、リナはテーブルを叩いて立ち上がった。
「冗談じゃないわよ。手ぇ抜いたあげくにこの有様なんて!」
「ま、まあ、あの御方にしてみれば、海のなかに落として溶かした角砂糖を、探し当てて元に戻すようなものでしょうからね」
ゼロスの目がすがめられる。
「それに、完全に貴女のせいでないとも言い切れませんよ?」
「………どういうことよ?」
リナの表情が剣呑なものに変わる。先ほどから微量に存在していた負の感情が急激にふくれあがっていくのがわかる。
「じゃあ、どうして急に最近、魔族化の速度が早まってきていると思います? 僕が動き出すほどに。言っときますけど、あなたの変化、僕はすでに闇を撒くものとの戦いのときから気づいてましたよ。獣王さまへの結果報告にそのことを付け足したら、今回の命令が下ったわけです」
ゼロスはテーブルの上に組んだ両手に顎をのせて、リナを見つめた。
「僕たち魔族はしょせん精神生命体です。貴女たちの言い方を借りるなら、心―――つまり意志の力が全てなんですよ。貴女の存在の在り方が変わろうとしているのは、自己存在に不安を抱いているからです」
「…………」
「リナさん最近何をお悩みで?」
がたりと椅子を鳴らしてリナが立ち上がった。
怒り。不安。恐怖。やわらかな霞のような美しい負の感情。
それらを発散させながら、リナは一言だけ告げた。
「寝る」
「おや、ここまで言わせておいて逃げようっていうんですか」
「あたしが悩んでたほうがあんたにとって都合がいいんでしょ。お悩み相談室なんかやってんじゃないわよ、バカ魔族」
リナの後に続いて階段を上りながら、ゼロスは薄く笑った。その酷薄な魔族の笑いをリナは見ることができない。
「僕の利益になったとしても言いたくないというわけですか。ありがたくそのお心遣いをちょうだいしておきますよ」
肉体の稀薄な感覚も、自己の揺らぎに拍車をかけ、ますます悩みは助長する。
この少女はこのまま放って置いてもいいだろう。
問題は――――
彼女の仲間たち。
いまは自分のことで手一杯のこの人間の少女が、仲間の存在に気づく前に。
何とかしなければ。
「リナさん」
「何よ?」
めんどくさそうにふり返ったリナは、ゼロスに手首をつかまれて目を見張る。
「な………!?」
驚いたのは一瞬だけだった。すぐにくらりと視界がまわる。
「あ……っ、う――――」
つかまれている腕を押さえて、リナはその場に膝をつく。その耳元にゼロスは囁いた。
「ほら、こうやって肉体同士が触れるだけで、ダイレクトに僕の魔力が伝わってくるでしょう? カラダが精神の媒介でしかなくなっている証拠です」
「ゼ……ロス……!」
「このまま魔族になっておしまいなさい」
囁かれる言葉も、もはやリナの耳には届いていなかった。
ゼロスにつかまれている手首から、這いのぼるように伝わってくる魔族の負の力。
まるで毒のある美酒を注ぎこまれているような酩酊感がリナを支配する。闇の深淵をのぞきこむような。暗い歓びに満ちた、重い感覚。
このままでは、引きずられてしまう。
「はなして………ッ!」
ゼロスがつかんでいる手首の辺りの空間が、わずかにブレた。
目を見張って、次に笑みを浮かべてゼロスは手を離す。
リナが床の上に崩れ落ちる。それを見下ろして、ゼロスは拍手をしてみせる。
「ほんとに貴女はすばらしいですね。もう精神世界側から攻撃ができるんですか」
びくりとリナが身を強張らせた。
「ますます貴女を魔族に引きこみたくなりましたよ」
「………魔族になんかならないわ」
「いつまでそう言ってられますかね。それではお休みなさい、リナさん」
部屋のドアを閉めると同時に、ずるずるとリナは床に座りこんだ。
心臓が早鐘のように、めちゃくちゃに鼓動を打って、止まらない。
『もう精神世界側から攻撃ができるんですか』
ゼロスの言葉が耳から離れない。
無意識だった。ただ、ゼロスの腕から逃れたくて、離れろと願った。
それだけだったのに。
「あ………」
リナは頭を抱えこんだ。
どうすればいいのかわからない。ただ怖い。
最初に気がついたのは、闇を撒くものとの戦いのさなかだった。自分の中の魔力が大きくなっていることに気が付いて、戦慄した。
しかし、あの死闘のなかで、それは利にこそなれ、驚異ではなかった。
だが、本当にいつからなのだろう? いつから、これほど急激に異変が起き始めたのだろう?
リナは必死に記憶をたどる。
もう三ヶ月ほど前から視覚の異常は起きていた。三ヶ月より以前に何があった?
「あ、たしか………」
思い出した。四人で小さな仕事をひとつ片づけた。町外れの遺跡に住みついたアンデットを倒してくれと頼まれた。何の変哲もない普通の依頼。
遺跡の中には予想以上にアンデットの数が多かった。
だけど、ガウリイに光の剣はなくて。
おまけに呪文を詠唱中の自分をかばって、ガウリイは怪我をした。治癒ですぐに治る程度の軽傷だったけれど。
―――あたしのせいでまた迷惑かけた。もう光の剣はないのに。
光の剣がなくなったからといって、ガウリイが弱くなったわけでは、もちろんない。だが、それでも心に重いしこりが残った。
―――剣を探すって理由なんか作らずに、ガウリイの負担になる前に別れてしまえばよかったのかな。
そう、思った。
「それが……原因なの……?」
呟いてリナは首をふった。過去の記憶のなかでだけの思いが全ての原因で、なおかつ今の悩みにつながるとは限らない。
『リナさん最近何をお悩みで?』
―――悩みって、この魔族へと変わっていく体のことじゃないの?
『言いたくないということですか』
言いたくても、言えない。
―――だって、魔族化への不安がその答えじゃないんなら、あたしはいったい何を悩んでいるというんだろう?
「だいたい、何に悩んでいるか自分でわかっているなら、こんなにややこしくしてないわよ………」
ぼそりとリナはそう呟いた。
漠然とした不安感を抱えているうちに、体に異変が起きて、異変のせいで悩んでいるのか、違うことで悩んでいるのかわからない。
ゼロスから伝わってきた、あの禍々しい負の気配の感覚がよみがえってきた、リナは唇を噛んだ。
あのまま、精神世界面からの攻撃をしなかったら、きっと今頃、引きずられて魔族になっていた。
ゼロスは、自分が魔族になることを承諾するまで揺さぶりをかけてくるだろう。
―――どう対抗すればいい?
リナはよろめきながら立ち上がった。
ぱんっ、と両手で自分の頬を叩く。
「一体何をやっているの? リナ・インバースともあろう者が」
自分が自分を喪失していることぐらいわかっている。らしくないことも。抜け出すために足掻かなければいけないことも。
だけど、自分自身と向き合う勇気が、いまは持てなかった。
逃げだということはわかっている。
だけど置かれた状況を打破することのほうを優先したかった。体を動かしていたかった。
いまは、魔族化を―――ゼロスを止めることの方を、何とかするべきだ。
ヒントはたった一言、ゼロスの洩らした言葉。
『〈楔〉が邪魔だとだけ言っておきますよ』
………〈楔〉?
不意にリナの目が鋭くなった。何かが記憶にひっかかる。
だが、どうしても思い出せず、そのことにいらだった。
暗い怒りが自分自身を焼いていく。
リナは、テーブルの上の水差しを両手でつかむと、頭上で傾けた。暗い部屋のなか水音だけが派手に響く。
頬を、顎を、水滴がしたたり落ちていく。
彫像のようにリナは微動だにしない。
「頭を少しは冷やしなさい。見苦しいわよ、リナ」
自分自身にそう呟いて、リナは首をふった。
早鐘のような鼓動。堂々巡りの思考。
さぞかし今の自分はゼロスが喜びそうな感情を放っていることだろう。
許せないのは自分自身。
迷っている自分が。弱さを見せる自分が。
自信のない自分が。
何よりも、そのことに向き合えない自分が。
「大嫌いよ !! 」
こらえかねたようなリナの叫び。
泣き声だった。